2007.01.31
スリニヴァサン・インタビュー
■某新聞サイト、著者インタビュー
■エリック・スリニヴァサン、『ギート化する社会2』、ベルテルスマン講談社新社
■2043年5月収録、より抜粋

……新著の『ギート化する社会2』では、ベストセラーとなった前著に引き続き、ゲームプレイ・ワーキングの誕生は革命的であると述べつつも、同時にそれは人間の尊厳を損なうものだとも指摘しています。
 前著から10年のあいだに、ゲームプレイ・ワーキングの市場規模は50倍になり、ギートのライフスタイルはいまや各国でさまざまな軋轢を引き起こしています。中国では、前著の出版後にゲームプレイ・ワーキングへのアクセスが禁じられ、現在でも十分には開放されていません。昨年のジョグジャカルタ・南アジアサミットでは、ゲームプレイ・ワーキングのグローバルな展開は、国・地域による購買力の格差を利用した新しいタイプの植民地経営であるとの強い声明も出されました。
 そのような状況のなか、ゲームプレイ・ワーキングの将来にあるていど悲観的になってきたということでしょうか。

——そうではありません。10年前と同じく、私はいまでもゲームプレイ・ワーキングに肯定的です。私たちは、ゲームプレイ・ワーキングのおかげで、かつてなく効率的で、かつてなく安楽で、しかも匿名的な労働環境を手に入れつつある。それは単純にいいことです。
 しかし、他方で、その労働のありかたが伝統的な人間観にそぐわず、また富の偏在を加速していることも事実です。ゲームプレイ・ワーキングの本質は、分業の徹底化です。そこでは、ゲームとして加工された仕事が、最終的にどのような商品や現実と対応しているのか、労働者にはまったく知らされません。仕事の発注者と受注者のあいだは、暗号によって絶対的に隔てられています。労働者は、自分の労働力が何に使われ、またその産物によって発注者がどれほどの利益を上げているのか、まったく知ることができない。労働者と労働者が産みだした商品の乖離、かつてマルクス主義者が「疎外」と呼んだ現象が、ゲームプレイ・ワーキングでは徹底して推し進められています。
 ご存知のとおり、2030年代には、この点の解釈をめぐり、フランクフルト学派第6世代の社会学者と、ブエノスアイレスにあるグーグル社会資源研究所のあいだで有名な論争がありました。フランクフルト学派は、参加者に焦点を当て、ゲームプレイ・ワーキングは人間から創造の喜びを奪い、尊厳を脅かすから悪だと言い、グーグル研究所は、業務提供者に焦点を当て、それはむしろ人間のクリエイティビティを拡張し、尊厳を高めるシステムだと主張します。
 私自身も論争に参加しましたが、私はそのどちらの側にもつきませんでした。というのも、私は、ゲームプレイ・ワーキングの台頭は、むしろ、その対立そのものを超えていることが重要だと考えるからです。たとえば、ゲームプレイ・ワーキングの従事者は、「ワーカー(労働者)」と呼ばれることもあれば「ユーザー」と呼ばれることもあります。この二つの言葉が同じ意味で使われることそのものが、実はとても興味深いことです。ゲームプレイ・ワーキングの従事者は、ゲームプレイを労働だと考えているのか、それとも娯楽だと考えているのか。むろん答えはどちらでもある。ゲームプレイ・ワーキングは、労働と娯楽、労働と消費、労働と暇つぶしの境界を超えている。したがって、それは労働力の巧みな搾取なのか、それとも新しい娯楽や表現手段なのか、と問うても意味がないのです。
 そしてこれは、そもそも「人間の尊厳」はなにか、といった大きな問題に繋がっています。多少大胆に言えば、ゲームプレイ・ワーキングの成功という現実は、私たちの大部分が、多くの社会思想家の想定と異なり、あるていどの衣食住さえ保証されていれば、「疎外」や「搾取」などまったく気にしていないことを意味しています。だからといって、搾取がいいということにはならないでしょう。でも私は、今後は、もし人間の尊厳を考えるのであれば、まずその現実を受け入れて議論するべきだと思います。それが新著のテーマです。

2007.01.31
第1話「古本2045(1)」名も無い男

西暦2045年11月25日

一面の本の山だ。

ひさしぶりに見た。めまいを感じた。木材を粉砕し蒸気で煮て繊維を取り出したのち平面に広げ乾かす。そうやって作られた紙が何百と束ねられているのが本という物体だ。いまここにあるのは、その本を何百何千と積み上げてできた山だった。

トラックの荷台にも本はうずたかく積まれている。最近では見かけなくなったエタノールエンジン搭載車だ。燃焼室で生じる爆発に合わせ、荷台の梱包が小刻みにゆれている。後部に集中した重量に車体は傾いて、トラックは、天空に向かって飛び立つ準備をしていようにも見えた。

11月の空の青は薄い。空気は冷たく、ときおり思い出したように肌を刺してくる。力仕事で首筋ににじむ汗はしたたることなく消えてゆく。

「有名なさ。有名な評論家が、死んだんだってよ」
ポリエチレンテープで本をくくりながら言ったのは60がらみの男性だ。赤羽の古本屋だと聞いている。
「いまどきすごい量の蔵書ですよね。その人、おいくつだったんですか」
「75だったかな。まだ若い」
「捨てちゃうの、なんだかもったいないですね」
「めぼしいもんは管理協会がみんな持ってっちゃったんだよ。残ってるのは金になりそうもないやつだけだ。紙別に分けなきゃ、引き取ってももらえない。欲しいのがあったら持ってってもいいよ」

古本屋の言葉に、縛りかけの梱包へと目を落とす。一番上に乗っていたのは週刊アスキー2045年号と書かれた情報誌だ。持ち上げる。ぱりぱりと、乾いた紙の音がした。

「おまえさん、運がいいね。そいつはオークションに出せば小銭になるかもよ」
古本屋が笑った。
「今年の雑誌が?」
「まさか。今日び、有料の情報誌つくってる出版社なんかありゃしない。よく見てみなよ。そいつは大昔に出た週刊誌の付録だ。21世紀になりたての頃、未来を予想するってのが流行したことがあるんだ。そのときつくられたバカバカしい企画本だよ、たしか」

しげしげと雑誌を見つめた。

紙魚が変質させた古紙の匂いがした。どこかなつかしい。平成と呼ばれていた時代のかおりだ。その評論家とやらが死んで自分の目にこの本が止まったのは、もしかしたら、ちょっとした運命というやつなのかもしれない。ホームレスになって日銭を稼ぎ出す前のことだ。まだ紙媒体の情報誌がかろうじて生き残っていた時代があった。ゲームプレイワーキングとかいうものが世の中にはびこり、仕事にしていた若者向けエンターテインメント誌を市場から駆逐する以前の話だ。

晩秋の空気に晒されていたはずの表紙が、なぜか、熱く感じられた。過ぎ去った時代の熱気を指先が感じとったのだろうか。あるいはそれは、かつて胸を焦がした想いと同じ、情熱と呼ばれるものの残滓だったのかもしれない。

40年もの昔につくられた40年後の世界を予想した雑誌の第1ページめを、ゆっくりとめくりだす。

2007.02.01
第2話「12万人の怒れる名無し(1)」小野寺笑男

監視カメラの先に少女がいた。
ショートカットの少女は、昼どきの道端に立ち、ほけっと北の空を見上げている。

東京特別市の北端にある赤羽の町から北に顔を向けると、荒川スーパー堤防の向こう側ににょきにょきと建っている高層ビル群が視界をさえぎる。河を渡れば南関東州だ。のっぺりとした地平線に我が物顔でそそり立つ高層ビルは、テキサスの荒野に生えるサボテンや、アンデスの岩山に自生するなんとかという高山植物のようにも見える。

少女は、そんな風景に視線を向けている。
小学生にしては表情が大人び、かといって中学生にしては線が細い。右手に握りしめた赤いひもの先に、偏差値の高そうな小型犬が繋がれている。州立大学首席クラスの偏差値はありそうな犬だった。少女が眺めている空とビルを、ビー玉みたいなブルーの瞳で犬も注視している。

海神れい

彼女は、犯罪者には見えなかった。

むしろ客観的に見て犯罪者っぽいのは、見知らぬ少女を物陰からウォッチしている自分のほうだろう。ヤバイぞ自分。警察に職質でもされたらたいへんなことになる。少女絡みの犯罪は追及が厳しい。監視カメラへのアクセス記録を調べられたら、変質者としてこの先一生マークされかねない。なにしろ、社会的に見たら、高校卒業後進学も就職もせずふらふらしている無職の身だし。いや、世間ではギートとか呼んでいるらしいけれど……。

手元の携帯デバイスから、少女をレンズに捉えているはずのカメラ画像を呼び出した。

見えない。

パケット落ちしているらしく、画面はブロックノイズが暴れまわっている状態だ。他のカメラも試してみたが、やはり画像が乱れている。

アクセスしたのは、街灯にくくりつけてある監視カメラである。赤羽アジア街の商店組合が独自にとりつけたものだ。気の利いたホームセンターならどこでも売っている無線接続のカメラで、いちいちケーブルをサーバーまで引っ張る必要がない。

近隣住民のアクセスコードを持っていれば、誰でも、ネットを通してカメラの映像を見ることができる。人口よりも多く全国に散らばって存在する監視カメラのすべてをチェックするほど警察は暇じゃないし、警備会社と契約すれば莫大な維持費用がかかる。だから、住民すべてが閲覧可能なのだ。カメラにアクセスすれば、カメラの映像と、カメラの映像を見ている人間のIPアドレスを見ることができる。カメラに映った人間も、映った人間を見る人間も相互に監視されるシステムである。

本当なら、この少女のようなガキを犯罪から守るために監視カメラは設置されている。だけれど、映像の送信を妨害しているのが少女である可能性は高い。監視カメラが使用する電波帯域を勝手に使うのは違法行為だ。監視カメラを恐れる奴は、犯罪者か、犯罪者の手先なのだ。

そのときだ。少女が、こっちを振り向いたのは。

2007.02.01
「ゲームプレイワーキング」
■Wikipedia日本語版
■「ゲームプレイ・ワーキング」
■2045年9月12日最終更新、より抜粋

 ゲームプレイ・ワーキング(GPW)あるいはプレイワークは、特定の知的作業を、極小単位に分割し、ネットワーク上に公開し、本来の作業とまったく異なった印象を与えて多人数に匿名的に実行させる、匿名集団単純知的労働の一種である。
 GPWは2020年代に誕生した歴史の浅い労働形態だが、すでに世界経済の重要な一角を占め始めている。2045年現在、3000近いGPWプロバイダが活動し、毎週2万種類以上のGPWをリリースしている。日本の南関東州では、生産人口のほぼ1割、145万人がGPWの専従者(GPWでの収入を主な収入源としている労働者)だと言われている。……

 GPWの規模は数ドルのものから100万ドル以上のものまで多様であり、また質も、個人のデータ整理から企業の意志決定の支援や都市交通の制御まで実に多彩だが、その基本的な公開のシステムは以下のとおりである。
 GPWサプライヤ(業務の提供者)は、GPWプロバイダと契約し、特定の業務を解答の指定とともにプロバイダに委託する。たとえば、もし都市計画の予備調査をGPWで行いたいのであれば、交通網の最適解を解答として指定し、人口予測や交通需要予測、建設予算など必要な情報をプロバイダに委託することになる。
 GPWプロバイダは、サプライヤから委託された課題を、GPWに適した形式の数学的課題に変形したうえで、「数学的に圧縮」する(カネコ解析を用いて多項式時間判定濃度を下げる)。つぎにその課題を分割し、エンターテインメント・インターフェイスを付したうえで、極小単位でネットワークに公開する。インターフェイスの多くはパズルゲームやアクションゲームだが、まれにロールプレイングゲームや戦略シミュレーションがスキンとして利用されることもある。業務のGPW適合課題への変形はもっとも困難な作業であり、人間のコンサルタントが入ることも多い。現在のところ、この部分がGPWのボトルネックだと見なされている。
 ゲームプレイ・ワーカーあるいはGPWユーザーは、一般にGPWプラットフォームと契約する。GPWプラットフォームは一種の検索サービスであり、ワーカーのプロフィールとその時点での状況を判断したうえで(多くの場合はライフログデバイスとの連携が必要となる)、その能力に適合したGPWを探し、端末にGPWへの参加を提案してくる。たとえば、ワーカーがパズルに適合性が高く、空き時間がおよそ20分と判断すれば、簡単な落ちものゲームを送信してくる。ワーカーはもし気が向けば、それを解決し(ゲームをクリアし)、結果をプラットフォームを介してプロバイダに送信する。ワーカーが送信した結果は、プロバイダによって統合され「数学的に解凍」され、指定された解答形式に変換されてサプライヤに提供される。GPWプロバイダは多くの企業が競合しているが、GPWプラットフォームの市場は、2045年現在、Microzon Playwork と Google Total Life Complete にほぼ二分されている。
 サプライヤは、ワーカーたちの計算労働の結果をリアルタイムで受け取ることができるが、処理過程は数学的に圧縮され分割されているため、だれがどの仕事を行ったのか、ワーカーの個人情報や履歴を入手することはできない。他方でワーカーも、自分が行っているゲームプレイがどのような解答に変換されるのか、業務内容を知ることはできない。サプライヤがプロバイダに支払う対価は、貢献度に応じてプラットフォームに分配され、さらにワーカーに分配される。……

 GPWのアイデアそのものは、20世紀末のオープンソースやグリッド・コンピューティング、オンラインゲーム内のリアルマネートレードにまで遡る。しかし、現在の形態のGPWが成立するためには、2020年代初頭のスティーブ・カネコらによる、P≠NP予想の独創的解決を待たなければならなかった。……

 2020年代から2030年代にかけてのGPWの急速な成長は、新しい経済圏と新しいライフスタイルを産みだし、多くの産業を育てたが、他方で、伝統的な労働倫理を破壊するものとして諸方面から強い批判を受けることにもなった。とりわけその批判は、英語圏に比較して物価が安く(GPWの報酬が相対的に高く)、若年層の就職意欲に敏感な経済発展段階にあり、かつ伝統的な価値観を強く残す東アジア共同体諸国で強い。
 中華人民共和国連邦は、2034年に、領域内のインターネット・サービス・プロバイダに対してGPWへのアクセスを閉じるように指示を出し、続く数年で、インドネシア、ベトナム、タイ、カンボジア、マレーシアでも類似の指示が出された。多くの国ではその措置は数年で撤回されたが、中国では2045年の現在も、国内の端末からGPWへのアクセスが大幅に制限されている。……

2007.02.02
第3話「12万人の怒れる名無し(2)」小野寺笑男

少女は振り向いた。
犬も振り向いた。

ひとりと1匹、合計4つの瞳だ。それがこっちを向いている。というか、頭上にある看板を見ている。視線を移すと、ペンギンの宅配便のマークが描いてあった。正午の陽射しの下で、段ボールを抱えたペンギンが能天気な笑みを浮かべている。息を吐いた。熱い気体が、晩秋の風に溶けていった。わん、と鳴き声がした。犬の専門学校で発声練習したような見事な、わん、だった。

少女が引き手を放した。
「ななほし。許可する。噛め」
「わん!」
小型犬が走り出す。
錆色をした歩道タイルの上をすべるように近づいてくる。

左右を見回す。誰もいない。
犬の目的地は、さっきまで物陰だったはずのこの場所だ。

「ちょっと待った! ちょっと待った!」
犬は止まらない。
右手にあるのはタイ料理屋。脇にある花壇は地上80センチほどの高さだ。跳び乗った。のぼりの棒にしがみつく。ランチ480円と書いてあった。布がはためき、顔を打つ。息が詰まった。足の裏のその先で、ちん、とちいさな音がした。小型犬の上の牙と下の牙がぶつかった音だった。

