2007.05.07
第34話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(3)」海神れい

そこは、カラフルな立方体がつくりだす地下迷宮だった。

青い空が見えているのに地下迷宮というのもおかしい気はするが、まあいい。そういう設定ということにした。立方体の高さは背たけの倍以上ある。ジャンプしてもてっぺんに手が届かない。配置は乱雑で、あいだにできた路地は屈曲し見通しがきかない。迷宮と呼ぶにふさわしい場所である。……空は邪魔だけれど。

そういえば、中世の城塞都市は、敵の侵入を防ぐためにわざわざ細く曲がりくねらせてあったと兄さまが言っていた。ここもそんなものなのかもしれない。兄さまは博識だ。

即席の剣と盾を構え、立方体の隙間にできた狭い道をずんずんと進んでいく。草むらで行き止まりになった。枯れてカーキ色になった草が膝の高さまで密生している。踏み込んだ。ささくれ立った先端がむきだしの脚をくすぐった。こそばゆくて気持ち悪かった。

こういうときには剣を使うのだっけ。枯れた草にむかって垂直に剣をふるってみる。がさりと音がして、乾燥した茎が散る。金属の塊は重い。何回か振っていると手がつりそうになったのでやめた。残念ながらここは行き止まりだ。振り返る。陰になった場所につぼが置いてあった。きっとこれは、割るとアイテムが出てくるつぼだ。ラッキー。行き止まりには福がある。

ところが、いくら力を込めてもつぼは持ち上げられなかった。背景の一部なのかもしれない。期待したのにがっかりだ。なんてできの悪いアトラクションなんだろう。ぶつぶつ言いながら引き返した。

左手の法則に従うことにして、来た道と反対方向へ歩く。ひとつの立方体は穴が開いていて、中をのぞくことができた。どうも、立方体の側面についている潜水艦の飾りみたいなものはドアだったらしい。無人の室内で、3台の洗濯機がうんがうんと動いていた。舞台の裏側を見てしまったようで居心地が悪い。早く正規のルートに戻らないと。こういうとき、ななほしがいてくれたら便利なのだけれど、どこかに行ってしまった。まあ、どうせななほしはアトラクションに入れてもらえないのだが。

もちろん、いまいるのは荒川の中州であり、アミューズメントパークではないことはわかっている。右手に握っているのはゆうしゃの剣じゃなくて包丁の進化形っぽい刃物だし、左手にぶら下げているのは盾じゃなくてまないたの切れっぱしだ。コンテナ状の立方体はおそらく人が住んでいるところだということも理解している。理解はしているのだが、ときどき、目の前の現実と頭の中で発生した設定の区別がつかなくなることがあるというか、むしろ積極的に設定のほうを重視しなければいけない気分になることがあるのだった。

クラスの子に聞いてみても、そういう気分になる子は他にいないらしかった。なんで、と聞かれてもわからない。なんでそういう気分にならないのかをこっちが聞きたいくらいだ。こういう自分を、母はたいへんに心配しているようだし、兄さまは難しいことを考えているっぽい。だけれど、そういう区別がつかなくなる状態は嫌いではない。楽しいから。

心が自由であるのはいいことだとお医者さんは言っていた。脳が機能解析され、肉体の一部となることで現代人はますます動物に近づいてしまったけれど心は依然として自由だとか、空虚で無意味でやくたいもないことに熱中できるからこそ人間は人間なんだとか。よくわからないがそういうことだ。詳しくはそのお医者さんに聞いてほしい。

それにしても、エンカウントがなくてつまらなかった。地下迷宮といったらモンスターをばっさばっさ倒すところだろうに。このアトラクションはぬるすぎる。責任者が出てきたら兄さまに説教してもらおう。

しばらく行くと、ぬかるんでいるところがあった。沼地のようだ。

アミューズメントパークに何度も通っている男子が自慢していたことを思い出した。たしか、毒の沼地のどこかにゆうしゃのしるしが隠されているのだった。伝説では、そのしるしを長老か誰かに渡すと、魔物の島へ渡るための橋をかけてくれるそうだ。もちろんそれはアトラクションの話だ。しつこいようだがそんなことはわかっている。だけれど、魔物の島から脱出して兄さまのところへ行くときもその橋は必要なのではないだろうか?

うん、いいかんじになってきた。冒険に宝物はつきものだし。

ぬかるみを、靴の底で探りながら進む。そろそろと。息をつめて。お気にいりの靴が泥まみれになったが平気だ。ゆうしゃはそんなことを気にしない。

つまさきに、こつん、という感触があった。泥の中から角ばったなにかが姿をのぞかせている。指先で、そうっと、つまんでみた。板ガムの半分ほどの大きさのカードだ。泥のにおいが鼻をついた。目をこらした。古いメモリーカードだった。

ゆうしゃのしるしも電子化の時代なのだった。せちがらい世の中になったものだ。近くの葉っぱで泥をこそぎ落とし、ポケットにしまった。すると、前方からBGMが聞こえてきた。この迷宮に入ってはじめてのBGMである。足音をたてないように近づいた。かすかな衣ずれの音がBGMに混じっているのがわかった。

やっとモンスターか。待ちかねた。

立方体の陰に身をひそめた。剣をちょっとだけ突き出し、側面に向こう側を映してみる。うまく映らない。映画みたいにはいかないものだ。顔を出してのぞいてみた。ゴーグルをつけた人物が、BGMに合わせて奇妙な踊りをおどっている。ダンスにしては動きがゆるやかだし、かといって太極拳の類にも見えない。いかにも魔物っぽいステップだ。まちがいない。

鈍色に光る包丁の化け物を頭上に構え、なにも知らず踊る人影に背後から忍び寄った。

2007.05.08
第35話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(4)」海神れい

鈍色に光る剣を頭上に構え、なにも知らず踊るモンスターに背後から忍び寄る。

狙うはクリティカルヒットだ。モンスターの頭部は高いところにある。斬り下ろしではうまく届きそうにない。下段からの円月殺法を選択。円月殺法ってなんだか本当は知らないけれど、殺法というからには強力な攻撃のはずだった。

「えい」
すっぽ抜けた。

包丁の化け物は弧を描いて飛んでいき、重力に従って落下を開始、回転しながら金属質の光を散らす。BGMの音声源であるスピーカーの真横に突き立った。びりびりと震えた。攻撃は失敗だ。どうもこの武器とは相性が悪いらしい。反撃に備え盾をしっかりと握りしめた。

「わ!」

一拍遅れてモンスターがびっくりした。日本語のようだ。振り向いてゴーグルをはずした。目が丸い。細身の女性だ。動きやすい機能性のスウェットに身を包んでいる。朝起きてコーヒーを飲む前の母に雰囲気が似ていた。ショートの髪が、汗に濡れた頬にへばりついていた。
「ええと……なに?」
「むむ。モンスターじゃなくて村人なのか」
「まあ、たしかにここは村と言えなくもないから、村人と言えば当たらずとも遠からずだけど……モンスター?」

「わたしの武器を返してくれ」
「えっと、これが武器?」
スピーカーの横にぶっ刺さっている鋼鉄の板状物体を村人は見やった。
「そう」
「じゃあ、もしかしてそっちに持ってるのは盾なのかな」
「もちろんそうだ。悪いか」
「悪くはないけど……これが武器ってのはどうなのかなあ」
「だめなのか?」
「これがニュース番組で報道されたら、武器のようなものとは言わないんじゃないかな。バールのようなものじゃないだろうけれど、かといって武器でもない気がする。少年少女の情操教育にもよくないだろうし。ちょっとここで待ってなさい」

そう言うと、村人は近くの立方体の中に入っていった。しばらくして出てきた。
「これと取り換えてあげるよ」

村人の女が持っていたのは、見た目もちゃんとした剣だった。手にしてみるとすごく軽い。カーボン素材でできているっぽい。ためしに振ってみると、シュキーンという小気味好い電子音がした。握り手も手になじむ。これはなかなかの業物(わざもの)だ。
「いいのか?」
「いいよ。むかし開発でもらったんだけど、どうしようかと思ってたところだから。そっちの盾も貸してごらん」

ポケットから取り出した大型のホチキスで、村人は盾に取っ手をつけてくれた。これで、指でつまんでいなくてもよくなった。素晴らしい。ゆうしゃのしるしを見つけただけのことはある。一気にレベルアップしてしまった。包丁の化け物が人に当たったら危ないだろうなとちょっとだけ思っていたのでその点も安心である。頭の中で、レベルアップ音が高らかに鳴り響いた。

「ところで、質問なのだが、こんなところでなにをしていたのだ? 魔法の踊りかなにかか」
「たしかに似ているかもね。宗教や魔法に身を委ねるのもアルゴリズムに身を委ねるのも同じだと言えるかもしれないから」
村人は笑った。冬の空に合うからりとした笑顔だった。いやいや、違う。空は見えどもここは地下迷宮なのだったっけ。
「『高度に発達した科学は魔法と区別がつかない』と言うしね。本質的に理解できない他人の行動は、マジックリアリズム的に読解されることによってコミュニケーションが成立するんだよね」

よくわからなかった。村人といったら普通は状況の説明をしてくれるものなのに、このお姉さんが言うことはずいぶんと難解だ。村人じゃなくて賢者かなにかなのかもしれない。頭の上に黒いもじゃもじゃを浮かべていると、賢者っぽい村人はつづけた。