少女がゆっくりと歩いてくる。

「小学生のわたしを物陰から凝視するおまえは変質者だろう。変質者はななほしに噛ませていいと、兄さまが言っていた」
のぼりの棒はプラスチック製だ。体重をかけると、ぎしぎしと軋む。足元で犬が唸っている。ちっちゃな牙の先から、透明な雫が地面にしたたっている。
「おまえの兄はとんでもないぞ。人としてまちがってる。ぜったいだ!」
「ななほし。がぶっといけ」
「わん」
「待て。待てって!」
「わん! わん!」
「わん、じゃねえよ、クソ犬! やめろって。やめろ。わかった。おまえの兄はまちがってない。まちがっていないが、ぼくも変質者じゃない。本当だ。両者は両立する」

少女がしゃがみこんだ。
「ほんとうに?」
「本当だ。本当に本当」
座ったまま、少女は小型犬を抱き寄せる。

昼どきの通りをまばらに人が歩いていた。それは、電動カートに引きずられながら移動する老婆だったり、エプロンをした南国風の女性だったり、あるいはスーツの上にコートを羽織った男だったりする。ネズミ色の作業服を着た男は、不審そうな視線を一瞬投げつけ、タイ料理屋の中へと入っていった。一瞬開いたドアの内側から、食器がぶつかる澄んだ音と、甘さと辛さの入り交じった匂いが漏れ出した。

犬をつかむ少女の腕は細かった。脚も細かった。病的というほどでないけれど白い肌に、ショートカットの黒い髪と漆黒の瞳が印象的だ。犬はおとなしく少女の腕で目をつむっている。

花壇から降りた。
「こりゃ、ぼくの勘も鈍ったかな……」
「そうだそうだ」
「わん」
「うるさいな」

監視カメラの不調は少女が歩いてきた方角からずっとつづいていた。てっきり彼女が原因なのではないかと考えたのだが、もしかしたら見当違いだったのかもしれない。雰囲気は独特だが、目の前にいるのは普通の少女である。

だけれど、頭の片隅にひっかかったなにかは消えていなかった。ごくごく小さな疑念にすぎないが、完全にゼロになってはいない。物心ついた頃から、全国にある監視カメラに片っ端からアクセスし、匿名掲示板で嘘八百を並べ、見ず知らずの人間を右往左往させてきた勘みたいなものが告げている。

この少女には、なにか、秘密がある。

2007.02.05
第4話「セキュリティの静止する日(1)」海神結

南関東と東京首都の州境に、1本の川が2本に分岐する場所がある。昭和初期に人工的につくられた太い流れが荒川、自然のままに曲がりくねる流れの名が隅田川だ。上空からこの地を見下ろせば、大口を開けて緑の丘を飲み込もうとしている大蛇にも見える。分岐点に浮かぶ小島が目、隅田川への水量を調節する堰が牙である。

大蛇の顎の奥——中州部分に立つと、黒々とした水のうねりと、川面をかけ抜ける風を感じとることができる。神ならぬ人の手によって2つに分けられた水たちは、うずを巻き、泡立ち、天空に向かってぷくぷくと不平を漏らしている。そうかと思うと鏡のように平らな水面が一瞬だけ現れ、どこまでも青い空を映し出したりするのだ。

あらかわ中州は、オープン主義者と呼ばれる思想集団の溜まり場となっている。

以前は彼らも街中に住んでいた。しかし、彼らの周囲にある監視カメラの記録は誰でもアクセスできる。それが、オープン主義者たちの信条だからだ。すべての情報は公開されるべきなのだ。彼らが設置したカメラの前では、見ず知らずの男や女がやってきて、世界に向けて全裸をさらしていくという事件が絶えなかったという。
どこの誰だかわからぬ人間の奇行が原因となり、オープン主義者たちは地域住民と揉めることとなった。そして、移動を余儀なくされた。南関東と東京首都のあいだでどちらが管理するかはっきりしないまま放置されているこの場所に落ちついたのは、つい半年ほど前のことである。

「こんなところでなにをしている、海神」

背後からの声に振り返る。立っていたのは痩せぎすの男だ。流行とは無縁のシャツとジーンズを身につけ、右手にハブラシ、左手にゲソの串焼きを持っていた。
「朝飯だ。よかったら食え。おれはもう食った」
「もう昼だ」
「おれにとっては朝だ。意外にいける」

男から串焼きを受け取った。川の上流から吹きつける風に、焦げた醤油のかぐわしい匂いが混じった。
男が隣に立つ。歯磨きをはじめた。串焼きにかぶりつく。醤油の味とともに、脚がちぎれる小気味いい音が口内に広がった。

男が言った。
「まだ迷ってんのか? 全世界とは言わないが、日本中がおたくの動向を見守ってるってのに」
「知っている」
「なのにのんびりと川の見学かよ」
「この場所の映像は公開されている。本気で調べようと思えば、わたしがここにいることは誰でもわかる。だから、かえって気が楽なんだ。誰かが自分の場所を気にしているという妄想にとらわれずにすむ」
「そんなもんかね」
川風に胸を張り、男はごしゅごしゅと歯を磨いた。

「知っているか? ほんの40年ほど前、国民に番号が割り振られると、警察や体制に行動の自由を奪われると人々は考えていたそうだ」
「ほう」
「たとえばわたしはワダツミ・ユウと呼ばれているが、これを本当の名だと自分で認識しているかどうかは別の話だ。携帯デバイスに挿さっているちっぽけなチップに書き込まれた番号が、あるいは、わたしの“真の名”というやつなのかもしれない。心の底では、記憶すらしていないこの24ケタの16進数を本当の名前だと思っているのかも……」

「ミヤザキだな。古典アニメーションだろ。見たことあるよ」
泡だらけの口に男は笑みを浮かべる。
「違う。ゲド戦記はル・グウィンの作だ」
「なんだ。そうなのか」
「真の名を知られた者は、知った者に従属させられる。だから、親がつけた名や、顔や、行動のすべてをカメラの前に晒しても、真の名は電子機器にしか明かさない。それがいまのわたしたちだ」

「おたく、数学者のくせに詩人なんだな」
泡まじりの白濁液を、川に向かって男は吐き出した。水面に広がった泡は、右か左か迷ったあげく、2つに別れて荒川と隅田川へ流れていく。

「わたしが考えたんじゃない。妹の受け売りだ」
「妹? そんなのがいたのか。何歳?」
「11。離れているんだ」
「かしこい子だな」
「れいは、ときどき、非常にかしこい。多くのときはそうではない」
「妹なのにひどい言いようじゃないか。仲でも悪いのかよ」

「悪くない」言葉を区切った。「妹は病気なんだ」

2007.02.06
第5話「パラノグリッド(1)」小野寺笑男

少女の手首には四角いタトゥーシールが貼ってあった。脈をはかるときに触る場所だ。プリント基盤状の模様にFAMILYの文字が浮かびあがっている。小型犬を撫でようと手を動かすたび、印刷文字がきらきらと光を反射させた。

この少女は、おそらく、東京首都内にある赤羽のどこかに住んでいて、南関東州の近親者の元へ行く予定なのだろう。タトゥーシールは、南関東州用のPSPカードだった。

行政サービスの多くが民間業者に委託されている南関東州では、公共サービスを使用する際、PSP(公共サービスプラットフォーム)カードと呼ばれる登録証が必要となる。もちろん、無くてもなんとかなるが、持っていたほうがずっと快適な生活を送ることができる。

多くの住民は、ICチップ状のPSPカードを携帯デバイスに挿し込んで使っている。指輪などのアクセサリーに埋め込む人もいるし、本当のカードにして持ち歩く人もいる。短期間で付け替えることを前提とするなら、家やコンビニのプリンタでシールに印刷してもいい。
PSPカードは、街中に無数に存在する電子機器たちと勝手に会話をし、記録し、承認し、ゲートを開いたり閉じたりする。ときには警告を発したり、必要であれば口座から利用料金を引き落としたりもする。光速で往き来する機械たちのささやきを、人間がうかがい知ることはできない。

少女は言った。
「兄さまはえらい研究をしているえらい人なのだ」
「……へえ」
「わたしは、兄さまの研究に必要なものを届けなければならない」
「おつかい、なんだ? えらいね」

少女の眉がはねあがった。小型犬が、かちん、と牙を鳴らした。

「おつかいなどではない。おとどけはじんそくらくがきむよう。今日はとくべつな日だから、川向こうへ行くのだ。別の州だぞ。インポッシブル大作戦なのだ」
「例のあれか。知ってるんだ。ちいさいのにすごいね」
「ちいさいとかゆうな」
犬が唸った。のぼりの棒に手をやる。体重を受けた棒が、頼りなくたわんだ。
「わん」
「わ、わかったよ。ちいさくない。細いだけだ。ちなみに、そのわんこもたいへんに賢こそうだ。本当だ。本当だからけしかけるなよ」
「ならばよし」

ちょっと雰囲気が変な気もしたけれど、目の前にいるのは普通の少女のようだった。小学生の女の子からすれば、州境を越えた移動は一大決心のいる大冒険なのかもしれない。たとえそこが、地続きで、同じ日本人が住んでいて、行政システムがほんのすこし違うだけの土地だとしても。

少女は立ちあがる。
「変質者でないのなら名を名乗ってもらおうか」
「は?」
「自分の名前を言えない人間は変質者だと兄さまが言っていたからな」
少女のとなりでは、話の内容がわかっているかのように犬がうなずいている。

「さあ、むこのつうこうにんだと言いはるなら名乗るがいい」
「べつにかまわないけど、嘘の名前を言われたらおしまいだよ。どうせなら、PSPカードの番号とか住民登録番号とかを聞いたほうがいいんじゃないか?」
「真の名は他人には明かさないものだ。魔法使いに支配されてしまうからな」
「なんだそりゃ」
「知らないのか?」少女は小首をかしげる。「はんざいしゃでーたべーすに登録された人間は、ななほしがちゃんと検知してくれるんだぞ」
「ああ、そういう犬だったのか」
「そうだ。ななほしはえらいのだ」
ふふんと偉そうに笑った。

「ぼくはオノデラ・エミオ。犯罪歴はなし。見てのとおり、無辜の通行人だ」

「ならばわたしも名乗らねばなるまい。わたしは海神れい」

薄っぺらな胸を精一杯張って、れいは言った。
ずいぶんと芝居がかった少女だった。

2007.02.07
第6話「パラノグリッド(2)」小野寺笑男

「チョットイイデスカ」

外国人だった。突然声をかけられた。
「カワグッチハドチラサマデスカ?」

正午過ぎのアジア街だ。道ゆく人々は空いた腹を抱え、または食材を抱えて足早に歩いている。そんな中、道端でぼうっと突っ立っている2人と1匹は声をかけやすい存在だったのかもしれない。
道を聞いてきたのは、見上げるような白人の大男である。顔も体も角ばっていて、無駄に体積が大きい。顔の造作が中心に寄っているものだから余計に大きく見えるのだ。原色の看板があふれる町に、黒色のロングコートが異彩を放っていた。

「アノウ、カワグッチナンデスケド」
外人というよりエセ外人っぽいしゃべりかただった。ネットに落ちていた古典落語で聞いたことがある。よほど込みいった話をするのでもないかぎり、カタコトの日本語より通訳デバイスを使ってくれたほうが意思の疎通がしやすいのだけれど。

「ええと」
言いながら、荒川のスーパー堤防の上にそびえるひときわ大きな影を指さした。カジノに併設されたリゾートホテルである。
「歩いていくなら、あの高いビルを目指せばいいです」

「ひとつ質問なのだが……」
れいが横からつっついてきた。
「なんだよ。話し中なんだよ」
「このでかい白人にはていねい語なのに、どうしてわたしと話すときには“ですます”がつかなかったのだ?」
「わけわかんないこと言うなよ」
「わかんなくない。おかしい」
「そういう風に決まってるんだよ」
「てきとうなことゆってるとななほしに噛ますぞ?」
「武力を交渉の道具に使うな」
「なるほど。それは一理ある」
れいは重々しくうなずいた。

白人の大男は、こちらの会話をけげんな顔つきで見ている。早くて聞きとれなかったのかもしれないし、聞きとれても内容が意味不明だったのかもしれない。

「川口に行くなら南関東州のPSPカードがあったほうがいいと思いますよ。わかります? PSPカード?」
「PSP Card? モッテマース」
そこだけ英語の発音をして、男は最新型の機種を取り出してみせた。携帯デバイスを渡されているところを見ると、この外国人はけっこう裕福な旅行者なのかもしれない。旅行会社は、使い捨てできる本当のカードを渡すことが多い。

携帯デバイスがあるならそれにナビをしてもらえばいいのに。人に道を聞くよりよほど正確で親切だ。
もっとも、このおっさんが、テキサスかどこかの見渡す限りの小麦畑からやってきたのだとすれば、知らないのもしかたない。世界でも有数の電子情報化国家である日本の中でも、東京首都と南関東州はもっとも携帯デバイスが発達している地域だ。ここまで発達している場所は、他にはシンガポールくらいしかないと聞く。

真夏の太陽みたいな笑みを浮かべて大男は立っている。

タイ料理屋のドアが開いた。勢いよく踏み出した作業服の腿が白人の腕を直撃する。

携帯デバイスが落下した。

歩道タイルに直撃する寸前、作業服の腕がつかまえた。
「おっとごめんよ」
作業服の男が言った。デバイスを放って返す。白人の大男が両手でお手玉する。
「わん」
歩み去る作業服の背中にななほしが吠えた。
「ここで突っ立っていてもしかたなかろう。わたしも川口へ行くところだ。ついてこい」
言うだけ言って、れいが歩き出した。大男がその後を追う。携帯デバイスを確認する。

れいも、自分の姿も、おっさんも、監視カメラにはやっぱり映っていなかった。

2007.02.08
第7話「パラノグリッド(3)」小野寺笑男

れいは川口に向かって歩き出した。先導するのは小型犬のななほしだ。出前がどうとかお届けがどうとか、れいが口ずさむ鼻歌が聞こえる。遠く流れるカレーショップのテーマソングと混じり、少女の歌は、一種独特の雰囲気を醸し出していた。

タイ料理屋の横手から自転車を引っ張り出す。川口元郷の自宅からここまで来るのに使ったものだった。

れいが振り返った。
「なんだ。移動しゅだんを持っていたのか」
「悪いかよ」
「変質者のうたがいはじょうしょうする」
「あのな、ぼくが変質者扱いなのに白人のおっさんが違うのはなんでなんだ?」
「オッサン、ナンデスカー?」
「なんでもないですよ」
「オー、ナンデモナーイ。ソノコトバ、シッテルノカンジ」

れいは口をとがらせる。
「こまっている人は助けろと兄さまが言っていたぞ」
「また兄さまか」
「兄さまを否定する気か?」
「しないよ。ぼくにもえらい兄がいるからね」
「意外」
自転車を押しながら歩いた。
白人の大男は、なにが楽しいのか、満面の笑みを浮かべながらきょろきょろと周囲を見回している。