「むかしの人は、太陽の動きに合わせて生活していたんだよ。太陽が出てから沈むまでを等分していた江戸時代の日本は、季節によって一刻の長さが違ったし、イスラム教徒は日の出日の入りに合わせて礼拝をする。そういうふうに太陽の動きに合わせて生活するのが自然なんだとかいう考えかたが主流だったんだな。なんというか、地球とか太陽とか神さまとか大きなものにみんなで身を委ねたほうが、共通理解の基盤ができて安心できるんじゃね? みたいな。でも、本当は25時間周期で生活したほうが人間の体のリズムは崩れないし、太陽が出ていないあいだに活動する動物だってたくさんいる。でもって、科学技術が発達して、自然とか太陽とかに合わせなくても全世界の連中が同期をとれるようになったってわけよ。それが、さっきの行動パッケージツーリスモ。ちょっと一緒に踊ってみる?」
「むむむ」
勧誘されてしまった。これはゆうしゃに必要な儀式というやつなのだろうか。

「怖がらなくてもだいじょうぶ。別におかしなことじゃないから」
賢者っぽい村人はゴーグルをはずし、立方体の近くにある台の上に置いた。スイッチを入れると、怪しげな動きをする白人のアニキの姿が壁に映写される。わざとらしい笑顔と筋肉と真っ白な歯が印象的なアニキだった。BGMに合わせてうにょうにょとうごめいている。人間の動きというより軟体動物の動きみたいだ。

「とりあえず動いてみて。夏休みの共同体操みたいなもんだと思えば」
装備を外してとりあえず踊ってみる。村人が言った。
「映像を見るんじゃない。感じるの」
「……ちっとも感じないぞ」
「わるいわるい。感じるってのはものの例えでね、あたしたちはよくフォースを感じるんだって言うんだけれど、もちろん人間にフォースなんてないし第六感も第七感もない。頭の中で想像すんのよ。これは全世界の人と同期している動きなんだって。妄想と言ってもいい。ツーリストにはそれが重要なの」

「なるほど。やってみる」

頭の中を真っ黒にして、またたかない星を散らして、太陽をつくって、近くに浮かぶ水星と金星をつくって、地球とそのまわりをぐるぐるする月をつくってみた。地球の上に7割の海と3割の大陸を思い描き、世界中にいるヒマ人が各地でまったく同じ動きをしていることを想像してみる。頭の中にあるミニチュア地球に住む人間はやっぱりちっちゃくて、ちいさな手と足を精一杯動かして、みんなで同じ踊りをおどっている。それは、壮大なんだか冗談なんだかよくわからない奇妙な景色だった。しいて言うなら、暗黒面に落ちた太極拳みたいなのだった。

「いろいろとどうもありがとう」
ひとしきり行動パッケージツーリスモとやらをやったあと、村人兼賢者の元を離れることになった。
「お。礼儀正しいね。どこの子?」
「わたしの名は海神れい」
「ああ、海神さんとこの。今日来てるんだ」
「村人なのに兄さまを知っているのか?」
「村人? ああ、そういうシチュエーションか」村人の女はひとりで納得している。「村人にだって名前はあるよ。モンスターにもあるんじゃないかな。あたしはハシモト・ヒロカ。お兄さんによろしくね」

ゆうしゃの冒険はつづく!

2007.05.09
第36話a「12万人の怒れる名無し(7)」小野寺笑男

ローカルに撮りためた映像に海神れいの姿が映っていた。

薄暗い8畳間だ。壁の一面を、8枚のディスプレイ・シートが覆っている。その中の1枚に、画面の前で吠えているななほしの主人の姿があった。タイムスタンプは2週間前。となりのディスプレイには赤羽アジア街に設置してある監視カメラのリアルタイム映像が流れている。画面を横切ったのは川口のカリスマ主婦だ。一瞬のことでよくわからなかったが、こころなし頬が上気しているようにも、決戦を前に口を引きしめた武将のようにも見えた。

少女の飼い犬であるななほしを抱き寄せ、ひざの上におろす。小型犬は吠えるのをやめ、口の中でぐるぐると唸った。

赤羽アジア街の監視カメラ映像を妨害していた少女と、そこで発生するカーニヴァルの助演女優になろうとしている女。ふたりにはなにか関係があるのだろうか。それとも、鍵を握っているのは精神科医か。カーニヴァル決行の日にふたつの点が結ばれたのは偶然のことなのか。謎がいくつも浮上する。

カリスマ主婦の姿が精神科医のビルに消えた。匿名掲示板の投稿がものすごい勢いで回転している。

キーボードを操作し、撮りためた精神科医ビルのカメラ映像かられいの顔を検索することにした。兄が勤める研究所から内緒でパクってきたソフトだ。ちなみに、正式には違法なシロモノである。顔検索のために外部サーバーへアクセスに行くと、記録をたどって警察がすっ飛んでくる。ローカルに保存した画像の検索だけでは、このソフトの威力は1億分の1も発揮できないというのに。世界はいろいろと不自由だ。

加速した匿名掲示板の流れは目で追うだけで精一杯だった。反応したいが、頭が追いついていかない。一度にやるべきことが多すぎるのだ。時間が惜しい。顔検索はまだ終了しない。
そうこうしているあいだにも監視カメラ映像は自動的にザッピングしていく。そのひとつに、見覚えのある人影が映った。大男だ。黒いコートを着ている。川口を目指していた男にまちがいない。あらかわ大橋近くのショッピングセンターに設置してあるカメラだった。

携帯デバイスを耳にあて、白人の大男はなにごとかをまくし立てている。少女の姿は見えない。ひとりのようだ。役に立たない奴め。なにか情報をよこせ。映像に対して、口元認識ソフトを動作させた。ライフログサービスのためにカメラは音声も記録しているのだけれど、街中の監視カメラはプライバシーの観点から音声にアクセスできないことが多い。そんなときに威力を発揮するソフトである。これも、むかしはフリーで落ちていたが、現在は違法となっている。兄の研究所には便利なソフトが転がっている。

大男の映像の下に文字が流れていく。けっこうな速度だ。しばらく目で追って、違和感をおぼえた。おかしい。そうだ。英語ではなく、字幕が日本語なのだ。同時通訳ソフトは使っていないのに。ななほしは、腕の中で低い唸り声を発している。

わけがわからなかった。

なんで、カタコトで道をたずねてきたはずのガイジンが流暢に日本語をしゃべっているんだ?

2007.05.09
第36話b「カピバラはクリティカルヒットを出す(4)」山出さくら

泉藤の前に座ると、プレパラートにのせられたミジンコの気分になる。

それはきっと、精神科医という彼の職業ではなく、泉藤円という人間の根っこにあるなにかが感じさせるものなのだろう。

広くもなくかといって狭くもない診察室だった。薄いグリーンで統一された壁に間接照明があたっている。普通の部屋よりも天井までの距離は長い。そんな中に、ふわふわの低い椅子が置いてあるものだから、余計に天井が高く感じる。病院特有の臭いはせず、室内はアロマの芳香で満ちている。ゼラニウムのようだった。

「きょうはちょっと特別な日なんでね。あなた以外の予約は入れていない。看護師さんにも休みをとってもらった」
そう言って、泉藤はふわふわの椅子に腰をおろした。くだけた口調だ。それ以上の説明はなかった。特別というのは例のセキュリティ絡みのことかと思ったが、聞かないことにした。

泉藤円はちょっといい男だ。長身で、細身で、顔は悪くなく、高学歴である。しかもそれを自覚し、武器として使うことを心得ている。羽織っている汚れのない白衣も、白衣の内側からすこしだけのぞかせたスーツも、なにも書かないときでも持っている万年筆も、腕を動かすたびにちらりと見える高級時計も、すべて計算されている。もちろん、こういう男は、それはそれでつけいる隙があるものだが。

「最近はどうなのかな」
泉藤が聞いた。
「それは医師として聞いているの? それともそれ以外の存在として?」
「両方だね」泉藤は微笑する。人の悪そうな、それでいて妙に色気のある表情だった。「精神科医という職業は、職業というだけでなく、いまやぼくの存在のかなりの部分を占めている。格闘家がいつでも格闘のことを考えているのと同じでね。だから、ぼくの個人的な興味と医師としての興味はニヤリーイコールなんだよ。あらためて聞くが、どう? 不満とかはないかな」

「不満は……たぶん、あるわね。正直。いろいろと」
「それはいい傾向だ。最初にここに来たあなたの言葉をまだ憶えているよ。『欲しいものが見つからなくて不安だ』と言ったんだ」
「そうだったかしら」
「そうだよ。つまり、不満の発生は不安の解消なんだ。変化の方向性としては悪くない。それで、いまはなにが不満なのかな。もっとリッチにでもなりたくなった?」
「収入はいまのレベルが継続できればいいの。そういう物質的なものじゃないと思うわ」
模範解答的な答えを返してやった。泉藤の表情は不満げだ。ちいさく鼻をならし、わざとらしく長い脚を組んだ。

「金持ちが持っているのは物質ばかりとは限らないよ。ある種の精神的な優位性も持っている。現在、人類は、大きく分けて3つの階層に分断されているんだ。黙ってても暮らせる金持ち、それなりに裕福な中間層、貧乏人の3つにね。このうち、貧乏人は今日食べて遊ぶことで頭がいっぱいで、残る中間層と金持ちが互いに反目し合っている。だからあなたが金持ちに敵愾心を抱いているとしたら、それは世界的な状況のひとつの表れなのだとも言える。恥じることではない」
「大きく出たわね。でも、生活に不自由は感じてないし、仕事も順調よ。いくら稼げば富裕層の仲間入りができるのかは知らないけれど、不可能じゃないと思うわ」