れいの兄とやらの考えはすこしばかり極端である気がした。物陰から覗く人間が変質者であるなら、困っている人間のふりをする悪い奴というのもパターンのひとつなのだから。

もちろん、兄の心配は理解できる。町のいたるところに監視カメラがあるからといって、犯罪がゼロになるかというとそうでもない。犯罪行為のリスクはカメラのない場所よりもずっと高いけれど、犯罪者を根絶できるわけではないのだ。難しいからこそ、やる奴は覚悟が完了している。
江戸時代、他人の家に強盗に入った犯罪者が警察機構につかまったら、首を刎ねられ、生首をさらしものにされた。それだけの覚悟があるから、当然、自分の姿を見た被害者は全員殺すつもりで犯行におよんだという話である。いまはそういう時代だ。

3人と1匹はアジア街を通り抜け、片側3車線の広い道路へとやってきた。荒川の堤防に向かって登り坂となった道を、タイヤと地面が擦れる音とともに自動車が整然と行き来している。

れいが小型犬を抱きあげた。

「ななほしは歩きつかれたそうだ。自転車のカゴに入れてやれ」
「とてもそうは見えないぞ」
「ケチめ」
「わん」
「わかったよ。牙を剥き出すな」

小型犬が走り出したのはそのときだ。れいの腕の中から自転車のカゴに跳び移るはずだった犬は、フレーム・パイプを華麗に伝い、舗装路に降り立った。れいの手に赤いひもはない。そのまま、一直線に駆け出した。

速い。この犬は、偏差値が高いだけじゃなくスポーツエリートでもあったようだ。見る間に坂を駆けあがり、白く塗装された橋へ突入。茶色と白のまだらがどんどんちいさくなっていく。ぴんと立った尻尾はすでにマッチ棒程度の大きさしかない。まるで、まぼろしの飼い主の察知したかのように、小型犬はちいさな脚を回転させる。
橋の反対側に立っている監視員らしき男がびくっと震えるのが見えた。男の足元を擦り抜け、小型犬はなおも疾走をつづける。

「ななほし!」
れいが叫んだ。その声は届かない。
「Amazing」
おっさんの発音は英語だ。
「ライフサポート犬だろ? どうしておまえを置いて逃げることがあるんだ?」
「知らない。はじめてだ。これでは兄さまにお届けができない」
「心配すんのはそっちじゃねえだろうに」
「どうしよう」
少女の顔に陰りが宿る。きょうはじめて見た、不安そうな表情だった。

「しょうがねえな」
自転車を持ち上げ、ガードレールの向こう側に降ろした。車が途切れるのを待ち、またがった。

「すぐ戻る。ここで待ってろ。おじさん、橋を渡ればそこが川口ですから」
れいがうなずく。
ペダルにかけた足を踏みおろした。

2007.02.09
第8話「パラノグリッド(4)」海神れい

オノデラ・エミオの自転車は、坂を登りながらすこしずつスピードをあげ、あらかわ大橋の左の歩道へと突っ込んでいった。
ななほしの姿はもう見えない。てのひらに、かすかなぬくもりが残っている。握りしめる。指と指のすき間から、11月の空気が逃げていった。

自転車が消えた方角にそびえるリゾートホテルに向かって、ガイコクジンの大男はおおげさに肩をすくめてみせた。上空から落ちてくる光が男の顔に深い影をつくっていた。男は、エセ外人風のしゃべりかたで言った。

「オジョーウサン、ワタシ、カワグッチ、イキマース」

ため息をついた。
変質者あらためエミオはここで待っていろと言った。ななほしと離れてはいけないと兄さまに言われてもいる。だが、困っている人を助けろと言ったのも兄さまだ。これは、噂に聞くニリツハイハンというやつかもしれない。すごいぞ自分。小学生なのに。

「Shall we go?」
「わかった」

橋の近くにいれば、赤羽側でも川口側でも関係はないと思うことにした。ななほしはそっちの方角に走っていったのだし。
2人は、坂をゆっくりと登った。
橋のたもとにたどり着く。
歩いてきた道なりに、右側の歩道へと進む。ぽん、と心地好い電子音がした。大男もつづいて橋に踏み入れる。今度は、ぴん、と甲高い音が鳴った。

「——この歩道は、みなみさいたま公共サービス会社が管理する有料歩道です。ご利用のかたは、南関東州で認可された公共サービスプラットフォームカードをご提示くださるか、お手元の携帯デバイスにてクレジットカード番号をご入力ください。ご利用料金は1日のご利用につき6円です。ご利用でないかたは、橋の西側にございます公共歩道にお回りください。皆さまのご利用料金によって、この歩道は維持されております」

どこかから女性の声が聞こえてきた。男の足元がわずかに盛りあがり、地面に埋め込まれたライトが顔をのぞかせた。紫の光がせわしげに点滅をはじめる。橋の欄干に備えつけてあったスイング式のバーが閉じ、男の行く手をふさいだ。

手首を見やる。内側にPSPカードシールが貼ってある。南関東州の住人である兄さまがメールで送ってくれたものだ。浮きあがったFAMILYの文字は、兄さまが兄さまであることの証でもある。
PSPカードが見えるよう、男に向かって手を挙げてみせた。
「PSPカードがいるんだぞ」
言葉の意味がわかっているのかわかっていないのか、男は、最新型の携帯デバイスを持ちあげた。だけれど橋への道は開かない。男はバーを体でこじあけて進む。ドラムを叩くような派手な音が2つ連続して聞こえた。
「ルール違反はよくない」
「カワグッチヘイキマース」

男の背後で、黄色と黒の縞々になったポールが地面から生えてきた。120センチほどの高さまでポールは一気に成長する。中ほどに、赤い字で“さわるなきけん”と書いてある。先端にあるのは紫色のランプだ。点滅する光が、男の股のあいだから見えている。2人は、橋の歩道に閉じ込められてしまった。
橋の反対側から、電動カートに乗った係員がすべるように近づいてきた。

「そこの2人、止まって!」

男が後ずさった。コートに包まれた太い腕がポールの上空を通過する。温度設定に失敗したシャワーを浴びたかのように男は跳び退いた。
「Bullshit!」
叫び声をあげた。
「もしかして、おまえ、犯罪者なのか? 名を名乗れ」
「ハンザイシャ、チガイマース」
「PSPカードはどうした」
「そこの2人、動かない!」
監視員が大声を出した。頭の中を犯罪という言葉がまわりだした。

「犯罪はよくない。犯罪は追う。犯罪は逃げる。犯罪は……ぶるしっと?」
「Oh! No! ゲイシャ girl、マイコハーン、oriental beauties……ヤマトナデシコ、キドウセンカン!」
突然男がなにかを言いだした。なんだかわからない。知っている単語を羅列しているようでもある。だけれど頭は犯罪というキーワードで占領されている。他のことを考える余裕はない。監視員の電動カートはすぐそばまで迫っている。宅配便はお届けするものだ。犯罪者は追われるものだ。どちらも等しく正しい。

身をひるがえす。大男の脇をすり抜け、地面から生えたポールに向かった。ポールとポールの隙間は約20センチ。小学生の自分なら通過できる。

荒川の堤防に沿って駆けだした。大男も監視員も追ってこれない。ななほしもエミオもいない。
たったひとりで。

2007.02.26
1stターンのあらすじ

2045年11月のある日のこと。
小野寺笑男(おのでらえみお)は、東京首都州赤羽アジア街の一角で身を潜めていました。

彼の趣味は、街のいたるところに設置してある監視カメラの映像を覗き見することです。ところが、アジア街のカメラ映像が何者かの手によって妨害されているのです。原因を探るため、元郷の家から州境を越えてやってきた笑男は、小型犬をつれたひとりの少女と出会います。

彼女の名は“れい”といいました。犬の名は“ななほし”。

れいは、兄が勤める研究所へ届けものをするところだといいます。見た目は普通の女の子のようです。だけれど、カメラの映像は、彼女と犬を映してはいません。少女にはなにかある、笑男は思います。その後、道に迷った外国人の男を加え、笑男たち3人は赤羽から川口へ向かって歩き出しました。

あらかわ大橋にさしかかったところで事件は起きます。
少女の犬が突然走り出したのです。

自転車にまたがり笑男は小型犬を追いかけます。
外国人の男と2人で取り残されたれいも、不安になって駆け出しました。
出会ったばかりの3人は、あっという間に、東京首都と南関東の境目で別れ別れとなってしまいました。

……以上の流れを完全にぶっちぎって、今週はまったく違う場所から話をはじめます。

2007.02.26
第9話「好き好き大好きハナさん(1)」丸田蔵人

ハナさんが好きだ。三度の飯より好きだ。虎の子のインド国債より大切に思う。
彼女の存在は、世界のなにものにも、代え難い。

ハナさんは素晴らしい。なにより笑顔が最高だ。ちいさな顔が微笑すると、すうっと切れ込んだ頬にえくぼができる。目を線にして笑ったときだけ出現する2本のしわもいい。笑い声はピアノのラの音だ。実に耳に心地好い。ひたいにかかるほつれ毛も、たまらない。

若竹の緑をどこまでも水で薄めた色に塗られたカウンセラー室で、ハナさんはいつも椅子に腰かけている。ボーンチャイナのカップに入った薄茶色の飲み物が森林の奥と同じ香りをたちのぼらせている。窓から射し込むやわらかな光は、ハナさんの白衣に黄色と灰の模様を描いている。

ハナさんが話を聞いてくれるのは週に1度だ。そう決まっている。
たいへん残念なことに、皆平等に週1度である。

なんでも高齢適応支援福祉士という資格をとった先生なのだそうだ。えらい人なのに、彼女は皆に「ハナさん」と呼ばせている。ハナさんは気さくだ。もちろん誰にだって分けへだてなく笑顔を見せる。それが職業だから。彼女の笑顔は万人のものなのだ。それだけの価値がある。独占はできない。しかたのないことだ。だけれど、丹念に観察すれば、彼女の笑顔が、一人ひとり異なっていることがわかるはずだ。誰にもで同じえくぼを見せるわけではない。それだけの慎みを彼女は持っている。

それを、小野寺の野郎。ずうずうしく横入りしやがった。

奴は許しがたい。皆も同じ意見だ。聞いたことはないがわかる。雰囲気が語っている。だいたい奴はこのケアハウスの住人ですらない。家族と一緒に住んでいて、たまに訪れるだけの異邦人だ。血の繋がった家族がいるなら、そいつらと過ごしていればいいものを、ノコノコとやってきやがって。くそ。くそ。くそ。壊れた掃除器など業者を呼べばいいのに。奴は週に何度もハナさんと話す。許しがたい。小野寺め!

だけれど、神はいたのだ。
小野寺の暴挙を指を咥えて見ているだけではなかった。ある日、ニュースでやっているのを見た。

2045年11月25日の今日、世界にあるすべての暗号は解かれるという。そういう理論をある数学者が公開したというのである。ニュース番組のコメンテーターは、預金はだいじょうぶなのかとか、電車や飛行機に危険はないのかとか、そんなことばかり心配していた。一緒に番組を見ていた低能どもも、金の心配で頭がいっぱいのようだった。愚か者め。そんなことにしか頭が回らないのか。金と危険などどうでもいいだろうに。

暗号が破れるということは、PSPカードの電波を受信し居場所を記録するすべての電子機器と、監視カメラの映像を改竄できるということだ。犯罪に使えば完全なアリバイが成立する。そこにいた者はいなかったことになり、あるいはいなかった者がいたことになる。その場所でやったことはなかったことになり、やらなかったことがやったことになる。そういうことが起きる。

人々は、自分の存在そのものを自由に書き換えることができるようになる。
ちょっとした知識と、技術と……度胸さえあれば。

朝、目覚めたら、今日という日を祝福するかのように、股間のものが屹立していた。十数年ぶりのことだ。あまりの力強さに、かがまねば用が足せないほどだった。己の中に潜むDNAが猛っているのだと感じた。それは、風のない湖面のように静かで、同時に、逞しい感情だった。若い頃にはなかったものだ。10代の激情は持続させるのが難しかった。熱くなるのも速いが、すぐに噴出し、萎えてしまう。いまはゆるゆると湧き出るように衝動は続く。

老いらくの恋と笑わば笑うがいい。これは男の戦いなのだ。自然の摂理であり、なおかつ正義の執行でもあるのだ。73歳のオスと75歳のオスが、65歳のメスをかけて争う。そして、強いものが勝つ。そうやって人類は進化してきた。

だから、決めた。

今日、この日。小野寺明を殺害する。

2007.02.27
第10話「好き好き大好きハナさん(2)」小野寺明

北西から南東へ流れる荒川の北側はコンクリートの塊で覆われている。スーパー堤防と呼ばれるものだ。ソウルケアハウスかわぐちが建っているのはその堤防の上である。あらかわ大橋のすぐそばだ。歩いて1分もかからない。橋の南側では、小野寺笑男がいままさに自転車にまたがろうとしているところだ。れいの手元から逃げだした小型犬はまたたくまに橋を駆け抜け、交差点で1度輪を描き、カジノのほうへと走っていく。

「わん」
甲高い鳴き声があとに残った。

犬の声を背にして急な階段をのぼると堤防の上に出る。一気に視界が開けた。黒々とした水をたたえる川をはさんで、むかしながらの街並みが残る赤羽と、急に開発が進んだ川口の両方を見ることができた。

川口の街は、緑地も建造物も、ひどく人工的だ。ペンキで塗ったような嘘くさい緑の中から、巨大なビルが天空目指してそびえている。数十棟の高層ビルが間隔をおいて建つさまは、パスタで使うレードルのようにも見える。
まるで、空から降ってくるパスタの神さまをいまかいまかと待っているような、そんな印象の街だった。

人工的なたたずまいを見せるのはソウルケアハウスかわぐちも同じである。丸みを帯びた外観もパステルカラーに統一された色調も、すべて人間工学に基づき設計されている。南関東はそういう場所なのだ。施設につづく道だって人間工学だ。ゆるいスロープときつい階段の2つを併設すれば、足の悪い人間は階段を避けて遠回りするようになる。レストランで椅子を硬くすれば人は早く席を立ちたくなる。金持ちと貧乏人を分けることだって可能だ。同じ川口という街に住んでいながら、人々は、重なり合ったいくつもの別の街に住んでいる。

知らず知らずのうちに自分も操作されているのではないかという考えが頭に浮かぶことがある。
というか、実際に操作されているのだろう。そういうときは、ちょっとだけ摂理に対抗してみたくなる。
きつい階段を敢えて選んだのもそのせいだった。

「調子はどうですか」

薄いグリーンに塗られた建造物の入り口で声をかけてきた男がいた。丸田だ。小綺麗な機能性シャツに身を包み、しわの目立つようになった首筋に派手なスカーフを巻いている。洒落た男だった。なんでも、むかしはソフトウェアの開発をしていたらしい。

ここの人間では、丸田は話しやすいほうだった。

「ぼちぼちです」
「や、体の話じゃなくてね。悪いけど。こっちこっち」
丸田は自分の足をぽんぽんと叩いてみせた。
「ああ、そっちですか」

丸田が言ったのは脚につけているパワーアシストスーツのことだった。筋電流を読みとり、四肢を動かす補助をしてくれる道具である。むかしは大きなものだったが、いまは、余裕のあるパンツを外に穿けば装着していることはまずわからない。立ったり座ったりするときにかすかな動力音がする程度だ。10年前に右脚を悪くしてから愛用していた。

「こっちもぼちぼちですよ」
「故障とかしませんかね?」
「したことはないですが……」
「わたしもそろそろ考えてましてね。気づくとスロープを使っているんですよ。これはいけない。そう思うでしょう。かといって、機械の故障で急に脚が動き出したり、電車を待ってるとき勝手に動作して線路に飛び込んだりしたらかないません」