「それはどうかな? たとえば、あなたは格好を気にするだろう」
「あたりまえでしょう。人に見られてるんだから」
「ところが、本当の金持ちは気にしない。あらかわ大橋のたもとにあるでっかいカジノ、内緒だけれど、アレを経営してる会社の社長令嬢はときどきジャージで診察を受けに来る。そこのショッピングモールで980円で売ってるやつだそうだ。友達が着ているのを見て気に入ったらしい。履いてるパンプスは、検索したら30万くらいするものだったがね」
「嘘よ」
「こんな嘘をついてどうなる。彼女いわく、正装とオフのふたつしかないんだそうだよ。ぼくたちのように、オンとオフのあいだに長いグレーゾーンがあったりはしない。完全に分かれている。オフのときは、ブランドショップで買った9万8000円の服だろうと、980円で売ってるシャツだろうと関係ない。気にいるか気にいらないかだけなんだ。あなたもぼくも、貧乏人ではないが金持ちでもない。意識がそうなっているんだ。だから、持てざる虚構に対しての反目が発生する。物質じゃないんだよ」

「じゃあ、どうすればいいのかしら」
「真のリッチになりたければ、低所得外国人でもつかまえてきてお手伝いさんに雇うところから自分を訓練しないとだめだろうね。そうやって、人間を区別してはじめて金持ちの意識は醸成される」
「主婦が売りものの人間がそんなことはできないわ」
「料理番組の発信をやめて、企業と組んでテーブルクロスや皿を売ってるカリスマ主婦はいくらでもいるよ。人間を雇うと思うからいけないんだ。ファンタジーに出てくる下級の妖精どもと契約したと思えばいい。あなたはよくマンションの下層階に住む人間を区別するじゃないか。根っこは同じだよ」
「それとこれとは話が別でしょ」
憤慨してみせた。泉藤は気にしない。精神科医であるこの男に、カリスマ主婦のペルソナは通用しないのだった。

「そうかな。ぼくは、自分で望んだ意識改革の入り口まであなたは来ていると思うんだけれど。でも、意識の枠を壊さないかぎり、二律背反する不安と不満を同時に解消することは難しいだろうね」
そう言って、泉藤は指の上で万年筆を回した。高学歴の精神科医にも、高級そうな万年筆にもそぐわない、貧乏臭い仕草だった。

たしかに、枠は壊さなければならないだろう。
そのためにここに来たのだから。

2007.05.10
第37話「カピバラはクリティカルヒットを出す(5)」山出さくら

欲望とは他人の欲望、という言葉があるそうだ。最初にクリニックを訪れたとき泉藤が言った。

20世紀の開始と同時に生まれた高名な医師の主張らしい。なにかを欲する心というものは、自分自身の中にあらかじめ存在しているのではなく、他人から影響を受けてはじめて発生する。他人が欲しくないものは欲しくならない。人間とは、そういうものなのだという。

泉藤と出会ってからかれこれ2年近くの時が経つ。彼の存在を知らなかった頃、おそらく自分は平穏な日々を過ごしていた。高級マンションの最上階に住み、夫は真面目で高給取り、息子は一流私立に通っていた。不動産会社の広告に出てくるような家庭だった。苦労の末、やっと手に入れることができた生活に肩の力が抜けていた。

もしかしたら、あのときの自分は充足に安住していたのかもしれないし、充足していることを自覚するのが嫌だったのかもしれない。なんでもいいから、とにかく、欲しいものを見つけたかった。いくら水を飲んでも喉の渇きが癒えないときの感覚に似たものが、体の奥底で脈動していた。だから、5歳も若い気鋭の精神科医の元を訪れ、相談をした。「欲しいものが見つからなくて不安だ」と。泉藤は治療を施した。そして、不満が芽生えた。いまは、できてしまった不満を不満に感じている。

泉藤が言った。
「不満の解消にはもうひとつ方法がある」
言葉を発することはせず、首を傾けることで返答した。泉藤がつづける。

「チップを脳に埋め込めばいい。その名も幸せチップ。先進国から鬱病を一掃した革命的クスリだ」
「チップは薬じゃないでしょう」
「それは一面的な見方だ。化学物質で脳の受容体を刺激して電流の流れを制御するか、脳に直接電流を流すかの違いでしかないよ。むしろ、内臓に負担をかけない分だけチップのほうがいいと現在では言われている。これを使えば、ボタン一発でいつでも幸せになれる。実は鬱病とはまったく関係なくて、いつでもどこでも誰でもハッピーになれる画期的な機械なんだが、あいにく日本では、裁判所の許可がないと脳に埋め込めないことに法律で決まっている」
「それが本当の幸せじゃないからでしょう。そんなものでは、人間の心は幸せにならないわ」

「たいへんに感情的だ。だが、あなたの言葉はある意味真理をついている。直観が真理を見抜くいい例かもしれない」
「これでもわたしもいろいろ考えているのよ。あなたほど頭はよくないけれど」
「そのようだね」
ふわふわの椅子の横にあるちいさなテーブルに泉藤は万年筆を置いた。かたん、と硬質な音がして、高い天井に吸い込まれていった。室内をただようアロマの中に、なぜか自分の汗のにおいを感じた。不快ではないが、真理や論理とは程遠いにおいだった。

「むかしむかしの偉大な学者によれば、心っていうのは言葉でできていることになっている。幸せも同じ。言葉が構成要素だ。そして言葉は、もともと、なにもないところから人間が捏造した虚構にすぎない。つまり、幸せを感じる心というものも、人間がつくりだした虚構の集合体にすぎないわけだ」
「それはそれで詭弁みたく聞こえるわ」
「詭弁じゃない。発達心理学でも証明されていることだよ。だけどまあ、これは20世紀までの話なんだ。最近は、幸せを感じたときに人間の脳のどの場所にどういう電流が流れるかがだいたいわかってきたからね。幸せじゃなくてもいい、悲しみでも喜びでもいい。とにかく、脳のある部位への電気刺激によって、人間は機械的に喜怒哀楽を感じてしまう」

「ニセモノの幸せでしょ」
「待ってくれ。結論を出すのはまだ早い。これからがおもしろいんだ」
そう言って、泉藤はくちびるを舌で潤した。それなりに整った口の端を、奇妙なほど赤い舌が這う。
「人の幸せは脳への電気刺激で満たされてしまうものだ。ここまではOK。揺るがない事実だ。ところが、人によって、幸せや悲しみを感じているときに思い浮かべる言葉は異なるんだよ。ある刺激によって人間は幸せになる。そして、そのとき想起されている言葉は個人によって違うんだ。それこそ、心が脳から解き放たれている理由でもある。脳に埋め込まれたチップは、動物としての人間を幸せに導けるが、人間が自分自身で捏造した象徴界における人間像の幸せを満たすことはできない。わかるかな。これこそが、人間が人間である証なんだ。なんて人間は複雑でインチキまみれで素晴らしいんだろう。だから、この時代になってもぼくら精神科医は仕事を失わない」

泉藤はいつも難解な理論を口にする。彼の言っていることは半分くらいしかわからない。大学までは出たものの、それほど高級な教育をしてくれるところへ行ったわけではないし、演劇ばかりやって学業に打ち込んでいなかった人間が理解するのは難しい。

彼の言葉は、山出さくらという器の容積を大きくしてくれたのではないかと思うことがある。偉人たちの発言の受け売りにすぎないそうだが。借り物でも言葉そのものの重みは変わらない。見晴らしのいい最上階の家とよくできた夫と申し分のない成績の息子。あの頃の自分は、たったそれだけのものでいっぱいいっぱいになってしまうちっぽけな存在だった。

だけれど、北海道の片田舎の高校で誓い合ったことだけは忘れていない。いまはなにをしているかも知らないたったひとりの親友と、バカみたいに広いだけでなにもない空の下、ふたりで約束をした。かならずなにものかになろうと。

幸せは掴んだ。高級マンションのてっぺんで安息を手に入れた。
だけれど、あのとき目指した“なにか”にはなれていなかった。

嘘つきだ、勝手だと陰口を叩く人間がいることも知っている。だけれどそれは違うのだ。子供だったあのときたてた神聖なる誓いに正直なだけなのだ。祖母の遺言をかたくなに守っているだけなのだ。言葉が人間をつくるというのなら、高校時代に通り抜けたそれらの言葉がいまの自分の核を構成しているのだろう。むかしの自分自身を人々が簡単に裏切っていることのほうが信じられない。ペルソナはいくら嘘をついてもかぶりなおせばいい。だけれど、たったひとつの心は嘘をつけないはずだ。

だから、いまは、すこしも、満たされていない。
欲しいものは、山ほどある。

2007.05.11
第38話「カピバラはクリティカルヒットを出す(6)」山出さくら

「言葉をつくりだした人間は心の捏造に成功した。残念なことに、現在の科学ではボタン一発で心は幸せになってくれない。それがここまでの話だ」
赤羽にある泉藤メンタルクリニックでのことだ。診療室の中はグリーンの色調で満たされ、静かだ。壁一枚隔てたところにあるアジア街の喧噪は聞こえてこない。泉藤はつづけた。

「ところで、幸せな家庭に必要なものってなんだと思う? 幸せな結婚生活でもいい」
「家庭は円満よ」
「円満だからといって幸せとは限らない。前者と後者は両立するものだ」
「愛……と、言わせたいのかしら?」
「愛も関係ない。精神分析ではね。無意識のレベルでは、いかなる愛も自己愛の変形にすぎないと考えるからね」
精神科医の表情から感情は読み取れなかった。確かな言語が裏打ちする自信だけがそこにある。こういうとき、ふと彼が優秀な医師であることを実感する。対話者としておもしろく、議論の相手として手強く、医師として頼りになる。強敵だ。