丸田はいつになく饒舌だ。入り口の上方にあるカメラに向かってしゃべっているようにも見えた。

「だいじょうぶですよ。勝手に動いたりはしません。ニュースでやっているのは、本当に滅茶苦茶な使いかたをしてる人だけです」
「だといいんですが。世の中、予想もしないことが起きるものですからねえ」
「そのときは死ねばいい。あっさりとしていて、かえって気が楽です」
丸田の顔がこわばった。
「やだな。し、死ぬだなんて。悪い冗談だ。あたしはまだまだ長生きするつもりなんですよ」
「そりゃすみません」

丸田蔵人はソウルケアハウスの住人だった。聞くところによると、ずっとひとり身だったという。

ひとり身の丸田と、家族がいる自分と、どちらがより死を身近に感じているかは判断できることではなかった。70を過ぎた自分は邪魔ものなのかもしれないとときおり思うことがある。価値観を共有できた妻はもういない。3世代が同居する小野寺の家で、自分とぴったり重なった街の“像”を共有する人間は存在しない。家族たちが思い描く街が薄ぼんやりと感じられるとき、息子や孫がつくる輪の中で孤独を感じることがあるのだった。丸田はひとりで完結している。彼の世界には力強さがあった。

ここに来たのは家族に言われてのことだ。何度も足を運んでいるのは、高齢適応支援福祉士の女性がいるからかもしれない。笑ったときの顔がすこしだけ妻に似ている女性だ。

それは、朝のけだるげな雰囲気さえ吹きとばす、なぜそこまで元気なのだという笑顔だった。

2007.02.28
第11話「好き好き大好きハナさん(3)」小野寺明

ソウルケアハウスかわぐちはライフログ発表会の真っ最中だった。入り口に看板がある。

老人たちが集い、録りためた自分史を発表しあうのがライフログ発表会である。ソウルケアハウスに集まった世代の歴史は、彼らの歴史であるのと同時に日本の技術発展の歴史でもあった。生まれた姿を写しとったのは銀板写真で、それがビデオ映像になり、デジタル写真になり、最後には街中にあふれる監視カメラの映像になる。過去の記録を起点に、老人たちは話をはずませる。

いま発表しているのは見知った男のようだった。

「あとでわたしも行かなくては」
廊下を歩きながらつぶやく。
となりにいた丸田が眉をひそめた。
「見るんですか? あんなものを」
「丸田さんはご興味ないんですか」
「捏造した個人史になんの意味があるのか」
丸田は小声で吐き捨てる。

発表会といっても、個人のライフログデータを拾い集め、ドラマ仕立ての映像にするのには大変な手間と技術が必要だ。そういうことを代わりにやってくれる業者がある。それだけでなく、業者はライフログを編集し、カメラが撮ったままの味気ない人生ではなく、個人の思い出どおりの“リアルな”人生を描き出してくれるらしい。

「小野寺さんは無駄な行為だと思わないんですか」
「そう思えるのは、きっと、丸田さんがいまを生きてるからですよ。こんなことを言ったら失礼になるかもしれないが、丸田さんにはまだやらなければならないことがあるんじゃないかな」
丸田は言葉に詰まったようだ。
「まあ、たしかにないことはないですがね」
「それを大事にされるといいです。がんばってください」言ってから気づいた。「すみません。赤の他人にこんなことを……」
「いいですよ。ご心配なく。やろうと思ったことはやり遂げますから」

丸田と別れた。今日ここに来たのはカウンセリングを受けるためだった。高齢適応支援福祉士のハナさんは、このあたりに住む老人の相談相手だ。彼女は、階層化された世界を往き来できる特別な存在だった。そういう訓練を受けた人間がいまのこの世の中には必要なのだろう。

もしかしたら、ソウルケアハウスかわぐちは、人生のやりかたを見失ったモンスターたちが跋扈(ばっこ)するダンジョンみたいなものかもしれない。そんな考えがふと頭に浮かぶことがある。このあいだ、ダンジョンと孫に言ったら通じなかった。どうやら、いまのゲームは、かつてのものと様相を変えているらしい。時のうつろいとともに、モノは姿を変え、中身を変えていく。変わらないのは人間だけだ。

もっとも、そんなことを考えていることそのものが老いというものなのかもしれない。だから家族は自分をここに連れてきたのだろう。なぜなら孫の笑男も、自分と同じく、たったひとり世界から孤立した存在だからだ。彼は定職についているわけではなく、親族以外と接触するわけでもない。けれども、彼には見え、自分には見えないモノがこの世界にはあるらしい。老いて見えなくなったのはパステルカラーの色だけではない。

ずいぶんむかしにマンガを読んだことがある。モニターではなく、紙で読むマンガだ。たしか、未来社会を描いた物語だった。不老長寿が実現した世界で、主人公の少年がロケットに乗って宇宙を駆け巡っていた。そこでは、すべてをやりつくしやることがなくなった老人たちは、みずからベルトコンベアに乗って黒い穴へと吸い込まれていく。先にあるのはまったくの無だ。不死の世界では、気力の衰えとともに人は消滅することを選ぶのである。

むかしの未来だから、もしかすると、そこに描かれていたのは“いま”なのかもしれない。

カウンセリングの順番を知らせるチャイムが鳴った。
廊下の端をすべってきたロボット掃除器が、器用に人を避け、軽い駆動音とともに通り過ぎていく。このあいだ来たときに修理したものだ。若い頃に基板をいじっていたせいで、ちょっとした電子工作ならいまでもできる。

人間工学によって設計された窓から蜂蜜のような光が射していた。ドアの色は薄緑。たしか緑は人を安心させる色だったはずだ。この部屋で話をすることも、高齢適応支援福祉士のハナさんに対して感じる親近感も、もしかしたら人間工学による操作というやつなのかもしれないと思う。

生きている自分が工学によってリアルタイムに操作されるものであるならば、過去の自分であるライフログの内容を操作したとしても誰も文句は言わないだろう。捏造した美しい記憶とともに人間は消えていけばいい。誰が迷惑を被るわけでもない。

窓から空を見上げる。
天高くそびえるリゾートホテルが、黄金色にきらめくのが見えた。

2007.03.01
第12話「パラノグリッド(5)」小野寺笑男

ソウルケアハウスの廊下で小野寺明が見上げた視線の先——リゾートホテルの真下を自転車が疾走する。
ホテルに隣接するカジノでは、夜ともなれば黒塗りのハイヤーが連なり、荒川の水路には個人用の小型船舶が浮かぶ。そんな場所も、いまはタクシーの運転手がシートであくびを噛み殺しているのみだ。人通りはない。カジノの入り口に併設された巨大なスクリーンが映し出す映像もどことなく白々しい。

ブレーキを握る。コンクリートとタイヤが擦れる感触がハンドルに伝わる。きゅっという音がした。

小型犬の姿はなかった。
片道3車線の道路で、働き者の信号が点滅している。

れいと名乗った少女の手元から逃げ出したのはライフサポート犬である。こいつは、首の根元にチップが埋め込んであって、簡単な命令をプログラムできるようになっている。信号や車の流れを見分けるだけでなく、プログラムされた時間通りに目的地へ行くことだって可能だ。10歳やそこらの少女よりはずっと頼りになる存在なのである。飼い主の命令を聞かずに逃げ出すなんてことは、本来なら考えられないはずだった。

登録情報を知っていれば居場所をマップ表示することも可能なのだけれど、あいにくと知らない。ためしに携帯デバイスで近隣の犬を検索してみたら、100個以上の点が周囲をうごめいていた。絞り込み検索しないと役に立たない。あの犬はなんていう犬種なのだっけ。チワワ? フレンチブルドッグ? それともポメラニアンとかいうやつ?

「まいったな……」
つぶやいた。
風で冷えた汗が、首筋から熱を奪っていった。

時報が鳴った。もう午後の1時だ。ピ、ピ、ピ、ポーンに合わせて、カジノの看板がまばゆく点滅する。
横のスクリーンには、今週のホットオークションが映し出されている。

出品物はビンテージスマートデニム。出品国はアラブ首長国連邦。現在の値段は……1万3000ドルって、ちょっとばかり高くないですかそれは。中古のパンツ1本の値段ってレベルじゃねえだろ。1年暮らせる金額だ。世の中、余るところには金が余っている。

腿の部分に液晶シートが貼ってあるこの映像はどこかで見たことがあった。しかも頻繁に。

思い出した。

家で毎日、爺さんが履いているやつだ。いまより太っていた頃に買ったから、パワーアシストスーツを中に装着しやすいとかなんとか言っていたっけ。ずいぶん古くさいデザインのパンツだと思っていたらビンテージだったのか。っていうか、1万3000ドルもするものを毎日履くなよ、まったく。75じゃボケるにはまだ早いだろうに。今度、オークションに出品しないか聞いてみることにしよう。履き古しでも、ちょっとしたこづかいくらいにはなるかもしれない。

息を吐いた。やはり犬はいない。特徴のある声はしない。聞こえてくるのは、荒川の上空を吹き抜ける風の鳴き声だけだ。体重をかけ、ペダルを踏みおろした。

このまま進むと堤防上の道は行き止まりになる。前方に鎮座しているのは土台がスーパー堤防と一体化した超高層マンションだ。

左手に広がるのは、荒川と、その源流のひとつである芝川という細い川に囲まれた地域である。もともとは化学工場とか物流センターがあったところだ。工場の移転にともない大規模な埋め立てをして、見上げるのも苦労するような巨大な分譲マンションが建築された。工事をしているときは土壌から汚染物質とかがでてきて、誰が住むのかなどと近隣住人は陰口を叩いていたと聞く。だけれど、100メートルの上空で生活する人間は地表の汚染をあまり気にしないらしい。

そのままペダルを漕いでいると、河川敷のほうから歩いてくる人影があった。

痩身の男だ。白衣にサンダルばきをしている。おそらくこのあたりにある研究所に勤めているのだろう。兄もそこの研究者だ。

あと1滴加えただけであふれてしまうコップのような、そんな雰囲気をまとう男だった。ゆったりと足を運んでいるというのに、不思議と緊張感に満ちている。例えていうなら、地球を爆破するスイッチを目の前にした悪の科学者のようだ。さっき見たマップに注意報が出ていなかったから、犯罪者としてこの男が登録されていないのは確実だけれど。

ブレーキをかけた。男が、口を開いた。

「わたしの顔になにかついているかな」

「すみません。ちょっとおたずねしたいんです。いまここで犬を見ませんでしたか」
「どんな犬?」
「ちっちゃくて、茶色と白のぶちになってて、わんって鳴くやつです」
「犬は、わんと鳴くものだよ……いや、そうでもないか」
「はい?」
「簡単な話だ。聞き手がサウンドを中国語や日本語で解釈し無理矢理文字にしようとするからワンになるのであって、英語で解釈すればバウになるし韓国語ならモンだ。だけれど、犬は、ただひとつでありなおかつ多様な鳴きかたで鳴いている。ワンは解釈にすぎない」

なんだか変な人に遭ってしまった。

2007.03.01
あるオークション
■Yahoo! Auction Global
■2045年11月24日の出品情報

Yahoo! Auction Global
Auctions > Computers & Software > Hardware > Wearable PC > Apple > iJeans
Auctions > Clothing & Accessories > Men's > Jeans > Smart Jeans
Auctions > Antiques & Art > Antiques > Home Appliances

ビンテージスマートデニムApple iLevi's 501XX 1955/2025 S

Apple iLevi's 501XX 1955/2025 S

■出品者情報

出品者(評価) ; aljazeera2012(201)
出品国 ; UAE

■自動翻訳についての注意

この出品情報はアラビア語から日本語へIAMT第3水準で自動翻訳されています。
翻訳の精度が原因によるトラブルについては、Yahoo! Globalは免責されています。
落札者は自己責任で落札を判断し、出品者と交渉してください。
より高い水準の翻訳と保証を希望のかたは、プレミアムサービスにご加入ください。
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■発送情報

この商品は世界中に発送いたします。

■オークション情報

(省略)

■出品者による商品説明

ビンテージスマートデニム
Apple iLevi's 501XX 1955/2025 S
サイズ 32インチ
色      アンパッチドロックユーズド
素材 綿100%
付属品、箱、マニュアルあり
中古品、洗濯済、起動確認済

この商品は、2020年代に人気のあったスマートデニムのひとつです。そのなかでも人気の高い、AppleによるビンテージデニムがスマータイズされたiJeansです。リーバイスのビンテージデ二ム501XXを忠実に再現しています。この商品では、両腿のリペアパッチ部分の破れは高精細液晶で仮想的に再現され、あなたはモニタ使用時にそれをデスクトップとして使うことができます。私はこのデニムを中学時代に数回はいただけであり、ほとんど着ていません。それは新品同様です。1時間の日光照射(歩行時)で5時間使用することができます(確認済)。スティーブ・ジョブズの70歳を記念して制作された限定1000本の希少モデルです。
iJeans部分仕様;
Apple iLevi's 501XX 1955/2025 S 64GB/6TB/WiMax Mobile
1024*2048タッチパネル×2(着脱可能)
iPhone nano 端子×2
Apple iOS Giraffe Arabic
Suntech Photovoltanic Fiber Panel ×2

注意
この商品は、20年前の商品であるため、汚れ分解性をもつ刺激応答性ファイバーを使用していません。あなたの着用後は洗濯が必要となりますので、注意してください。液晶モニタ部分は洗濯時には取り外します。詳細はマニュアルをご覧ください。
Apple iOS Giraffeのアップデートサービスは2041年に終了しています。しかし、同OSは認証がなくても起動可能です。OSはアラビア語OSですが、その表示言語は20以上の言語に変更可能です。

■コメント

1:
名無しさん(1261)
2045/11/24 03:21:23 UTC (ヒンドゥスターニー語→日本語)
アラブ人から商品を買うのをやめましょう。
アラブ人から商品を買うのをやめましょう。
アラブ人から商品を買うのをやめましょう。

4:
名無しさん(348)
2045/11/24 06:45:15 UTC (日本語→日本語)
iJeansとはまた懐かしい。太陽光充電はすぐ充電パネルがだめになるので、摩擦充電タイプのほうがよかった。パネルは損傷してないのかな。詳細希望。

13:
名無しさん(25366)
2045/11/24 18:00:19 UTC (ロシア語→日本語)
太陽光発電は低緯度地域でしか実用的ではありません。中近東の出品なのでSタイプなのです。私はむかしiPhone端子に携帯PEFCを繋いで使っていましたが、失敗して感電しました(^^)。

34:
名無しさん(-25)
2045/11/24 20:42:59 UTC (英語→日本語)
iPhone端子は電力線使って入れるよ。2020年代のWCは一般に危険。買ってもはかないのがいちばん。

38:
名無しさん(758)
2045/11/24 21:22:13 UTC (インドネシア語→日本語)
これはすごい商品だ! とりあえず1,900入れておきました。

43:
名無しさん(312)
2045/11/24 21:31:15 UTC (ヒンドゥスターニー語→日本語)
自作自演注意。

112:
名無しさん(79)
2045/11/25 01:58:31 UTC (中国語→日本語)
4時間で5倍……。

163:
名無しさん(12)
2045/11/25 02:29:28 UTC (英語→日本語)
同じ商品がうちの近くで3k以下で変えます。希望者はメールをください。

248:
名無しさん(36758)
2045/11/25 04:39:09 UTC (英語→日本語)
AppleのClassic iJeansは発電タイプをカスタマイズできるのが特徴です。iLevi's 501XXでもそれは同じです。しかし、2020年代は繊維パネルの発電効率が悪く、90%以上のユーザーが摩擦発電を選んでいたと言われています。したがって、iLevi's 501XXの太陽光パネルタイプはきわめて希少のはずです。163の発言は、無知かあるいは業者による釣りだと思われます。

263:
名無しさん(-2376) 
2045/11/25 04:42:15 UTC (ペルシア語→日本語)
Appleって高機能食品の会社だよね? 服も作ってたの?