「さっぱりわからないわ」
ゆっくりと首をふり、降参の仕草をしてみることにした。泉藤は微笑する。
「むかしの人間はね、科学技術がどんどん発達すれば、人間そっくりのセックスドールができると思っていた。エロスの中の肉欲の部分はセックスドールが解消してくれるようになるんだと。実際、アキバ萌え街の近くにある風俗店に行けば、人間の代わりに精巧なドールが相手をしてくれるところがある。セックスのシミュレーションくらいだったらいまの不完全なAIでもできるから。だけれどそれは、どちらかというと趣味の問題でね。現実はもっとずっと冷徹だ。肉欲の解消にドールなんていらなかった。こっちのほうも、脳に埋め込んだチップのスイッチ一発で解決できてしまう」
「嫌な話ね」

「だけれどこのスイッチも動物としての人間を満足させているにすぎない。心の性欲を満たしてくれはしない。生理的な要求なんてものは加齢によって衰えていくものだ。最終的には、後天的につくられた性に対する欲望だけが人間に残る。いまでも、わざわざ仮想空間でバーチャルセックスをする人たちがいる。なぜだと思う? コミュニケーションをするためだよ。相手をもてなして、欲望を相互確認し合っているんだ。結婚も同じだ。結婚は、老人になったときに一番身近で誰とコミュニケーションをとるかの選択だとも言える。結婚することによって、人は、互いにコミュニケーションの相手になることを保証し合う。だから、夫婦間コミュニケーションのない夫婦は契約破綻して熟年離婚する。ドールが流行らない理由も同じだ。精巧にできたドールは、セックスという行為はできるが、セックスに付随するコミュニケーションはできない。いくらシナリオやソフトをドールにダウンロードしても、完璧なAIがなければそれは本当のコミュニケーションに感じられない。そうである以上、ドールは、妄想の補助道具であり、どれだけ脳内で妄想ができるかという個人の能力に帰結する。完全な妄想ができるなら、携帯デバイスのエロ画像と右手で性欲は解消できてしまう。現に中学生はいまでもそうやってオナニーしているからね。つまり、心の幸せというのは——」

なおもまくしたてようとしたとき、泉藤の胸元で音楽が鳴った。近所のコーヒーショップが流している宣伝用ソングだ。海を渡ってやってきたおいしい豆を飲もうよ飲もうよと3人の子供が合唱している。大音量である。一瞬肩をすくめ、胸ポケットから泉藤は携帯デバイスを引っぱり出す。この陽気な音楽が彼の着信音のようだった。

「もしもし……え? なんだ。待てよ。おい、この番号にはかけるなと言ってるじゃないか」

泉藤らしくない粗野な声だ。こんなしゃべりかたで応対していたらひとりも患者はつかない。いままで見たことのない一面だった。雲の上にいる神さまに紐に引かれたように泉藤は立ちあがり、足早にとなりの部屋へ行ってしまった。中途半端に開いたドアの隙間から興奮気味の声が漏れてくる。
「——見失った? なんで。それが仕事なんだろうに。PSPカードが急に使えなくなった、と。橋を通るにもいちいちクレジットカード番号を聞かれる? 登録したらメルマガが一分あたり10通届くようになった? あたりまえだろうが。それが南関東なんだよ。いったいなにをしているんだ……いや、そうじゃなくて……しかたがない。場所検索をしてやる。できるんだよ。担当医師は。そういう権限があるの。ただし一度だけだぞ。それ以上だと、プログラムの誤作動ってことにできないからな。南関東か東京首都のどちらかにいればわかるはずだ。なに? 川? 川だって土地には変わりないだろうが。誰かが管轄してるはずだ。海まで流れていってたらわからんがな。切るぞ。わかったら連絡する。そうだ。わかったら、だ」

泉藤が戻ってきた。
質問するのもどうかと思っていたので黙って見つめていると、精神科医は、椅子に座るのではなく背もたれの部分に腰をあずけた。そのまま、浮気がばれた男のように弁解をはじめる。

「たとえば10人のチームがあったとする。重要な患者の行動を監視するのに9人、そうでもない患者を監視するのに1人、それぞれ人員を割くとする。このとき、そうでもない患者のほうには、10人の中の何番めに優秀な奴をあてるかという、いまのはそういう話なんだ。あなただったらどうする」
「一番上じゃないでしょうし、2番めか3番めかしら」
「そうするのが普通だよな。でも、一番下を使っちまったんだよなあ」
泉藤は深いため息をついた。

「それは、まるで、失敗したがっているように思えるわね」
「そういう奴もいるということだよ。誰もが本心から成功したいと思っているわけじゃないんだ。失敗して罰せられることを目的に犯罪を犯す自罰パラノイアなんてのもあるくらいでね……いや、今回の件には関係ないんだが。だいたい、ツーマンセルの相手が事務所から動けないぼくってのが根本的にまちがってる」
「マンセル? むかしいたF1ドライバーの?」
「あなたは変なことに詳しいな。こっちの業界の専門用語だよ。気にしなくていい」
「なんでも知っておきたいの。医学の言葉は難しくてわからないけれど。いざっていうときに恥をかかないように」
「見上げたこころがけだね。もっともぼくは、借り物の知識を100も200も装飾するよりは、ひとつの学問を深く極めたほうが人間として賞味期限が長くなると思うけどね。さて、時間もないことだしセックスでもしようか」

さんざん言語の虚構性だのコミュニケーションの重要性だのと御託を並べておいて、この男はいつもこれだ。もしかすると、こうした会話が、この男にとっての歪んだ前戯なのかもしれない。すくなくとも、夫の下手な愛撫よりは肉体の芯を熱くさせることはたしかだった。

泉藤円は、女性を食いものにしているつもりか、それともヒマなカリスマ主婦に知的興奮と慰めを与えているつもりか。あるいは実はなにも考えていないのか。言葉はもともと空虚なものだという。ならば、そのほとんどが言葉で構成されたこの男もまた空虚だということになる。体内に溜まった液体を吐き出してしまえば、この男の中にはなにも残らないのかもしれない。泉藤が近づいてきた。首筋に吐息を感じた。ゼラニウムの吐息だった。

そっと目を閉じる。すべてが暗闇になる。
いまはまだ身を委ねておくことにしよう。この男によって大きく成長した器が、男の存在を飲み込んでしまうそのときまで。

2007.05.28
第39話「working pure(1)」君島フランツィスカ史帆

人民は搾取されている。

——といったのは父だ。元はどっかの国のえらい人の言葉っぽいんだけど誰かは知らない。もちろん父も知らなかった。どこかで聞きかじった借り物の知識を披露しただけらしい。

どちらかといえばウチは貧乏の部類に入るんだと思う。いまはバイトの最中だ。父はケガをして休職中で、このバイトは家計を助けるため。母はいない。一見、美談っぽいけれど本人はたまったもんじゃない。

バイト先はソウルケアハウスかわぐちである。作業は簡単なものばかり。いまの世の中、掃除だっておおまかなところはロボットがやってしまうし、タイルは勝手に光と反応して臭いを消すし、窓に“桟”なんかついてない。ドラマの中にだけ存在するババアが指でほこりをとったりする場所は存在しないのだ。ただ、こまごまとしたことを片付けているとヒマな老人が突然話しかけてきたりして、ウザイから無視したりすると減給されるので油断ならないのもたしかだった。

「フランツィちゃん」

ほら、呼ばれちゃった。ソウルケアハウスかわぐちは、アジア・アフリカ系の外国人ばかりで日本人はすくない。だからここではフランツィスカと呼ばれていた。外人にはそっちのほうが呼びやすいらしい。母親がドイツ人といっても、小さい頃に死んでいて、ドイツ語なんてこれっぽっちもしゃべれないのだけれど。ちなみに、どうやら名家らしい母方の祖父母は音信不通だ。

「タツノさん、どうしたの」
ここでは相手を名前で呼ぶのが基本だ。所員は全員、スカウティング・グラスと呼ばれる眼鏡型デバイスを装着している。所内のライフログデバイスが収集したプロフィールやステータスは、人物の像と重なるように字幕みたいに表示される。これのおかげで、名前をまちがえないですむし配膳や投薬が正しい相手に届くって寸法なのだ。バイトに見える情報はたいしたものではないが、ケアワーカーの資格があれば、病歴や脈拍まで見えたりするらしい。進学校や進学塾では教師が使っていたりもする。

しゃべりかけてきたのは通いの婆さんだった。川口に独居していて、息子一家は現在沖縄州にいるらしい。3割ほど空気の抜けた風船に丸々としたお盆を乗っけたような外見をしていた。しなびた風船の体が、風もないのに落ちつきなく揺れている。思い出した。そういえば、1回だけ話したことがあった。

「こわいわねえ」
タツノさんは言った。わかんねーよ、と思ったけれど、業務スマイルでやりすごす。
「なにが怖いの?」
「ほらセキュリティの危機っていうのがニュースで言われてるでしょ。プライバシーがなくなっちゃうって。悪い業者に悪用されちゃうんだって」
「はいはいはい。それ、聞いたことあるよ」
「こわいわねえ」
とりあえずうなずいておいた。タツノさんはつづける。
「それでね。拡散したプライバシー情報を消してくれるところがあるんだって。30万円かかるって。これって、高いのかしら?」
「はあ?」
「だから30万円。高いのかしら。安いのかしら」

だんだん事情が読めてきた。そういう輩がいるという話を所内報で見たおぼえがある。ソウルケアハウス周囲に集まる老人のライフログ情報をかき集め、独居老人を割り出して訪問する悪質な業者がいるらしい。ライフログ発表会で、自分の経歴をほんのちょっぴり華麗に仕立ててしまった老人は、嘘がばれるとひどい目に遭うと業者に脅される。それを防ぐには30万円かかると言われているわけだ。たしか所内報には、老人に相談されたときの対処方法も書いてあった。なんだったっけ。

「それ、新手の詐欺だって絶対」
「親切な人だったのよ。いまだけサービスだって。セキュリティの危機が起きてからだともっとかかるっていうの」
「いやだから詐欺——」
「息子は仕事がいそがしくて話はできないし。こわいわねえ」

30万なら忙しい息子も確実に聞くと思ったけれど言葉を飲み込んだ。老人は、話を聞いてほしいだけで、答えを求めているわけではないのだ。だいたい、怪しい男を家に迎え入れて話を聞く時点でどっかおかしいし。そうだった。そうだった。マニュアルに書いてあった。1/4も人生を生きていないバイトに答えなんか要求しないって。わかってるさ。

「本当にこわいわねえ」
タツノさんはまだ言っている。話しかける相手が、いつの間にか、廊下を通りかかった別の老人に変わっていた。おーい。話しかけといてこっちはガン無視かよ。なんだ。あたしは懺悔を聞く牧師か。

そのとき、友人からショートメッセージが来た。やっべ。サービスを切ってなかった。あとで主任に怒られるかも。でも受信しちゃったんだからしょうがない。携帯デバイスを開く。
>いまモールのとこにいんだけど、シホ、現金売り見た?
なんだそりゃ。返答を入力。送り返した。
>現金売ってんだよ、現ナマだよ現ナマ。夕方になったら電子マネーとか使えなくなんだって。いま交換しとくとすっげー得なんだってさ!
あたま痛。友人ながらつける薬なしだ。返信する。
>見ない。興味なし
>そう言うなよ。ノリ悪ーよ。シホ、一緒に買わない?
>買わない。おまえも買うな。絶対だ
>どこにいんのよ。位置検切っててわかんねーよ
>いま、家。勉強中

携帯デバイスを閉じた。タツノさんは、10メートル先でまた違う人に相談している。やれやれだ。

ショートメッセージで友人に送った言葉も、嘘だといえば嘘になるんだろう。本当はバイトをしているのに書いた返事は勉強中。それは、タツノさんがライフログ発表会でついたちいさな嘘と変わらなかった。貧相なアパートメントの位置を高校の同級生に探られるのも嫌だし、親の代わりに家計を支えているのも知られたくない。ファストフードやブティックならともかく、ソウルケアハウスで働いているなんてありえないし。

あーあ。世の中はバカばっかだ。
マジウザイ。

2007.05.29
第40話「working pure(2)」君島フランツィスカ史帆

物心がついたときの最初の記憶は、機械油と金属が溶け合う不思議なにおいだった。

父の仕事はバイク便だ。彼の休職は業務中の骨折が原因だった。バイク便というのは、時間指定を受けた荷物をバイクを使って先方まで送り届ける仕事である。時間指定がゆるいものは安価な自動配送ルートに乗るから、バイク便の受け持ちは制限時間のキツい荷物だけだ。川口から川崎まで30分とか、ありえない指定もある。細くて車高が高く急加速可能なエタノールエンジンバイクで、ライダーたちは道路をすりぬけていく。

父は言う。むかしは道に煎餅がよく落ちていて危なかったが最近は減って安全になった、と。煎餅ってなんだか知ってる? ペチャンコに潰れた空き缶のことだ。ハンドルを切ったときに前輪が乗ると、スタビライザーとか関係なく問答無用で転倒してしまうそうだ。あるいはこうも言った。客を見つけたタクシーの急制動をマシンが教えてくれるので事故が減ったとか。ライダースーツの素材革命で、むかしより冬の寒さがだいぶ楽になったとか。

ないない。正直ないよ、それ。楽になんかなってない。ぜったいなんかに騙されてる。
だけれど父は聞かない。タツノさんと同じだ。

バイク便に社会保障はない。ライダーひとりひとりが企業と契約する業者という扱いだからだ。賃金は、走った分しか貰えない。骨折したら無給状態である。父はいつも不満を漏らしている。そんなに待遇が悪くてキツいなら辞めればいいのに、別の職に就くという選択肢はないらしい。「サーキットでも骨折するし、人も死ぬ」とか言うのだ。それ、おかしくない? あんた、レースしてるんじゃないでしょうが。だいたい骨折してるんだから違う仕事を探せよ。体を直したらつづけるとか言って、日がな一日バイクをメンテしたりすんな。

自分の父親ながら、ワン・オブ・バカズでうんざりだった。取り柄といったら人がいいところくらいしかない。欧州からはるばるやってきたあげく貧乏人と結婚し苦労した上に早死にしてしまった母親のほうはバカ・オブ・ザ・バカで、これはこれで希少価値があるんじゃないかと思う。だけれど、父と、そのDNAを半分受け継いだ娘である自分は、世の中にうじゃうじゃいるバカの中のひとりでしかなかった。

父に、将来の展望とかはないのだと思う。最近は、「バイク便は、ただ目の前にある道を走るだけだ」とか、哲学的なんだか投げやりなんだかわからない境地に達した言葉を吐いたりしている。「いいか、史帆。世の中は、拾う神あらば捨てる神ありだ」とか。いや違うって。それ、ぜんぜん負けっぱなしだし! 21世紀も半ばだというのに、なんでバカにつける薬が発明されてないんだろう。

そんな男の娘に、将来の道などというものが見えないのも当然だった。高校を卒業したら家は出ていきたいし、この境遇から脱出するには学歴をつけるしかないのはわかっている。だけれど、タダで大学に行けるほど頭はよくない。だいたい、いちばん時給が良かったのはショッピングモールのフードコート店員だったのに、わざわざケアハウスとかを選んでいる自分はマジウザイ。ありえない。一度死んで生まれ直したほうがいい。なにいい子ちゃんぶってんだよ。ソウルケアハウスに集まる老人たちは、それなりに働いてきて、それなりに貯蓄をして、あとは墓場に行くまで心の幸せを保てばいいって連中なんだよ。ライフログ抹消で30万詐欺られても、そんなのはへっちゃらなのだ。明日のごはんの心配をしている人間とは違う。バイトでこんな選択をすること自体が、人間の器の限界ってやつなのかもしれない。あーあ。

肩を落として廊下を進んでいると、ハナ先生の部屋から出てくるご近所さんを発見した。スカウティング・グラスに表示された名前は小野寺明。領家に息子夫婦と住んでいる。赤字で書いてあるのは「パワーアシストスーツを装着しているので転倒に注意」。はいはい。わかりましたよ……っていうか、近所の小野寺? って、あの小野寺か。把握した。

小野寺老人は、こっちの顔と胸のIDを見て思案顔をしている。IDには、老人でも識別可能な大きな文字で「きみじま」と書いてあった。

「もしかして、君島さんのところの……」
老人が言った。了解のしるしにうなずいてみせる。
「そうだよ。オノデラさん」
「なるほどそうか。大きくなったねえ」
小野寺老人の表情が柔らぎ、目の焦点がぼやけた。目の前にいる人物ではなく、その背後にある歴史と記憶を見る目つきだった。老境に入った人間はよくこんな顔をする。いま身につけているのはバイト用のピンクの介護スーツで、けっこうかわいかったりするのだけれど、全然見ていないのだろう。ちなみに、髪の色は母親譲りの褐色で、瞳の色はペール・グレーとペール・ブルーの中間だ。黒髪が流行ったときはなんだかなあと思ったものの、いまはまた脱色系に移りつつあってそれなりに気に入っている。

また小野寺老人が言った。「たしか名前は……」
「シホだよ。史帆」
「そうだ。史帆さん。働いてるんだ。えらいね」
「べつにえらくなんてないよ」
「そんなことない。ウチの孫とは大違いだ」

孫というのは、おそらく彼のことだ。名前はええと、そうだ、エミオ。笑男といった。小学校の2年上で、集団登校の班長をしていた。あの頃は、慣れない朝ごはんづくりで登校が遅れがちだった。いつも迎えに来てくれたのを憶えている。6年も前のことなのでもはや顔ははっきりとしていないが、繊細そうな人だった。たぶん。彼の顔が記憶にないことそのものになぜか胸がちょっぴり痛くなった。なんでだ?

残念ながら、スカウティング・グラスは6年前の記憶を映し出してくれたりはしない。
まあ、どうでもいいか。そういうの、めんどくさいし。

2007.05.30
第41話「working pure(3)」君島フランツィスカ史帆

「ウチの孫はギートなんぞやって困ったものだ」
小野寺老人は言った。

「そのギートって、よく聞くけど、実際のところはなにやってんの?」
「見た目は、そうだな。ただのゲームだな」
「それも知ってんだけどさ。ゲームはゲームでしょ? 仕事なんじゃないの?」
「いや……」
老人は困ったような顔で左右を見回した。廊下にいるのはふたりきりだ。ライフログ発表会会場からまばらな拍手と笑い声が聞こえてくる。老人の背後の壁には、大きなゴシック体で「ソウルケア強化月間。お年寄りの悩みを聞いてあげましょう!」と書いてある。この文字は、スカウティング・グラスをかけていないと読めない。

「世の中にはな、コンピュータがやるより人間がやったほうがうまくいくし結果的に安く済む仕事っていうのがあるんだよ。人の好みとか、物事がこの次にどうなるだろうという判断とかね。そういう仕事をゲームに見せかけてやらせるのがゲームプレイ・ワーキングでな、ギートはそれをやってるんだよ」
「それ、けっこうすごくない。コンピュータにもできないんでしょ?」
「いや、史帆ちゃん。ゲームってのは本来そういうものじゃないんだよ。金になるとか、社会に役立つとかじゃないんだ。もっとこう……わたしの時代は、楽しむためだけにやっていたんだがねえ」
老人の最後の言葉は、昔を懐古するため息混じりだった。