412:
名無しさん(6378) 
2045/11/25 05:01:26 UTC (ヘブライ語→日本語)
商品情報から判断すると、出品者は2027年に高校生です。2027年はエンゲブの悲劇の年です。出品者はその時代に、加害国で生活し、定価2000ドルの高級デニムを親に買ってもらい、しかも気に入らないので打ち捨てていた。殺人者の道楽息子に送金することは、人類最大の犯罪を肯定することです。

424:
名無しさん(2293) 
2045/11/25 05:03:23 UTC (日本語→日本語)
ボットうざい。政治をもちこむな。

2007.03.02
第13話「パラノグリッド(6)」小野寺笑男

白衣の男は言った。
「わたしは河原のほうから来たが、ぶちの犬は見なかったな」

男の顔の造作は端正といってよかった。毎日無数の顔をカメラ映像で見ているけれど、その中でも、この男は特別印象的だ。見ず知らずの人間の顔などニコちゃんマークと同等の意味しかないのものだというのに。たとえそれが、大股開きのハメ撮り画像であろうと、暴漢に頭を割られた血まみれの死体であろうと。

わかった。眼鏡だ。

飾り気のないシャツに白衣という服装なのに、眼鏡などというファッションアイテムを身につけているから異質に見えたのだった。彼の顔には、HMDでも花粉症対策でもないメタルフレームの眼鏡がかかっていた。

「この先は行き止まりだよ。もしかすると、その犬はマンションの敷地内に迷い込んだのかもしれない」
「……困ったな」
「マップ検索はしたのかな?」
「逃げ出したのはぼくの犬じゃないんです。だから、登録番号も知らない」

高層マンションは強化ガラスの塀に取り囲まれていた。住人のIDか許可がなければ中に入ることはできない。ちいさな犬や猫なら、ちょっとした隙間から入り込んでしまうことがあるかもしれないけれど、迷い込ませた飼い主のほうはお断りだ。
自転車から降りた。周囲に小型犬の姿はない。

「よければだが、一緒に入るか? わたしはここを通り抜けて仕事場へ行くところなんだ」
「ほんとですか。助かります」
「ならばついてくるといい」

マンションのエントランスに近づくと、男は、読み取り機に携帯デバイスをかざした。パネルで追加の人数をインプット。ドアが開いた。男のあとについてマンションの敷地内へ踏み込む。
スーパー堤防と一体化したマンションのエントランスは、ちょっとした凱旋門のようになっていた。吹き抜けを通り抜けるとそこは中庭だ。堤防の下に向け、円を描くようになだらかなスロープが走っている。道の脇には植樹された低木が茂り、照明と監視カメラの支柱を兼ねたポールが立っている。外を吹き荒れていた冬の風は感じられない。空気そのものがなにか違う気もした。

「すみません。住人でもないのに入れてもらっちゃって」
「かまわないよ。外部から閉ざされたこの空間のほうが本来的にはおかしいのだから」
男がしゃべる言葉はよくわからない。無言で自転車を押した。

「ところで、城、といったらなにを想像する?」
歩きながら男が言った。突然のことだ。できの悪い生徒を導く先生のような口調だった。

「城、ですか?」
「そう。城だ」
「下が石垣であいだが白くて屋根が黒い日本の城とか、あとは、つんと屋根がとがったヨーロッパの城とか」
「それもひとつの城の形だ。だけれど、城にはもうひとつある。カルカソンヌという地名を知っているか?」
首を横に振った。
「カルカソンヌはフランス南部にある城だよ。この城の中にいるのは王や貴族だけではない。街の住人すべてが城に住んでいる。1キロメートル四方の街の全体を、堅牢な城壁が覆っているんだ」
「それが城、なんですか?」
「城塞都市という。中国や中東にもあった。むかしの戦争では、負けた側の男はすべて奴隷となった。子供と老人は皆殺し、女はレイプされた。それが他民族との戦争だった。民を守るため、街を覆いつくす城がその頃は必要だったんだよ」

しゃべりながら男は歩く。自転車のドライブシャフトが、カリカリと音をたてている。
目の前を、太った猫が悠然と横切った。

「このマンションも同じだよ。現代の城のようなものだ。監視カメラに、IDがなければ開かないドア。24時間巡回している警備員。もちろん武器を持った軍隊が襲ってきたらかなわないが、普通の人間の侵入をはばむには十分な壁だと言える。人は、閉ざされたゲートを入ってはいけないものだと解釈するからだ。ここは、現代の人間だけに通用する情報の城なんだ」
男は笑った。
「だから猫は気にしない。好き勝手に侵入する。ちいさな犬もね」
「なんだか難しいですね」
「ああ。難しい。世の中は、もうちょっとシンプルなほうがいい」

スロープをくだりきる。目の前に広がっているのはちょっとした公園だった。ベンチの他に、ゾウを模したちいさなすべり台と、高さ1メートルほどの雲梯がある。川口のほうだと、こういう公園に入るだけで30円くらい取られる。男は、反対側の出口に向かってそのまま歩を進めた。

「犬、見つかることを祈ってるよ」

手を振った。
不思議な雰囲気の男だった。そのうえ、意外と親切だった。

2007.03.05
ギートステイト これまでの物語

 2045年11月のある日。舞台は日本、南関東州。小野寺笑男(おのでらえみお)は、東京首都州赤羽アジア街の一角で身を潜めていた。彼の趣味は、街のいたるところに設置してある監視カメラの映像をのぞき見ること。ところが、アジア街のカメラ映像が何者かの手によって妨害されていた。原因を探るため、元郷の家から州境を越えてやってきた笑男は、小型犬をつれたひとりの少女と出会う。彼女の名は“れい”、犬の名は“ななほし”。れいは研究所に勤める兄、海神結に、“ある物”を届けるために街に出ていた。

 れいは見た目はごく普通の少女であったが、なぜか彼女とななほしの姿は、監視カメラに写っていなかった。その後、道に迷った謎の外国人を加えた3人は川口に向かって歩き出すが突如ななほしが走りだし、それを追った笑男、残されたれいと謎の外国人の3人は、あっという間に、東京首都と南関東の境目で別れ別れとなる。

 その一方、小野寺笑男の祖父、明は、丸田蔵男という思い込みの激しい男に、一人の女性をめぐって命を狙われていた。

 ななほしを探して荒川ぞいを自転車で走る笑男は、白衣を着た、不思議な男にめぐり会う。あと1滴加えただけであふれてしまうコップのような、そんな雰囲気を身にまとう男。彼こそがれいの兄、海神結であった。しかし笑男はまだ、そのことを知らない。

2007.03.05
第14話「パラノグリッド(7)」小野寺笑男

自転車を押しながら公園の中を進んだ。

敷地内は明るかった。南の低い空から来る陽光は、マンションの壁面で反射光となり、どんぴしゃり遊具の上へと降り注いでいる。子供はひとりもいない。ベンチで老婆がうたたねをしていた。広大な敷地の中央を横切っているのは新交通システムだ。高架道の上を列車が音もなくすべっている。ここでは、住人のIDを持っていなければ駅の外に出ることもできない。

周囲を見回した。小型犬の姿はない。ベンチの横に案内板を発見した。マップを呼び出し、マンション敷地内を拡大表示する。成功だ。犬で検索をかけると、携帯デバイスで見たときはだんごのように固まっていた100ほどの光点が、ひとつひとつばらけて描画された。このマンションは精度のいい位置情報システムを使っているらしい。ついている。セキュリティの関係から、携帯デバイス経由では拡大表示できなかったのだった。

検索条件に小型犬と入れると、そのほとんどが建物内にいることがわかった。公園内をふらふらと動いている点は2つだけだ。だいたいの位置をおぼえ、歩き出した。

公園の通路は入り組み、まったいらに舗装された広い通路と、角ばった石が埋め込まれた細い通路が、縄を結うように交差してつづいていた。舗装された道の端を掃除ロボットが音もなく移動し、埃と枯れ葉を吸いあげている。右手前方に、HMDをつけた警備員が巡回しているのが見えた。腰にぶら下がる警棒がこれみよがしだった。

警備員がこっちをちらりと見た。
歩いてくる。突然、胃の上で心臓が存在を主張しはじめた。自転車を押した。

巨大なマンションだ。伝説のホテルドアマンだって住人全部の顔をおぼえているものか。自分に言いきかせる。だけれど、機械は住人のIDをけして忘れない。機械は働きものだ。よそ見をしたり、サボったりしない。何千というリストの中から一瞬で検索を終了し、警備員のHMDに情報を表示する。

擦れ違った。
警備員の腰で、警棒と金具がこすれてかちゃかちゃ鳴っている。その中に、ピ、と電子音が混じった。背筋に電流が走る。機械は住人のIDを忘れない。警備員が振り向く。気配でわかった。ハンドルを握りしめる。敷地に入れてくれた男はもういない。身元を照会されればアウトだ。

「すみませんが——」

振り向いた。警備員の右手は腰にかかっている。HMDに隠れて目は見えない。

鳥のような影が通路を横切っていったのはそのときだ。ぶん、と高速のモーターが唸るのにも似た音が聞こえた。すこし遅れて、繁みが揺れ、音を立てた。風か小動物かはわからない。警備員の顔が飛行物体の軌跡を追う。その先で、掃除ロボットが通路の端をはずれはじめていた。高速で螺旋を描き、機体の中央から埃を吹きあげている。

「あの……なんでしょうか?」
「いえ、結構です。お手間をおかけしました」警備員は喉元に手をあてた。「こちら警邏ブラボー、こちら警邏ブラボー。本部どうぞ。位置確認願う。そうだ。そこにいる。掃除ロボットが動作不良を——」

自転車を押す。警備員の存在が背後に遠ざかった。
記憶にある光点に向かって歩く。敷地の外から、陽気な音楽がかすかに聞こえてくる。合成ボイスだか生の人間の声だかはっきりしない微妙なアニメ声で、やきそばやきそばおいしいやきそば、頭が良くなるやきそば〜と、連呼しているのだ。あいの手を入れるようにお腹がぐうと鳴った。そういえば、まだ、昼食を食べていなかった。

見通しは悪くないものの公園内の道は複雑だった。同じ方向へ向かうのに、それぞれ雰囲気の違う通路が数本走っている。しかもそれが、ランダムに交差しているのだ。平たく明るい道を歩いている子供連れの女性がいるかと思うと、木陰の道を歩く青年もいる。

こういうのをなんと言うのだっけ。迷路? 迷宮? 歩きながら携帯デバイスで検索してみる。

迷宮[labyrinth]

複雑な通路で構成されており、中に入ると迷うようにつくられた建造物。ラビリンスの語源は、ギリシア神話のミノス王が怪物ミノタウロスを閉じ込めるためにつくった大迷宮[Labyrinthos]から。[maze]とも。[dungeon]は中世の城にあった地下牢のことを指し、迷宮の訳語として使用するのは適当ではない。

そういえば、以前、爺さんがダンジョンとかなんとか言っていた気がする。そうか。ダンジョンってのは、地下牢みたいなところだったのか。歳を重ねているだけあって爺さんは博識だ。

記憶に従い、木陰の道を進む。道は行き止まりになった。マンションの真裏となる影の地帯だ。背の低い常緑樹に隠れて、迷彩塗装された金属製の円柱が3本立っていた。直径は1メートル。高さは1メートル50ほど。胴体に開いた穴から、ぬるい風が吹き出している。地下の換気口だ。

1つの点は、たしかこの先にあったはずだ。この先に道はない。だけれど、声を出して呼んだからといって飼い犬でもないものが出てきてくれるとは限らない。他人の敷地で大声を出すのも避けたい。誰かが聞いているかもしれない。自転車を置いて、木立の中へ割って入った。

枝が服にひっかかる。靴の裏を押し返してくるのは、久しぶりの土の感触だ。空気は湿り、緑くさい。やがて、草むらの陰にこんもりとしたもりあがりを見つけた。色は薄茶と白のまだらに見える。湿っているようだ。ぴくりとも動かない。いま現在、生きているもののようではない。

おそるおそる、つまさきで転がした。

アイパッチをしたうさぎのぬいぐるみだった。
苔がついている。ずいぶん長いあいだ放置されたもののようだ。片耳がない。革製らしいアイパッチは破れ、濃緑色の綿がはみ出していた。公園で遊んでいた子供がなくしたのか、あるいは、マンションの窓から放り投げて落ちてきたのか。落下のショックで追跡タグが壊れたのか、そもそも持ち主が探していないのかはわからない。おそらくここは監視カメラの死角なのだろう。道からはだいぶはずれている。

もしもこれが本当に死体だったとしても、住人は誰も気づかないかもしれない。

2007.03.05
オープン主義者公式サイト
■Open Information Initiative Foundation 公式サイト
■FAQページより抜粋

Q1-1 オープン主義とは何ですか。

 オープン主義は、人類が地球で生き残っていくために、私的所有とプライバシーの概念を止揚し、あらゆる情報の徹底的な共有(情報の自律化)が必要だと説く思想です。多くの国で、21世紀に生まれた、もっとも重要な思想だと見なされつつあります。
 2030年代に、アメリカのエスノメソドロジスト、マイケル・カネコと同僚たちによって体系化されました。

Q1-2 オープン・インフォメーション・イニシアティブ財団(OIIF)とは何ですか。

 OIIFは、情報の共有についての啓蒙活動と、関連する研究の支援を目的とした公共性企業です。
 1万3000人の専従職員と数多くのボランティアによって運営されており、アメリカ合衆国とヨーロッパ連合を含む、32の国・地域で政策決定あるいは公共サービスの提供に参加しています。また、カリフォルニア、フィンランド、チベットに研究機関を開設しています。財政的な基盤は、基金の運営と、数多くの支援企業、支援者による寄付で賄われています。

Q1-3 オープン主義とOIIFはどのような関係にありますか。

 OIIFは、2031年に、オープン主義の普及を目的としてマイケル・カネコにより創設されました。しかし、現在では、オープン主義の啓蒙を中核としながらも、宗教的あるいは政治的な差異にかかわらず、情報科学の進歩に対して広く支援する組織へと発展しています。
 OIIFはオープン主義の精神的中心ですが、その全体を代表するものではありません。現在では、「オープン主義」を名乗る多くの分派が存在し、そのなかには過激主義的な行動に出る集団もあります。しかし、OIIFは、あらゆるテロリズム、あらゆる暴力に反対しています。

Q1-7 OIIFはどこにありますか。

 OIIFに物理的なオフィスはありません。業務はWikimondo内のオフィスで行われています(Axiomatic Ranch, Greg Egan Island, Wikimondo XA 2023E)。
 Wikimondoの登録者であれば、だれでもオフィスを見学し、30以上の言語でガイダンスを受けることができます。登記上の本部は月の静かの海にあります。

Q3-5 オープン主義はカルトではありませんか。

 カルトではありません。OIIFは、いくつかのカルトが「オープン主義」を標榜していることに対して、憂慮の意を表明しています。OIIFは、各国・地域の治安担当者と密接な連絡を取り、オープン主義が政治的な過激主義の道具とならないように、細心の注意を払っています。