「オノデラさんの怒りポイント、そっちなんだ」
「なにが、かな?」
「真面目に仕事をしないのを怒ってるんじゃなくて、ゲームを仕事にしてるのを怒ってるんでしょ。なんだかおもしろいね」
「そういえばそうだな」
顔を見合わせた。ふたりで笑った。薄グリーンの壁が笑い声を吸いとっていった。

笑男は笑男でビミョウな人生を歩み出しているようだった。彼らしいと言えば、らしいかも、と思った。子供の頃、ほんのすこし擦れ違っただけの人だが、奇妙な親近感がある。そうだった。思い出した。彼が毎朝迎えに来た理由! そうだそうだ。あるとき、家の前の通路に、丸くて白い物体が2個、ころんと転がっていたのだった。

いまも住んでいるそのアパートメントは40年前の最新型で、むかしはついていたらしいセキュリティは機能していない。犯罪者も野生動物も入り放題。ハトも飛び放題フンもし放題。荒川の河川敷で拾ってきたらしき葦の切れっぱしも持ち込み放題。通学路に出現したハトの巣を、笑男は、毎朝見にきていた。

青葉の腐ったような独特のにおいがして父には不評だったが、ちゃんと掃除をするからと言って許してもらった。隣に住んでいた寂しがりの婆さんも、ときおりエサをやっていたようだ。2週間くらいして、ふわふわの毛が生えた子バトが生まれた。残念ながら生まれる瞬間は見れなかった。親バトの下にある物体の色がヘンだ、と思ったらそれが雛だったのだ。薄紫色の親バトと違って、黄金色をしたふわふわの毛の下からピンクの地肌が透けて見えていた。ちいさくてかわいかった。ところが、2、3日もしないうちに、ハトたちは突然いなくなってしまったのだった。

子バト消失の原因を探ったのが小学6年生の笑男だった。

なんでも、隣のビルについていた監視カメラの映像に内緒でアクセスしたらしい。記録から、ハトの雛はカラスにやられたことがわかった。カラスを見たのはそのときがはじめてだ。不吉なほど黒く大きな鳥だった。東京首都州からエサを探して飛んできたのである。南関東州はゴミの管理がしっかりしていて、カラスはあまりいないのに。ファッキン東京め。雛が食べられてしまえば巣はいらない。親バトがいなくなったのもそのせいだ。強いものが弱いものを搾取するのは鳥の世界も人間の世界も同じだと父は言った。なぐさめにもなんにもならなかった。

小学校のトイレからパクってきたデッキブラシを使って、白いフンの跡を泣きながら掃除した。たぶん、笑男も一緒に泣いていたと思う。年上の男の子が泣く姿が新鮮だった。デッキブラシを学校に返しに行ったとき、持ち出したのがバレて大目玉をくらったっけ。学校の備品にはICタグとかいうのがついていて、行き先を追跡されていたらしかった。

いまになって思うと、他人のビルに設置してある監視カメラを操作できた彼のことだから、もしかして、ICタグのこともわかっていたのかもしれない。理解していてわざと、先生に怒られたのかもしれない。あの説教は、たしかに、悲しい物語に前向きのエンドマークをつけ足してくれた。その彼がギートをしているというのはうなずける。好きなことならとことん追求するけれど、学校の勉強はあまりできそうでもない人だった。いまとなってはどうでもいいことだけれど。ずっと忘れていたくらいだから、彼だって記憶の彼方へ整理済みだろう。

セキュリティの危機とかいうものに、ギートの彼はどうするんだろう。

巷では危機なんて言ってるけど、それなりに社会が混乱して、日本から遠いどこかの国のひとつやふたつでテロや紛争なんかが起きたり、個人の秘密が暴露されて、ふたまたをかけていた恋愛関係が壊れたり不倫の夫婦が離婚したり預金残高とかクレジットの請求とかが狂ったり、その中で特別はしっこい何人かが一生遊んで暮らせるお金を合法的に掠め取ったり、そんな程度なのだろう。もしかしたら、ソウルケアハウスでバイトをしていることも友人にばれるかもしれない。でも、正直、どーでもいい。

なくなったお金はきっと補償されるし、補償した会社は保険会社に請求するし、保険会社はマイナス効果を保険金にすでに織り込み済みだしで、特段どうということにもならないはずだ。はしっこくない君島家は、セキュリティの危機が起きてもやっぱり貧乏で、娘はバイトで父はバイクをいじっている。プライバシーがなくなった人たちも、自分を再構成して生きていく。

つまらないな。このまま暮らしてたって、どうせいつかカラスがやってきて食べられちゃうのだ。
いっそのこと、なにもかも壊れちゃえ。

2007.05.31
第42話「好き好き大好きハナさん(5)」小野寺明

小野寺明若い者はいい。ハナ先生の執務室に入っていく史帆の後ろ姿を見ながら、そう思った。

10代の頃、40になったら自分は死ぬのだと思っていた。40代になったら70まで生きようと思った。70を過ぎれば、あの世の門くらいは視界に入ってくるものだと。だけれど科学は凄いものだ。抗老化技術の発達のおかげで75になったいまもぴんぴんしている。人生の終わりは見えない。それが幸せかどうかはわからないが。

抗老化技術が間に合わなくて死んでしまった世代のほうが幸福だったのではないかと思うことがある。妻に先立たれたときも思った。もちろん、ひとりになって、息子夫婦の家に呼ばれただけでも十分幸せな部類に入ることは承知している。孤独を抱える老人はたくさんいる。そんなことはわかっているのだ。

日中、家にいるのは仕事のない自分とギートの孫だけである。孫の笑男は部屋に閉じ籠もりきりで、別々にメシを食う。息子も嫁ももうひとりの孫も、勤めに出ていて家にはいない。やることがないので、日がな一日、旧世紀に流行したレトロゲームをプレイしている。ゲームとともに育った自分はゲームとともに老いるのだ。笑男にゲームを教えたのも自分で、そのせいでギートになったのかもしれない。すこし、責任を感じる。

坂を登るときに階段を選択したり、歩きにくい人込みの中をわざと進んだり、ちょっとした摂理に対抗したくなることがある。寿命もまた摂理だ。抗老化技術によって老いを抑えた人間は、神の基本計画を越えてしまった。その代わり、人間は、みずからがつくりだした新たな摂理には従順だ。20世紀が規則によって快楽を囲い込み文化を発展させる時代だったとすると、21世紀は快楽を解放して文化を発展させる時代だと言う学者もいる。人工的な快楽という摂理に、人は対抗しようとしない。歩きづらい道は歩かないし、座りにくい椅子には座らない。着にくい服も着ない。まずいものは食べない。そんなことをわざわざしなくても、人はそれなりに幸福で健康で文化的に暮らしていける。克己心と呼ばれたものたちは、20世紀という夢の中にしか存在しない。歴史のテキストと老人たちの記憶の中にしかないのだった。

むかしはたしか、人は、国家と戦っていたと思う。

正確には社会を構成する大人たちと若者は戦っていた。大人たちがつくった理不尽なルールに抗っていた。たしかに、自分たちの世代には敵があったはずだ。いまはどうだろう。国家の枠組みは事実上解体されて久しい。大人を通り越した自分は社会を操ってはいないし、社会を構成している息子の世代も子供たちの敵になっているようには見えない。そこには、優しく快楽で、無意識のレベルで人の行動を左右する環境工学だけがある。

敵という確固たる存在がない中、それでも、人は戦っている。そうだ。人は戦っているのだ。どんなときも。撤退戦だって戦いだ。だけれど、その敵はなんなのだ。古い小説に出てきた透明人間みたいなものなのか。ギートの笑男はカメラ映像を見て、それゆえになにかを探そうとしているのか。発表会で皆が見ているライフログ映像の中にだったらそれはあるのか。

ソウルケアハウスに集まる人々の興味は過去にある。それは、ライフログというバーチャルな映像の中にしか存在しないものだ。歳をとり、目の前の情景が薄ぼんやりとしていくに従って記憶の中にある情景は鮮明になっていく。風景を見ても、脳に蘇るのは過去の記憶の再生ばかり。あのとき体験した驚き、喜び、悲しみはいまでも新鮮だ。目の前にある川口の人工的な風景は、そうした感情を揺り動かしてはくれない。

ライフログ発表会に出ずに、自分も丸田と一緒に散歩に行けばよかったのかもしれない。不意に思った。丸田蔵人は不思議な男だ。ソウルケアハウスに来て、はじめて友人と言える存在だ。

老人といっても、ソウルケアハウスに集まる男女は元気いっぱいだ。恋の鞘当てなどは日常茶飯事。揉め事もよく起きる。だけれど、若かったときと同様にふるまうには、積みあげてきたものが大きすぎる。野生動物が威嚇しあうように、これまでの人生で獲得したものたちを誇示し合い、比べ合って、やっと安心して心の交流をはじめることができる。それには、長いながい時間が必要だ。抗老化技術によって寿命は延びたが、本当に心を通じ合わせるには、死ぬまでの数十年では短すぎるかもしれない。老人たちはそれほど臆病で、用心深かった。

でも、丸田は違うようだ。彼は飾るところがない。彼も彼なりに人生を積みあげてきただろうに、それらを見せることはない。あくまでも、いまを見ている。

ハウス内の検索デバイスで検索すれば、街に出ていったあの男をつかまえられるかもしれない。会ったからといってどうにかなるわけでもなかろうが、追いかけるのが自然な気がした。そういえば、あのときもそうだった。後に妻となった女性が海外で事故に遭遇したときのことだ。仕事を投げ出して駆けつけた。そうするのが当然だと思ったからだ。当時、彼女にはもっと親しい男友達がいたが、男は仕事で動けなかった。それが命運を分けた。