Q3-12 オープン主義者はプライバシーを否定し、生活のすべてを曝し、金銭も受け取らないと聞きましたが、真実ですか。

 真実ではありません。
 オープン主義は、私有財産とプライバシーの撤廃こそが人類社会の生存の道だと考えますが、その展開は段階的に進むとも考えています。私たちはいまは、私有財産とプライバシーを用いて流通を整流し、資源を最適化する、分散同期計算・資源占有社会(資本主義社会)に生きています。そのような社会で、オープン主義の理念をいたずらに個人単位で実践すること、また他者に対してそのような信念を強制することは、歴史の歩みにいっそうの混乱を招き、分散非同期計算・資源共有社会の到来を遅らせると考えています。したがって、OIIFのメンバーの多くは、一般の人々と同じく、プライバシーを常識的な範囲で尊重し、貨幣経済のなかで生活しています。
 しかし、「オープン主義」を標榜する個人のなかには、オープン主義の教義の一部をとりだし、そのような過激主義的な思想表明を行う人々も存在します。OIIFは、その表明が既存の法制度のなかで行われるかぎりにおいて、それを許容します。しかし、既存の法制度と衝突するときには決して支持しておりません。

Q3-13 2043年に東アジア経済共同体を襲った大規模なコンピュータテロ、通称「天安門事件」にはオープン主義者が関係したと言われます。それについてはどう考えていますか。

 2043年10月の天安門事件においては、直後に配布された汎トルコ=イスラム・ネットワークの犯行声明の冒頭に、マイケル・カネコの文章が引用されました。その文章が一般にダウンロード可能なものではなく、一部研究者のあいだでのみ知られていたものだったため、同事件には、オープン主義者による直接的な関与、あるいは少なくとも間接的な影響関係があると推測されています。しかし、2045年現在、いまだオープン主義者が関与したとの客観的な証拠はいっさいありません。
 OIIFは、あらゆるテロリズム、あらゆる暴力に断固反対するとともに、本財団およびオープン主義の教義に対して行われる、あらゆる不当な批判や情報操作にも、断固反対します。
 詳しくは、OIIFが2044年12月に発表したレポート、「2043年の天安門事件の思想的・宗教的背景、およびそれを契機とした反オープン主義的言説についての文化解析」をご覧ください。

Q6-2 『情報自律論』について教えてください。

『情報自律論』は、アメリカのエスノメソドロジスト、マイケル・カネコが2024年から2031年にかけて発表し配布した論考です。2020年代の「ハッピー文化」(ハッカー+ヒッピー)を代表する文学作品であるとともに、オープン主義の教義確立に大きな役割を果たしました。
『情報自律論』には、スピノザ、マルブランシュ、ヘーゲル、ホワイトヘッドら西洋思想の哲学者たち、チベット仏教の中観帰謬論証派の教義、そしてネイティブ・アメリカンのシャーマニズムの影響などが見られますが、その中核にあるのは、マイケル・カネコの実兄にあたる暗号数理学者、スティーヴ・カネコが2018年に発表した「第1計算限界不確定定理」の宗教的解釈です。
『情報自律論』は、世界の本質は情報であり、情報の秩序は物理的な時空間とは別の水準での計算的自律性を保持し、生命はその「情報の(計算的)自律性」を産出するために進化してきたと説きます。また、人間の魂とは、その自律性の下位水準での表現にすぎないと考えます。そして、20世紀末の情報技術革命は、その進化の最終段階の始まりを意味しています。にもかかわらず、人間はいま、古い制度と概念にしがみつき、情報の自律性の展開を妨げています。このような立論のもとで、マイケル・カネコは、私的所有とプライバシーの撤廃、セキュリティの解体、情報の人類からの解放、計算主義脳科学の創出による魂の共有を主張しました。
『情報自律論』は、内容の抽象性にもかかわらず、情報社会に対する人々の違和感を捉え、発表直後から大きな反応を引き起こしました。2030年には、ジョグジャカルタで開かれた世界情報社会サミット(WSISフェーズ8)で、早くも本書をめぐるパネルが開かれています。2031年に完成した第12版は、最初の1年間で1000万部がダウンロードされ、2045年4月現在でも毎月10万人以上に読まれています。

2007.03.06
第15話「パラノグリッド(8)」小野寺笑男

うさぎのぬいぐるみをつまさきで転がした。元は純白だったそれは薄茶色の染みがこびりつき、斑点状の模様になっていた。小型犬の存在を示す光点はたしかこのあたりだった。だけれど、横たわっているのは古ぼけたぬいぐるみである。まさか、ぬいぐるみを犬扱いでペット登録していた酔狂な住人がいたとも思えない。

高密度に生える樹々に遮られ、視線は遠くまで届かなかった。それだけでなく、折り重なる葉が外界の雑音を吸収する。静かだ。聞こえてくるのは、ぬるい空気を吹き出す換気口の音ばかりだった。

ぬいぐるみが動いた。
下生えが揺れた。
1歩後退した。踵が木の根にひっかかる。転んだ。剥きだしの土に尻が衝突した。冷たい。息がつまる。

「わん」

目の前に、小型犬がいた。
繁みをかきわけ出てきたのはななほしだった。ひと声鳴いた拍子に咥えていた物体が転げ落ち、苔むしたぬいぐるみの横で止まった。鳥かなにかの模型に見える。ななほしは、ぴょんとひと跳びしてぬいぐるみの側に着地する。短い前脚で模型を抱えた。ビー玉の瞳がじっとこっちを見ている。「これは俺のものだからやらないぞ」という顔だった。いや、そんなもの取ったりしないから。

「……おまえのせいで大変な目にあったんだぞ」
「わん!」

言葉がわかっているのかいないのか、ななほしは律義に返事をよこした。どうやらこっちのことを認識はしてくれているようだ。あるいは、れいの匂いを嗅ぎとったのか。焦げ茶と茶色の縞模様になった尻尾が、ちいさなお尻の上でせわしげに揺れている。

この小型犬がなぜ急に走り出したのかはわからなかった。いちばん簡単な理由は、ライフサポート犬用のプログラムが誤作動を起こしたということだ。だけれど、そんな事故が発生したことがあるとは聞いたことがない。外部からハッキングするにしても、迷子犬の捕獲に保健所が使うという強制コードが必要だった。突然の逃亡は謎のままだ。当の犬に理由を聞くこともできない。ななほしは、頑健きわまりない牙で、成形したFRPみたいなものをがりがりとかじっている。

立ちあがった。ななほしを抱えあげる。模型が口から落下した。
「わん」
「だめだめ。面倒なことになる可能性があるだろ」
模型はここの住人の所有物かもしれなかった。タグのチップが生きていて、あとで持ち主に追跡されたりしたらわずらわしい。落ちているものがすべて忘れ去られた存在だとは限らないのだ。
「わうーん」
「鳴いてもだめだよ。はやくご主人さまのところへ帰ろう」
ななほしを自転車の籠に入れ、来た道を戻った。

スーパー堤防の道へとつづくエントランスでは、住人らしき女性が3人、立ち話をしていた。

自転車を押して横を通りすぎる。
ななほしも気配を感じ取り、静かにしている。えらいぞ。偏差値が高そうな犬だけのことはある。その反対に、黙っていられなかったのはポケットの中の携帯デバイスだ。女性集団の真横でアラームを鳴らしやがった。こいつはちっともえらくない。というか、そういうふうに設定した自分が悪い。犬より馬鹿だ。

短く、鋭い音が鳴った。女性が視線を向けた。

年齢は40代くらいだ。3人の中ではボスザル風の着飾った女だった。
「マンション構内ではペットは抱き抱えるか鍵のついた籠の中へ。自転車の籠は禁止のはずですよ」
「わ……」抗議しようとしたななほしの口をあわてて押さえる。「すみません」
それきりこっちに関心がなくなったらしく、女は井戸端会議に戻った。どこの子でしょう、とか、自転車に乗るのにヘルメットも持ってないなんて、などとぶつぶつ言う声が聞こえた。ほっとけ。

エントランスを出て、女性集団の姿が視界外に出てから携帯デバイスをチェックする。ななほしが画面を覗きこんだ。アラームが鳴った理由がわかった。3人の女性の中に、ネット・コミュニティーでウォッチ対象になっている人物がいたのだった。

リアルで見るのははじめてだ。驚いたことに、女性集団の中でいちばん地味な人物がその人らしかった。ネットの書きこみから受けていた印象とはだいぶ違う。風采もぱっとしない。頭から蒸気を出してボスザルが怒っているあいだじゅう、ひとこともしゃべらず、新入りのサルのように左右を見回していただけだ。その人物が川口でも有名なカリスマ主婦なのだった。ボスザルのほうがよほどカリスマっぽく見えた。
ひょっとすると、クジャクの群れの中に1匹カラスがまぎれこんでいたら、そっちのほうが目立つとかいう論理なのだろうか。それとも、地味に見えた服も、実はケニアかどこかで手編みされた高級な布地でできていたりしたとか。まだまだ世の中はアンビリーバブルが詰まっている。

自転車にまたがる。
あらかわ大橋に向かってペダルを踏んだ。快調に脚を回転させる。ぐるぐる。やきそば。ぐる。やきそば。やきそばやきそば〜。マンション敷地内で聞いた歌詞が脳内で再生された。耳にこびりついてしまったようだ。無性にやきそばが食べたい。はやく女の子に犬を渡して、家に帰ろう。

あらかわ大橋の南端に到着した。

だけれど、そこに、れいの姿はなかった。カワグッチを目指していた外国人もいない。係員はどこか他のところを巡回中らしい。無人の欄干に、ただ、11月の風が吹いていた。周囲を見回してもそれらしき人影は見えない。少女の行方はわからない。住所も、PSP情報も、電話番号も聞いていない。おまけに、彼女は、監視カメラに映らない。

ななほしが、わん、と鳴いた。

2007.03.07
第16話「好き好き大好きハナさん(4)」丸田蔵人

小野寺明の後ろ姿がカウンセラー室に消えていった。

ソウルケアハウスかわぐちに、午後の気怠い空気が充満している。
ここで寝起きする老人たちのほとんどがライフログの発表会に集っているようだった。参加していないのは孤独を好む変わり者だけである。そういう人間の多くは、食事どき以外、個室から出てこない。

自分以外の老人どもが、退屈極まりないライフログの見せ合いを好んでする理由は理解不能だ。
施設に入れられたアルコール依存症患者は、失敗談を交互に告白し合うと聞いたことがある。ネガティブな経験を共有することで、連帯を強め、孤独感を減らすのが目的だそうだ。そうやって、治療に対する患者の意識を改善する。ライフログの交互発表もそれと同じものなのか。高齢者ばかりが増え子供がすくない現代の日本では、老いるということは病の一種であり、治療しなければならないものと思われているのかもしれない。

だが、ハナさんのことが好きな自分に治療はいらない。まったく必要ない。馬鹿め。強い感情は老いをも駆逐するのだ。

小野寺はしばらく部屋から出てこないはずだった。そのあと、発表会に参加するとも言っていた。あれでなかなか律義な男だ。午後いっぱいを、捏造されたくだらぬ半生記を聞いてすごすのだろう。今日一日は小野寺を追跡する必要があるが、四六時中はりついていたら、あとで疑われるかもしれない。奴の居場所が知れているときは、普段と同じ行動をとったほうがいい。そうして、チャンスが到来したら、すみやかに殺害を実行する。

いつものように、赤羽のアジア街へ散歩に行くことにした。
ソウルケアハウスを出て、あらかわ大橋に向かう。もちろん、スロープではなく階段を使った。

歩きながら考える。
どうやって殺すのが適当だろうか。

殺人そのものは容易いことだった。揺るがぬ意思さえあれば誰でもできる。もともと、動物は日常的に殺し合っているものなのだ。東南アジアの熱帯雨林に行けば、いつだって、別の群れを襲って同属の肉を食らうチンパンジーを見ることができる。彼らの戦いを止める者は誰もいない。

多くの現代人が同属を殺さないのは、そのほうが人類全体にとって有利だからにすぎない。隣に住む同属を殺しても問題ない社会は、人類という種に不利益をもたらす。だから、隣人を殺した個体が不利になる歪なルールの社会を人間はつくりあげた。
だけれど、そのルールはやはり不自然なものなのだ。腹の立つ奴や、自分にとって不都合な行動をする奴、利益の相反する奴はぶっ殺したほうが得だ。あたりまえの話だ。まちがいない。田畑を耕したり、他の動物を狩ったり、工業製品をつくったりするより、隣に住んでいる同じ人間を殺して利益を掠め取ったほうが楽だし効率がいいのだから。

人が人を殺したりモノを盗んだりしないのは、カメラによって互いを監視しているからにすぎない。
無事小野寺を殺害したからといって、監視カメラに証拠を撮られては元も子もない。肝心なのはハナさんだ。刑務所に入れられ、ハナさんと離ればなれになっては意味がない。殺しはあくまでも手段であり、目的ではないのだ。意思はぶれていない。だいじょうぶだ。足取りも軽い。下半身に、血がたぎっていた。

あらかわ大橋の南端まで来た。道の反対側で、係員と揉めている外人のそばを通り抜ける。
有料道路を無理矢理通過しようとして止められたようだった。間抜けなガイジンめ。金を払う気がないなら有料道路など通るべきではない。無料で通り抜けるつもりなら、機械を騙してスマートに移動するべきだ。係員に見咎められて文句を言うなど、もっとも愚かな行為だ。もちろん、自分は無料道路を通る。無駄な金は払わない。

わざわざ橋を渡ったのは、南関東から東京首都へ来るためだった。赤羽のごみごみとした街並みを見るとなぜかほっとする。天気が良い日は、岩淵水門公園から渡し船に乗り、南関東側に帰ることにしている。川の中央から眺める下流の様子が、また、なかなか悪くない。

少女の姿を見つけたのは、水門公園の入り口のところだった。東京首都の公園は、南関東と違って入場料を取らない。ちいさな体をさらにちぢこまらせ、少女は、門柱の影に隠れていた。

「おまえは警察か?」
少女は言った。

「違うな」
「ならば追われる犯罪者か」
「もしかしたら、そうかもしれないな」
「そうか。わたしは追われているのだ。かくまえ」
自然と笑みがこぼれた。少女はなにかのゲームをしているらしい。かわいい犯罪者仲間だ。

もしも結婚していたらこの子の歳くらいの孫がいたのかもしれない。でもいまは天涯孤独の身だった。親類縁者も鬼籍に入って久しい。
ひとりでいることを選択したことそのものに後悔はない。ハナさんに出会えたのだから。夏よりも春、春よりも冬に咲く白い花のような女性だ。人生の最後のカーブを曲がった後でなければ、彼女に出会うこともなかったし、秘められたその魅力に気づくこともなかっただろう。だから、後悔はない。

ただ、許せないのは、家庭を選んだ小野寺明がハナさんをも奪うことだった。

2007.03.08
第17話「パラノグリッド(9)」海神れい

「Oh! No! ゲイシャ girl、マイコハーン、oriental beauties……ヤマトナデシコ、キドウセンカン!」

ガイコクジンの男が言った。

コンクリートで覆われた大きな橋の南端だった。
荒川は東京首都と南関東のあいだを流れる一級河川だ。河川敷を含めて500メートルほどある流れをはさみ、南側が東京首都州、北側が南関東州である。社会科の授業で習った。北にあるのに南関東というのはおかしくないかと誰かが質問したら、東京史を教えるショクタク先生は、西武が東で東武が西だったりするのだから南関東が北でもいいのだと答えた。なんだかよくわからない。