用を足したら発表会会場に戻るつもりだったが、やめた。発表会を見て、家に帰って、スーパーマリオのタイムアタックをいまさら0.1秒刻んでも意味はない。妙に気が急いた。

いまならまだ、いまを生きているあの男に、追いつけるかもしれない。

2007.06.01
第43話「セキュリティの静止する日(6)」海神結

海神結芝川の橋を越えると、そこはもう研究施設の敷地内だった。

広がるのは人工的な景色だ。歩いてきたマンションエリアも、研究所も、流れる川さえも、浅瀬を泳ぐ魚も本物とは限らない。着ぐるみのネズミが海賊船のミニチュアに乗ってやってきたって違和感はない。高層マンションと研究所の境は、そんなことを感じさせる奇妙な空間だった。

20メートルほど離れたところにある駅の出入り口にはちょっとした人だかりができている。IDをぶら下げた男が、駅から出てくる人に向かって15:00の講演は中止だと叫んでいた。そういえば、研究所と同じ敷地にある会場で今日は市民集会が開かれると聞いた気がする。

あしかわライナーは、マンションの敷地を貫き東から西へと走る交通システムだ。敷地内にある駅を降りても、住民のIDがなければ、周囲に広がる土地へ足を踏み入れることはできない。駅のホームから駅の出入り口までは、巨大なマンション棟をすり抜けるスカイウォークを使う。駅から南へは行けない。歩けば100メートルもない距離なのに、乗客は荒川を見ることができないのだ。アクアスクエア西駅から荒川の河川敷へ行くには、スカイウォークを抜けたあとで、20万平方メートルはある広大な敷地を迂回する必要がある。となりの駅まで行って、ホテルとカジノの中間地点から出ている渡し船に乗るのが、すぐそばの河川敷へ行くのに実はもっとも早いのだった。

川のそばの一角は論文を発表してからずっと工事中だ。「ご迷惑かけます」の札がかかり、作業をやっているようにも見えない空間がコーンで塞がれている。一見、中にはなにもない。だが、研究所にある赤外線カメラで映してみたら、装甲車みたいなごつい車が映っていた。光学迷彩だ。研究所の屋上から見下すと、川面で乱反射する光の変化に迷彩処理が追いつかなくて、うっすらと輪郭が見えた。

研究所の表門には、その他にもガラス部分を装甲で覆った灰色のバンが停車している。出入りするのは防弾スーツを身につけた警官だ。二重三重の構えというわけである。警察だか防衛軍だかそれとも企業だか知らないが、どこかの機関が研究所を監視している。突入のときを待っているのか、あるいは守ってくれているのかは判断できない。

ヘルメットのせいでどこを見つめているのかわからない警官に手を振り、研究所の門をくぐった。警官は微動だにしなかった。研究所の警備員はにこやかに挨拶した。

表の騒々しさとは対称的に、所内はがらんとしている。いざというときのことを考えて、研究所が棲み家になりかけてる人間の他は最低限の研究員しか出勤していない。見た目は、これから世紀のアルゴリズムが公開される場所とは思えない。もっとも、公開するのがアルゴリズムである以上、どこで公開しても同じだ。それが研究室にあるサーバであろうと、街行く人が持っている携帯デバイスであろうと。

 

海神結

ひとけのない通路を抜け、談話室についた。不機嫌な顔をした男が、長い脚を組んで椅子に座っていた。小野寺俊男だ。ひとつ歳は上だが、身分は自分の助手ということになっている。俊男は言った。

「こんなときに散歩とは気楽なもんだな」
「昼食を食べてきた。外の連中があわただしいな。なにかあったか」
「ラボスクエアで講演予定のおっさんが事故ったんだよ。いまどき車で事故だ。驚いたね。ところでおまえ、なにを食ってきた」
「ゲソの串焼きだ」
「……またオープン主義者か」
俊男は顔をしかめた。嫌そうな顔だった。米の上に生魚を乗せた食べものをはじめて食えと詰めよられた欧米人でもここまで嫌そうな顔はしないと思った。

「悪い連中じゃない。きみは嫌いのようだが」
「考えかたの違いだ。平行線だよ。昼にゲソを食う人間とは構造的に親しくなれないんだ。わざわざおまえの分も昼飯を用意してやったというのに」
「悪かった。なんだ?」
「ホーギーだ。冷蔵庫にローストビーフを見つけたもんでね」
「チーズ抜きだろうな」
「無論、入れてない」
「ならば食べよう。好物だ」
長身を折り曲げるようにして俊男は立ち上がった。コーヒーメーカーにポットをセットし、冷蔵庫を開ける。流れるような手つきだ。すぐにコーヒーメーカーから蒸気がたちのぼった。談話室に深煎りの豆の香りがただよった。

「ところで言いたいことがある」手を動かしながら俊男は言う。
「なんだ」
「今日来ることになっている古渡という男、どうしてもおれは信用がならない」
「信用は関係ない。たとえ彼が新たなバベルの塔を建設しようとしたってかまわないだろう。わたしたちと彼は、互いの目的を達成するための手段がたまたま一致していたにすぎないのだから」
「バベルねえ」俊男は首を振る。窓ガラスの液晶を通して、荒川脇にそびえる高層マンション群が見えた。「もう、千とか万のレベルで世界中に建っちゃってるように見えるけどな。このうえ1個増えたところでどうにもならんだろうに。おれが神さまだったら、とうにあきらめてる」
「そうかもな」

彼の言葉のとおりだった。すでに世界は分断されていた。聖書には、バベルの塔を見て神は人の言語をばらばらにしたと書いてある。その後3500年の歳月が経過し、人類は無数のバベルの塔を建設するに至った。そして、自分と気の合う仲間だけのバベルだけを整備し、発展させ、閉じ籠もり、別の人間が運営するバベルには興味を持っていない。いまさら神が世界を再結合してくれる見込みは薄い。ならば、結合するのは人間の役目だろう。

昼食の準備に、白衣で手を拭いた。
「洗えよ」
「高機能性繊維で10秒手を拭くと、30秒間真水で洗ったのと同じ殺菌効果がある。白衣は便利だぞ」
「おまえは初等教育からやりなおしたほうがいい。ほら、食え」
小野寺俊男が用意したのは見事なホーギーだ。スライスしたロールパンに、トマト、レタス、タマネギ、ローストビーフがはさまっている。味付けはバジルと塩胡椒。かぶりついた。しゃくっとした繊維質の歯応えとともに、鮮烈なバジルの香りが鼻に抜けた。

「最近、このあたりにやきそばの巡回屋台が来るのを知ってるか?」
「知ってるよ」
「あれはけっこう儲かるらしい。これだけうまければ、ラボが潰れてもサンドイッチ屋台で食っていけるぞ」
「よしてくれ」
俊男は肩をすくめた。

2007.06.04
第44話「セキュリティの静止する日(7)」海神結

海神結談話室に男が入ってきた。
ぼさぼさ髪の男だ。痩けた頬に不精髭が目立った。白衣を脱いだら荒川河川敷にいるホームレスと区別はつかない。もしかすると、栄養状態そのものはホームレスのほうがいいかもしれなかった。

「コーヒー、1杯いただきます」
0.5度ほど頭を傾け、男はコーヒーメーカーに向かった。大学を出たばかりの若い研究員だった。廊下のどん詰まりになった部分を寝ぐらにしている。
「どんなかんじ?」
俊男がたずねる。
「いま、つめのところなんで……終わったら寝るっす」

男は盛大なあくびをしながら出ていった。後ろ姿を見ながら言った。
「ほら、意外と便利なんだよ」
「なにがだ?」
「彼も白衣だっただろう。昼も夜も着っぱなしなのに汚れてない。寒い日はくるまると暖かいらしいし」
「やかましい」

「所長は?」
「今朝方、知多半島に脱出したよ。妹の息子が高熱を出したそうだ。半島の先っぽだから、もしかしたら電話も通じないかもとメールに書いてあった。甥の高熱に駆けつけるとはたいした親族愛だよ」
「知多か……あそこはなにがうまかったかな」
「海老だな。海老煎餅なんかもいける」
「じゃあ、あとでメールしておこう。部下へのお土産は海老煎にしろと」
俊男はくすりと笑った。

研究施設といっても、このラボは、薬品も使わないし巨大な測定器もない単なる知の集合施設だった。人が来てめずらしく思うのはサーバ・ルームにコンピュータの実機が置いてあることくらいである。もともと、不遇をかこっていた先々代の所長のために企業体とNPOが金を出しあってつくったものだ。先々代の所長が引退したいま、存在理由があるわけでもない。アメリカが圧力を加えている問題に、ポストの横滑りでやってきた窓際企業人がなにをできるわけでもなかった。

ホーギーを食べ終え、コーヒーを飲んだ。俊男は、若い研究員が残していった使用済みポッドの後片付けをしている。面積の割には薄っぺらい後ろ姿に向けて言った。
「そういえば、今朝、ひさしぶりに父親から電話があったんだ」
「いい親じゃないか」俊男が応える。手は止めない。
「ニュースで名前を見たらしい」
「心配してくれてるんだろ」
「そういうんじゃないんだよ。開口一番こうきた。おまえの研究が成果を出すと、プライバシーがなくなるって本当か? ってね。どうやらまた浮気してるらしい。浮気が原因で母と離婚したのに凝りない人だ」
「それはそれは……なんというか、たいした世の中になったものだな」

「しかたない。日本はそういう国だから」カップに満ちた黒色の液体をすすった。「たとえば、このコーヒーだが、17世紀のイギリスにはコーヒーハウスというものがあった。人はコーヒーを飲みにそこに集まって情報交換をし、より効率的なシステムを考案していった。わたしたちが研究している数学の発展も、株式市場も、保険市場も、みなコーヒーハウスからはじまったことだ」
「知ってるよ」
「つまり、数学も株式も保険も、17世紀後半では草の根文化だったってことだ。そうした文化の流れを直接継承する欧米の人間は、日本人と違って旧来のシステムへの信頼度が高い。なにかがまちがっていたら、皆で議論してまたつくりなおせばいいと思えるからだよ。だけれど、17世紀に後進国だった国はだめだ。それらの文化は輸入したもので、自分たちで考えたものではないから」
「ネットとコンピュータが発展したとき、日本はもう先進国だったはずだぞ。コンピュータによる文化の革命は、日本人もゼロから組み上げるのにひと役買ったはずだ」

「そのとおり。わたしたちは自分で誤りを正すことができるはずなんだ。見えない柵によって無意識のうちに行動が制限されてしまっているこの分断状態について、それが本当にいいのか悪いのかもう一度考えてみることができる。携帯デバイスという1杯のコーヒーで、誰もがこの議論に参加できる」
「議論になんかならんと思うがな」
「言葉を戦わせるだけが議論ではないよ。行動し、その行動が記録されたライフログを見たり見られたりするのだって、いまや立派な議論だ」

ふたりの携帯デバイスがピンと音を鳴らした。俊男は眉をひそめる。
「噂をすれば、だ。来ちまった」
今日は古渡一郎が来ることになっていた。俊男が携帯デバイスを引っぱりだす。
「3階、小野寺です」
「1階、警備担当統轄です」いつもの合成ボイスではない。30代ほどの男の声だ。「お忙しいところもうしわけありません。かわぐち署のかたがお越しになっています。州警本部には問い合わせ済みです。まちがいありません」
ふたりは顔を見合わせた。

「警察? 警察がなんの用? いや、用はあるのかもしれないけれどいま来るってのはなんだ。いや、なんですか?」
「護送中の逃亡犯が施設内に侵入したそうです。お通ししますか? まだ捜査令状がありませんので、拒否することは可能です。その場合、本社に応援を頼むことになりますので、ご指示ください」
「ちょっと待て。逃亡犯ってなんだ」
「存じません」
携帯デバイス越しの警備員の声は冷静だ。

「ごめん。3分待ってくれ。こっちで対応を決めるから」
「了解です。3分後にまた連絡させていただきます」
通話が終わった携帯デバイスを俊男は操作した。談話室の壁紙兼スクリーンがネット端末のディスプレイになる。俊男はニュースフラッシュを表示し、検索。実行。
「こいつか!」
昨夜未明、交通事故を起こした五十嵐貴男という男が護送中に逃亡していた。となりの会場で講演を開く予定になっていた男だった。

「どうする?」
「わたしたちに後ろ暗いところはない」
「外に装甲車が停まってるってのに、警察はなに考えてるんだ」
「“見えるほう”の装甲車の連中とは話はついているんじゃないかな。問題は見えないほうだが、だからといって犯罪者を追跡する警察を邪魔するわけにもいかないだろう。わたしたちは給料を貰って研究をしている善良な一般市民なのだから」
「言ってろ」
また、ピン、という音がした。

「お忙しいところもうしわけありません」
「なんだよ!」
警備担当統轄は厳粛な声で言った。
「1階受付に古渡一郎さんがお見えです」

2007.06.05
第45話「セキュリティの静止する日(8)」海神結

海神結1階に降りていくと、入り口のところで警備員と警官が押し問答をしていた。濃紺の防弾チョッキを身につけた壮年の警官の背後にアメリカンフットボールの選手と同じ体格の若手が5人、スクラムを組んで立っている。彼らの胸には、かわぐち101からかわぐち105まで、白いゴシック体でプリントがしてあった。対する警備員は3人。装備では負けてないが体格はだいぶ劣っている。白クマの群れに立ち向かうペンギンのようだった。

その様子を脇で眺めていた古渡がこちらに気づいた。近づいてくる。
「なぜ警察がいるんだ」
古渡は吐き捨てた。怒っているような口調だ。彼の怒りの矛先を向けられても対処のしようがない。横を見ると俊男も困っている。さあ、と手を広げてみせた。警備員と警官は言い合いをつづけている。聞いていると、犯罪者が逃げ込んで、凶器を持ってるかもしれないから一時的に施設を空け渡せということらしい。責任者らしき壮年の警官が怒鳴った。
「民間人は施設内から出て行ってもらう」

「なに!」
声をあげたのは古渡だ。警官は、なんだこの爺さんはという顔で古渡を眺めた。もう一度言った。
「ここは危険なんだ。生命の危険がある。許可のない民間人は出ていってもらう」
「おまえら、なんの権限があって——」
古渡の言葉を、俊男が強引に奪い取る。
「避難勧告とか避難命令が出れば荷物をまとめて出ていきますよ。おれたちは善良な市民ですからね。その前に、施設立ち入りの令状をお願いします」
背後に立つ警官たちの隙間から、壮年の警官はちらりと表の装甲車を見やった。

「とにかくここは危険なんだ」
「令状、ないんですね?」
「いますぐ許可をもらうことだってできるんだぞ。そうしたら強制執行だ」
「すみません。あなたたちが仕事であるようにこっちも仕事なものですから。施設を簡単に空け渡すわけにはいかないんです。令状をもらってきてくだされば、強制執行でもなんでも受け入れますよ」
「本当に危険なんだ」
「その危険から市民を守るのがおまえたちの仕事だろうに」
あさっての方向に向けて古渡がつぶやいた。警官は、頭の上に黒いもじゃもじゃを浮かべた。

「とにかく、施設内には入らせてもらうぞ」
「それはどうぞ。あとは施設の警備担当と相談してください」
俊男の言葉に、控えていた警備統轄が歩み出た。
「所内立ち入りには、1グループにつき1名、我々が同行させていただきます」
「かまわん。監視デバイスの情報をもらうからな」
「それにも令状が必要です。さいたま総合セキュリティ・サービスは、顧客のプライバシーの保護のためのすべての権利を行使します」
「なにかあったらどうするんだ!」
「法律の枠内で処理します」
「だいたい、おたくら、民間の警備会社でしょ? なんの権利があって犯罪者を捕まえるの?」
「私有地に不法侵入され、財産と生命の危険に晒された一市民の権利です」
警備統轄の言葉にはゆらぎがない。これではどちらが警官だかわからなかった。思わず、口許がゆるんだ。俊男が肘でこづいてくる。

「なに笑ってんだよ」
「この構図がおかしくてね」
「すこしもおかしくないだろうが」
「悪いことをやった男がひとり、施設に紛れ込んだ。まわりは装甲車だらけ。常識的に考えれば、ひとりの男など一瞬で逮捕できる数の人間が領家周辺には集っている。施設に勤めるわたしたちだって、もちろん男は早く捕まえてほしい。だけれど、皆自分たちだけの都合を優先して、他の人間の協力はしない。仕事の邪魔をするなと文句を言うだけだ。男は、のうのうと施設の中を逃げ回る。これは、いま、世の中で起きていることの縮図と言えないか」
「社会なんてものはなにもできやせんのだよ。群れる他人に期待するだけ無駄だ」
古渡が会話に割り込んできた。彼は、70過ぎとは思えぬ鋭い瞳で警官たちの動きを睨みつけている。

この状況における古渡一郎という男の役目はなんなのだろう。ふとそう思った。なにかの鍵となる人物なのか。それとも、状況に介入してきて、金を出す代わりにぶちぶち文句をもらす人間の役なのか。本人に聞いてみようかとも思ったけれど、横目で見ると、俊男が首を横に振っている。それは聞くな、ということらしい。彼も同じことを考えていたようだ。
「ところで、いまの縮図に例えると、おまえが逃亡犯役ってことになるぞ」
「そうかもしれないな。是非、犯罪者殿には逃げ切ってほしいね」
「無理だろうな。ライフログによる位置検索と監視カメラ。ひょっとすると、家でネットを見てる弟だって、いま頃逃亡犯の居所をピンポイントで掴んでるかもしれない。ここまで逃げてきたのだって奇跡だよ」

「例のギートをしているという弟か」
「そう。むかしから監視カメラを覗き見するのが趣味な奴でね。所内のは見られないとしても、ここにはたくさんカメラがある」
俊男は周囲を見回した。高層マンションを囲む塀に沿って、数十メートルおきにカメラが設置してある。透明な塀は、ところどころ半透明となり、カメラが撮った像を映し出している。あなたは監視されていますよ、ということを無言のうちにアピールしているのだった。
「見て、弟くんはどうするんだ?」
「さっぱりわからない。あいつは本当はやればできるんだが。なにを考えているんだか。子供の頃のIQテスト、あいつのほうがおれより高かったのに」
「それはなかなかだな」

「警察との話はついたんだろう。さっさと行くぞ」
古渡が言った。
「やれやれ。誰がここの主だかわからんな」
ちいさな声で俊男がぼやいた。古渡には聞こえていない。警備統轄と警官たちはグループ分けについて協議をつづけている。午後の陽射しが強い。警官たちの足元で影が濃かった。寝不足の研究員と逃亡犯とコーヒーと、セキュリティの危機をもたらすアルゴリズムが待つ研究所内へ、ふたりの若者とひとりの老人は入っていった。

[登場人物]
海神れい
海神れい
海神結
海神結
小野寺笑男
小野寺笑男
山出さくら
山出さくら
小野寺明
小野寺明
君島フランツィスカ史帆
君島フランツィスカ史帆   

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