そんな橋の上で、ガイコクジンの男が叫んでいた。単語の意味は不明だ。男の背後には、黄色と黒の縞々になったポールが地面から生えている。土砂を満載したトラックが突っ込んでも折れないと噂の侵入抑止ポールだ。ポールとポールの隙間は20センチ。クラスの男子は、ポールを見つけるとよく肝試しをする。触らずに擦り抜けられたらセーフ、触ったらアウトである。上をまたぐことはできない。ミリ波とかなんとかいう電波が放射されていて、近づくととても痛い。

そういうことだから、小学生の自分にポールはヨクシコウカを発揮できない。通過した。問題ない。背後でガイジンが「Ouch!」と叫んだ。ポールを上から越えようとしたらしい。頭悪いな。できないってば。他にもなにかしゃべっていたが、完全に無視。

荒川の堤防に沿って駆けだした。

本日のミッションは、川の反対側にある兄さまのところにお届けものをすることだった。大変に危険な作戦である。兄さまはえらい学者で、情報のじりつをさまたげる暗号を解くとかいう仕事をしている。ガイコクジンの男が襲ってきたのもそのせいかもしれない。スパイなのかも。日本語の通じない白人はこのあたりではめずらしい。アングロサクソンは、倶知安や福部で雪スキーか砂スキーをやるものだ。小学生に機密の品を届けさせるというのも、敵の裏をかいた作戦であるのに違いない。だいじょうぶ。兄さまの妹ならできる。えらいぞ自分。

もちろん、ひとりで作戦を達成するのは難しい。天気に例えると晴れよりは雨に近い。もしかすると一部心細かったりするかもしれない。さっきまで作戦の補助をしてくれていたエミオとも離ればなれになってしまったし。困ったときはななほしに引いていってもらえと兄さまに言われているけれど、そのななほしもいない。困った。だが、しかたがない。任務の遂行には困難が伴うものだ。ひとりでも平気だ。

よく、自分はこうやってひとりになる。気づくとそうなっている。

だいぶ前、母に連れられてお医者さんに行ったとき、「ケンサクセイドウイツセイショウガイ」だとかなんとか、お医者さんが言っているのが聞こえた。

あとになって、「ケンサクセイ」を検索してみたけれど、よくわからなかった。なんだろう。まさか、検索ではないだろうし。誰でも検索はするものだ。医者とは関係がない。ひょっとして健作性なのか? 平成の時代にいた俳優らしいけれど、その人が発見したなにかなのだろうか。

兄さまの仕事が成功するとケンサクセイドウイツセイショウガイも治るらしい。不可視のデータベースが他者の意志によって検索され、各瞬間に新たに人格が形成されるこの状態は、分断されたこの世界がもたらすものなのだそうだ。世界をふたたびひとつにすることができれば、影響もなくなるという。えらい学者だけあって、兄さまが言うことはいつも難しい。こうやって受け売りしているけれど、実は2パーセントくらいしか理解していない。

こっちの事情も気にせず、荒川は、いつものように静かに流れていた。

あらかわ大橋は遥か後方だった。マッチ棒で組み立てたおもちゃの橋に見える。前も後ろも、堤防の上には誰もいない。走りつづけたせいで息があがっていた。もう走らなくていい。歩くことにした。

やがて、ちいさな公園が見えてきた。石づくりの門柱が、素敵に冷たそうだ。
腰を降ろし、首をあてた。体にこもった熱がすうっと抜けていった。

問題は、どうやって南関東に潜入するかだった。冬の川は冷たいし、泳いで渡れるようなものじゃない。ガイコクジンが見張っている橋は使えない。川の向こう側にもある公園まで行けば、兄さまの研究所はすぐだ。晴れた休日、その公園でフリスビーをしたことがある。難しいことを言う兄さまより、一緒にフリスビーをやってくれる兄さまのほうがどちらかというと好きだ。兄さまのフリスビーの腕前はひどい。体育が得意とは言えない自分とどっこいである。外見からはとてもそうは見えないけれど、兄さまは意外とどんくさい。

時報が鳴ったようだ。川面を流れる風に乗って上流から聞こえてきた。

うつむいた視界を黒い影がよぎった。顔をあげる。男だった。鋭い目つきの老人である。決行直前の銀行強盗のような意思が全身にみなぎっている。兄さまに機密の品を届けるミッションを依頼してきた男に、すこしだけ雰囲気が似ていた。

この男が敵か味方かはわからなかった。いい人か悪い人かもわからない。というか、いまはまだ、自分が正しいともかぎらないのだ。正義の味方が称賛されるのはゴールについてからで、それまでは全世界に追われるものだ。だから、男にたずねてみた。おそるおそる。

「おまえは警察か?」

2007.03.08
シンポジウム「破綻した分散民主主義」
■アクアスクエアりょうけ内に落ちていたチラシ

シンポジウム
破綻した分散民主主義——公共政策の再考を!

・日時 2045年11月25日(土) 15:00開演(14:30開場)〜18:00
・会場 ラボスクエアりょうけ アクアージュホールB
・南関東州みなみかわぐち市かわぐち区りょうけ
(あしかわライナー アクアスクエア西駅より徒歩約10分)

・資料代 1000円(学生500円)
・要予約(会場エリアに入るため認証が必要です)

 南関東州の住民であれば、みなさんPSPに加入していることでしょう。この州では、PSPカードをもっていなければ、地下鉄にも乗れないし、公園にも入れないし、橋も渡れません。

 しかし、PSPの運営には実は大きな問題があります。多くの国では、また、日本国内でも南関東州、近畿州、東海州以外の州では、社会生活で必要な個人認証は各サービスの運営企業に分散的に担われており、例外的に、公共性が高いサービス(交通機関など)へのアクセスのみ、行政が発行する身分証明を用いるのが通常です。そして、公的な身分証明情報の利用は、法令で厳しく制限されています。

 ところが、南関東州では、州政府の「市民基礎番号カード」とは別に、民間ベースで複数種類のPSPカードが発行され、それらが、市民生活のすべてを網羅する事実上の身分証明カードとして機能しているのです。それらPSPカードは、法令的には、携帯端末やライフログと同じ任意加入の「電子的情報端末」として扱われ、収集された個人情報の利用にも、半世紀前に成立した、時代遅れの個人情報保護法の範囲でしか規制がかけられていません。つまり、私たちのプライバシーは、PSP運営組織の「良識」によってのみ守られている状態なのです。

 また、現在の南関東州では、PSPによる公共サービスの集約が進み、福祉施設の運営方針や健康保険料など、多くのサービス水準がPSPを介した住民意志のリアルタイムな集約で決定されています。しかし、そのような「直接民主制」には、法的な裏付けがないばかりか、そこで用いられるAPODIS(Anonymous PrOpagational Decision making System)なるシステムの実態も、専門家以外には不透明です。私たちは、いつのまにか住民自治の権利を奪われていると言えましょう。

 2030年代に進んだ過度の分散自由民主主義は、すでに世界的には失敗が宣告され、EUやEACでは政策を転換する国が相次いでいます。2042年には、フィンランドとエストニアが福祉部門の再公営化を行い、2044年には、シンガポールがPDMS(伝播意志決定制度)による議会運営を中止しました。日本もまた、行きすぎた政策を見直す時期に来ています。

 このシンポジウムでは、2043年の株式公開以降、急変するさいたまパブリックホールディングス(旧;さいたまパブリックプラットフォームズ)の運営方針を克明に追っているジャーナリスト、イガラシ・タカオ氏と、公共空間論、都市論の著書を多数出版されている気鋭の社会学者、首都大学東京都市教養学部助教授の南田暁生氏をお招きし、PSP依存社会からの脱却の可能性を探ります。


【基調講演1】15:05〜15:45

イガラシ・タカオ氏(ジャーナリスト)
「グーグル化するさいたまパブリックホールディングス」
【基調講演2】16:05〜16:45
南田暁生氏(社会学者)
「分散(不)自由型社会の生の権利」
【ディスカッション】17:00〜18:00
イガラシ・タカオ氏
南田暁生氏
風山歩鳥氏(さいたまパブリックホールディングス広報部長)
司会;立野トシ子(環境管理を考える市民ネットワーク代表)
* 途中に休憩が入ります。
* ディスカッションには質疑応答も含まれます。
◆主催◆
環境管理を考える市民ネットワーク
◆予約・お問い合わせ◆
環境管理を考える市民ネットワーク
phone/vid/mail/mobile ; kankyokanri-network.jp.org

《広告》
過防備のファシズム イガラシ・タカオ著イガラシ・タカオ著
『過防備のファシズム』
(叢書《情報社会の真実》4)
朝日岩波書店
PSP、ライフログ、ゲームプレイ・ワーキング、PDMSなど、「分散型自由主義」テクノロジーにちらつく権力の影。人間の尊厳を冒され、「息をする財布」としか見なされないにもかかわらず、それでも人々は「安全」「効率」を求める。真の自由を忘れ、人間性の重みから逃走した日本社会はどこへ行こうとしているのか。長年の取材の集大成、渾身の書き下ろし! 重版出来!
叢書《情報社会の真実》は、電磁的著作権法第二十五条の例外規定に基づき、データ販売を行わず、電磁的著作権管理を添付しないアナログ・パッケージ(書籍)のみで販売されています。書店でお買い求めください。
2007.03.09
第18話「パラノグリッド(10)」海神れい

「わたしは追われているのだ。かくまえ」

その言葉に、老人は笑みを返した。
不敵な笑みだ。戦争映画で見たことがある。絶望的な状況に追いつめられ、命をかけた突撃を決意した軍曹が同じ表情をしていた。子供だから言葉半分に受け取ったかと一瞬思ったが、そういうわけでもないようだ。敵にせよ味方にせよ、この老人の顔は信頼できる。そう感じた。

「わたしは川の向こうへ行かなければならない。だけれど、橋を使うわけにはいかない」
「なぜかな?」
「事情がある」
「まあ。あるのだろうな。子供は子供で、いろいろと」
老人がうなずく。ひとりで納得しているようだ。

「うむ。いろいろあるのだ」
言いながら立ちあがった。

ふたりがいるのは、荒川堤防につくられたちいさな公園だった。よりかかっていた門柱に、岩淵水門公園と彫ってある。周囲は白茶けた冬の芝生だ。30メートルほど下流へ行くと、朱色に塗られた水門が川の流れを堰き止めている。水の音にとり囲まれた場所だ。このあたりは地形が入り組んでいて、3本の川が並行して走っているのだった。

「どうしてもというのなら、船を使えばいい」
老人は言った。
「ふね?」
「すぐそこの桟橋から、向こう岸へ渡る定期便が出ている」
背伸びして、水面を見下ろしてみた。たしかに、桟橋のようなものがあった。白木の板でつくられた通路が川に向かって垂直に伸びている。視線をずらすと、対岸にも板ガムを並べたような通路が見えた。桟橋の先にあるのが、兄とフリスビーをやったあらかわかわぐち親水公園である。

「もともとこの国は水運の国だったんだ。なんにでも橋を使うようになったのはつい最近のことだ。山で木を伐ったら川に流す。川を渡るのには船を使う。石だって、水に沈めれば運びやすくなる」
「ふりょくの原理くらい知ってるぞ。理科で習った」
「最近の子はえらいな。わたしの時代は習わなかった。アルキメデスは偉大な爺さんだ」
「そうなのか? アルキメデスが浮力の原理を発見したのは30前だって兄さまが言ってたぞ」

老人はがっかりしたようだ。
「まあ、爺さんでもえらい人はいる」
なぐさめた。

周囲を見回す。堤防の上を豆粒が動いているのが見えた。こちらに向かっているようだ。ちいさすぎて、人か乗り物かは判別できない。ガイジンかもしれないしエミオかもしれない。ななほしだったらいいけれど、たぶん違う。ななほしはもっともっとちいさい。

「船に乗るにはどうしたらいい?」
「まだ来ていないようだな。大きな船だよ。着けばこの公園からでも見える。きっといまは、カジノかホテルのほうへ行っているんだろう。一緒に待つかね?」
「それでは困るのだ」
「どうにもならんよ」

つぶやき、老人は歩き出した。老人の言葉は、問いへの答えにも思えたし、自分自身への語りかけにも思えた。後ろ姿がベンチに向かってゆっくりと進んでいる。ついていく形で、公園の敷地内に入った。そのまま進んでいくと、次第に視界が開けていった。いままで影になっていた桟橋の根元にボートが1艘浮かんでいる。中途半端な長さの髪とヒゲを伸ばした男がなにかを積み込んでいた。

老人を手招きした。

「あの船ではいけないのか?」
「あれはオープン主義者だ。近づかないほうがいい」
「なんでだ」
「中州に住みついてるんだ。なんでも記録して公開する困った連中だよ……いや、そうでもないのか。いまとなっては」
「よくわからないぞ」
「宗教団体みたいなものだと思えばいい」

ヒゲの男が顔をあげた。
こちらに気づいたようだ。

「乗ってくかい? そこの紳士と、嬢ちゃん」
顔の半分ほど口をあけて怒鳴った。スズメを撃墜できそうな大声だ。
「向こうはおひとりさま160円。子供は80円。こっちは100円と50円でいい。しかも、好きな場所に接岸するサービス付きだよ」

老人がふんと鼻をならした。
堤防を見やる。豆粒が大きくなっている。老人の目には映っていない。

「乗るぞ!」
手をあげた。老人は驚いた顔をしている。
「おい。嬢ちゃん」
「なんだ」
「危ないぞ」
「なんでも記録して公開するのだろう。だったら危険はないはずだ。爺さんは来ないのか?」

桟橋への階段をくだる。老人は立ちつくしている。
踏みしめた砂がじゃりっと音をたてた。かすかに、水の匂いがした。

2007.03.26
2ndターンまでのかんたんなあらすじ。

2045年11月のある日のことです。

その日は、朝から晴れていました。陽光にきらめく超高層ビルも、ちょっとだけ肌寒い風も、荒川の水面で踊る三角形の波も、なにか特別なことが起きるのだと予感させます。

それもそのはず、その日は、世界にあるすべての暗号が解放されるという噂の日だったのです。とある数学者が公開した理論が事の発端でした。嘘か真か、今日という日、数学者の理論に基づいたプログラムがネットワーク上にばらまかれるとニュース番組が騒いでいます。コメンテーターはしたり顔でモラルの低下を嘆きます。

だけれど、南関東州にある川口の街は、普段とまったく変わらぬ静けさと喧噪に満ちていました。

73歳になる丸田蔵人はこの機会を逃しませんでした。恋敵である小野寺明(75歳)を亡きものにしようというのです。暗号が破られれば、街頭に設置してある監視カメラ映像を捏造することが可能です。アリバイだってつくり放題。完全犯罪の完成です。丸田老人の決意を知る者は誰もいません。

同じ日、小野寺明の孫である笑男は、赤羽アジア街の一角でひとりの少女に出会います。
彼女の名前は“れい”。連れている犬の名は“ななほし”。ひょんなことから、ふたりは一緒に川口を目指すことになりました。ところが、あらかわ大橋にさしかかったところで、れいの犬が逃げ出してしまいます。こうなったら乗りかかった船、れいをその場に残し、笑男は小型犬を追いかけます。

領家にある高層マンションの敷地内で笑男は無事ななほしをつかまえることができました。自転車のカゴに小型犬を入れ、橋へとペダルをこぎます。

ところが、女の子の姿はどこにもありません。

そのとき、れいは、荒川堤防沿いにある岩淵水門公園にいました。
彼女がそこで出会ったのは、小野寺老人の殺害を決意した男、丸田だったのです。

(あらすじだけではようわからんから最初から読むという人は、ここをクリックしてください)

2007.03.26
第19話「パラノグリッド(11)」海神れい

荒川堤防につくられたちいさな公園だった。
桟橋への道をくだると、中途半端な長さに髪とヒゲを伸ばした男がボートに荷物を積み込んでいた。

「渡し賃は大人100円。子供50円だよ」

ヒゲの男が言った。機能性シャツに洗いざらしのジーンズを着ている。長めの髪とヒゲが四方八方に突き立って、爆発寸前のウニのようだ。この髪には憶えがあった。以前、兄さまの家でシャンプーがなくて石鹸で髪を洗ったとき、同じようなつんつん髪になったことがある。

「南関東州のPSPでいいのかね?」
老人が男がたずねた。どうやら一緒に船に乗ることにしたらしい。
「もちろん。東京首都州で流通してる各種クレジットもOKだ。現金……と言われると困るがね」
「おまえさんたちはあの中州で暮らしているのだろう。現金がなくてどう取り引きするんだ?」
「よしてくれ、爺さん。川の真ん中だって電波くらい来てるよ。それどころか、日本海の上じゃ、麻薬取引にクレジットを使ってるって話だ」

ヒゲ男が携帯デバイスを取り出す。デバイスのレンズに、手首の内側に貼ってあるPSPカードシールを向けた。機械たちが無線で連絡を取り合う数瞬の間があった。ちりん、と小気味いい音がして、ヒゲ男のデバイスに50という数字とSaitama Public Holdings PSPED Cerifiedという画像が浮かびあがる。つづいて老人も手続きをした。

「毎度あり」携帯デバイスをポケットにしまいながらヒゲ男がつぶやく。「もっとも、今日の夕方以降はPSPカードを使うのはやめといたほうがいいかもしれないがな」
「なぜだ?」
「ニュースでやってただろ。この世の中には暗号っていうやっかいなものがあってな。世界は情報に満ちているんだが、暗号のせいで、せっかくの情報にたどりつくのがとても難しい。だから、頭のいい奴が、暗号を世界からとっぱらう理論を考え出したんだ。暗号がないと他人を信じられない連中は困るだろうな。混乱に便乗してなにかやる奴も出るかもしれない」
「犯罪か。犯罪はよくないことだぞ?」
「なに、混乱は一時的なものだ。いずれ新しい秩序ができあがる。それに、いまだって犯罪は起こってる。街中にカメラがあってもなくても、盗む奴は盗むし、殺す奴は殺すもんだよ」
殺すという言葉に、老人の肩がびくりと反応した。男は気にしない。
「さあ、乗った乗った」

跳び乗った。
ボートの床は揺れている。膝から下の部分が勝手にダンスを踊っていた。皿の上に落としたプリンの上に立っているようだ。桟橋の杭に腕を絡ませながら、老人はそろそろと足を伸ばしている。ヒゲ男がボート後部の紐を引いた。エンジンが爆音をたてて回転をはじめた。老人が船底に尻餅をついた。

「な、なんだこりゃ!」
オーケストラのドラムが2メートルの距離でマーチのリズムを叩いている。すごい音だ。
「エタノールエンジンだよ。知らないのか?」
「こんなにうるさいのか!」
老人は怒鳴り声だ。それすらも爆音にかき消されてよく聞こえない。
「こいつは静かなほうだ! 座っときな。出発するぞ」

腰をおろす。ヒゲの男がプロペラを水中に沈める。ボートが水を切ってゆるやかに進み出した。
10メートル先に白い水鳥が浮かんでいた。向こう岸にそびえる超高層マンションが、荒川の水面にさかさまに映っている。水鳥がはばたき、マンションが揺れた。ボートは次第にスピードをあげていく。

老人がわめいた。
「おい、揺れすぎだ! ちっとはこっちの歳を考えろ」
「爺さんも、老人を敬おう運動とかやってんの!」
「歳を取ることに歳を取る以外の意味なんかありゃしない。運転が荒いと言っとるんだ!」
「小型ボートはこんなもんだよ! 3本の川が交差してるだろう。このへんは水流が入り組んでて波が高いんだ! 風を感じてみろよ。大型船じゃこの風は感じられないぜ!」
「乗り心地が悪いんだ! 落ちる。お、オープン主義者め!」
ふたりの男は、エンジン音に負けないように怒鳴り合っている。

ヒゲ男の言うとおり、風を感じてみる。11月の空気は頬を刺すようだ。髪が頬を打っている。舳先が水を斬り裂き、しぶきが飛ぶ。冷たくはない。砂粒がぶつかるようだ。ちょっとだけ痛い。だけれど、なぜか、それが心地好い。ボートが目指す先に、兄さまとフリスビーをした公園がある。

言ってみた。
「つまり、この場合の乗り心地はすっぱいぶどうというやつだな。本で読んだ!」
「そう、それだ! すっぱいぶどうだ! 嬢ちゃん、頭がいいな!」
「なにがすっぱいぶどうだ!」
「ボートの乗り心地も、犯罪のない世界も、情報の垣根がない世界も、床に落としたトーストも、告白できなかった女も、みんなぶどうだ!」
ヒゲ男はガハハと笑う。笑い声は風に流され、ボートがつくりだす泡に溶けていく。
「わ、わたしは子供も苦手だ!」
「実はわたしも苦手なのだ! わたしも子供だが!」
「そりゃあいい! で、どこに行く? 向こう岸でも中州でも、お望みのままだ!」

男が笑う。エンジンの爆音にサイレンが混じったのはそのときだ。真っ白な小型船舶が目の前に飛び出してきた。水鳥が飛び立った。船舶は一直線にボート目指して進んでくる。いままで、水門の影に隠れていたのだった。

「そこの未登録船舶、停船しなさい!」
冬の川に、割れた女の声がひびいた。
「やっべ。荒川警備隊だ!」
「警察か?」
「違う違う。このあたりの水上を仕切ってるお節介なNGOがあるんだよ。誰も頼んでないのにな。不法投棄とか、不法漁業とか、渡船条例違反とか、ライフジャケット着用義務違反とか、立ちション禁止とか、勝手に朝メシ抜いたらいかんとかいろいろ監視してるんだ」
「もしかして、おまえも追われているのか」
「そういうことになるな! つかまってろ!」

ヒゲ男は舵を切った。エンジンが唸りをあげる。体が右に倒れこんだ。老人は舷側を握りしめている。視界が斜めだ。川も桟橋も超高層マンションも、すべてこの世は傾いている。おもしろい。飛び散った水がボートの床に染みをつくった。

もしもななほしがここにいたら、盛大に喜んだだろう。

2007.03.26
あるブログ(1)
■ブログ「ソノヰキ、ワタルヤワタラヌヤ」
■2045年8月15日のエントリ

 終戦100年だというのに、この静けさはどうだろう。大したイベントも開かれなかったし、ホットトピックに戦争関連の話題がぜんぜんあがってこない。「終戦」という言葉すら、いまでは死語だ。100年前のあのできごとは、単に「敗戦」と呼ばれるか、無味乾燥に「第2次世界大戦終結」と呼ばれるだけだ。それも、大事なのは日本が降伏文書に調印した9月2日で、8月15日には歴史的な意味がないというのが通説らしい。ともかく、もはやだれも今日を特別視していないのは確かだ。政府も今日は、午前中に靖国追悼社でおざなりな儀式を行っただけだった。
 ログサーチをかけると、こんな静けさに対して、私あたりの世代から少しは不満の声があがっているようだ。しかし、これは嘆いてもしかたないだろう。そもそも、私たちの世代だって同じような忘却を生きてきたのだ。
 私は76歳、1968年生まれだ。1968年は明治維新100年にあたる。しかし、私はそのことを高校ではじめて知った。ちなみに、私の誕生日は11月10日で、こちらは大政奉還の日。第2次大戦以前(むかしは「戦前」と言った)には11月10日は特別な日で、皇紀2600年のイベントが行われたらしいが、私が生まれたころはそれもまただれも知らなかった。いま8月15日が忘れ去られているのも、それと同じことだ。人間は100年も記憶を保っていられない。
 ところで、このブログでは前々から言っていることだが、明治以降の日本の歴史には不思議な75年周期がある。明治維新は1868年、つまりだいたい1870年に始まった。その75年後は「終戦」の1945年。その75年後は、現行憲法が公布された2018年であり、道州制が施行された2020年である。つまり、ここ2世紀の日本は、国家の基本的な構成を75年ごとに大きく変更している。100年は無理だが、75年というのは、人間の集団が同一性を保っていられるぎりぎりの長さなのかもしれない。私の人生も、そんな長さを少し超え始めてきた。
 1870年に始まる周期と1945年に始まる周期には、はっきりした対照性がある。明治維新から終戦までの75年間は、西洋に追いつき追い越せで、近代国家の建設に向けて邁進し、それにはあるていど成功したものの、ナショナリズムの暴走を管理できず最終的には誤りを犯してしまった時期。終戦から道州制までの75年間は、逆に誤りを犯さないように縮こまり、今度はアメリカをモデルにして、経済的繁栄のみにシニカルな関心を集中させた結果、民度の低い荒れた国しか残すことのできなかった時期。それでは、2020年のこの周期で、日本はどこに行こうとしているのだろう。
 いずれにせよ、もしそんな周期が正しいのだとすると、今年は日本にとって重要な年になるはずだ。2045年の75年前は1970年、そのさらに75年前は1895年。1895年は言わずとしれた日清戦争の年、1970年は有名な大阪万博の年で、それぞれ、第1の周期のナショナリズムの暴走(=軍事国家的繁栄)と第2の周期のシニシズムの暴走(=経済的繁栄)が、まさに始まった時期にあたる。日本はどうも、周期の25年目からだめになるようだ。
 2045年も半分以上が過ぎたが、さして大きな事件も起きていないし、象徴的な行事も予定されていない。しかし、残りの4ヵ月半で、日本が震撼する歴史的事件が起きないとも限らない。いや、おそらく、きっと起きる。そして日本はまた没落していくのだ。かつて「公僕」(私のデバイスはこの言葉を漢字変換できなかった! みなさんは意味がわかるだろうか?!)のはしくれだった人間として、そんな没落は目にしたくないのだが、しかし、だれか100年前の文学者も言っていた、人間はとことん堕落しないと真実も掴めないのだ。

2007.03.27
第20話「カピバラはクリティカルヒットを出す(1)」山出さくら

自分はカピバラなのだと思う。

教えてくれたのは20代のときにつきあっていた男だ。ゲーム雑誌の編集をしていた。当時は、そういうものがまだあったのだった。

カピバラは齧歯類である。普段は水中の草や木を食べて過ごしている。図体は大きいが肉食獣に狩られる存在で、ほんのちょっと物音がしただけで逃げ出す臆病な動物だ。動きも遅い。だけれど、彼らは危険な門歯を隠し持っていて、追いつめられると鋭い一撃を敵に見舞うのだという。
そんなところが似ていると男は笑った。20年近く前の話だ。男がいまなにをしているかは知らない。大金持ちになっているかもしれないし、ホームレスになっているかもしれない。

地上100メートルから見下ろす荒川は、曲がりくねり、合流し、そして分岐していた。水面の色は光の反射の白と黒だ。水の青ではない。不思議だ。嵌め殺しの二重サッシを通して、上空の風がびゅうびゅうと叫んでいるのが聞こえる。空気の冷たさは感じない。

荒川の北側に建っているこのマンションは、南からの光をさえぎるものがない。川に面した窓は、開きこそしないものの、大きく張り出し、ちょっとしたパノラマを楽しむことができるようになっていた。住みはじめた当時は粋な設計だと思ったものだ。だけれど、いまは気にいっていない。河川敷に住みついたホームレスたちの住居が目に入るからだ。白茶けた初冬の草むらに、ブルーの機能性シートはよく目立つ。彼らは、地べたを這いつくばる名もなき存在だった。

このあたりは行政の管轄が入り組んでいる。東京首都州と南関東州の境は荒川なのだが、ちょうどアクアスクエアりょうけの敷地前だけ、こちら側の河川敷も東京首都州の管轄区域となっているのだ。荒川を造成したとき、昔の川の形のまま当時の県境を放置したせいだと聞いている。管理が手薄になった場所に、行き場のないホームレスたちが住みついた。

ホームレスたちを見るのが嫌なのは、彼らの住居が薄汚いからではなかった。自分だって最初は地べたに住んでいたし、またいつそこに戻ってしまうかもわからない。だから、ホームレスの姿を見ると、背筋が寒くなる。いまはできるだけ地表から遠いところにいたい。

いまでこそカリスマ主婦などと呼ばれているけれど、自分が有名なのは、自分そのものに価値があるのではなく、かぶっているペルソナを皆が褒めそやしてくれているからだ。身につけていた演技と編集のテクニックを活かし、毎日の献立をネットで放映したら思わぬヒットに繋がった。ただそれだけのことのだった。

自分が美人でないことは知っている。だからこそカリスマになれる。幸運をつかむ力がある。露骨な美人は警戒されるからだめだ。ちょっとくらい不細工なほうがいい。名前も平凡だ。それもいい。自分が生まれた年ではいちばん多い名前である。

ここに来るまではいろいろあった。

大学入学時に北海道から上京した。在学中に劇団に入ったがうまくいかなかった。演技することに自信はあったけれど、地味な容貌が舞台の上で映えることはなかった。当時つきあっていた男にシナリオを書いてみろと言われて、それなりにうまくいった時期もあったがそれなりで終わった。男と別れたあと、映画雑誌のライティングや編集の下請けみたいな仕事を受けたりもしたが、こき使われるだけで結局いいことはなかった。

ひとつだけ自慢できることがあるとすれば、境遇が変わるたびにつき合う男のランクをあげていったことだろう。

小劇団でつちかった演技が役立った。完璧とはいえない容貌も相手の警戒を解くのにプラスしたと思う。30になる寸前、その時点で考えられた最上の男と結婚して家庭をつくった。そうして、川口に立ったばかりの高層マンションの最上階を買い、子供をもうけた。子供は東京首都の有名私立に通っている。土曜日の今日も授業をやってくれるところだ。

生きかたを人に知られたらそしりを受けるかもしれない。だけれど、閉塞した地方都市からたったひとりで脱出した18歳の少女に、それ以外なにができたというのだろう。

故郷の祖母は、男性が失ってしまった勘みたいなものが女にはあると言っていた。世間がつくりだした理屈に負け、つまらない男に母は一生を捧げてしまった。おまえは同じまちがいをするな、どれほど理性や理屈が反対しようとも、内なる野性がささやきかけてきたのならその声に従え、と。

18のときに聞いたその言葉が自分にとっての遺言になった。最初は老い先短い老人の世迷い言と思っていた。だけれど、人生経験を積むうちにわかってきたことがある。理屈に支配されてはいけないのだ。理屈などというものは、ペルソナを記述する書式みたいなものだ。日常生活をあたりさわりなくすごすには欠かせない。が、本当の危険が迫ったとき、ペルソナの下から本音という門歯がぞろりと姿を現す。

いま、セキュリティの危機が世間を騒がせている。
なんでも、すべての暗号が解かれ、皆のプライバシーが白日のもとに晒されるのだという。なにが起こるのかものすごく怖い。もしかしたら身の破滅に繋がるかもしれない。他人に知られて困る秘密なら山ほど抱えている。

だけれど、内なる声はささやいたのだ。
自分は、川口のカリスマ主婦で終わるような女ではない、と。

2007.03.27
「高齢犯罪」
■Wikipedia日本語版
■「高齢犯罪」
■2045年11月12日最終更新

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概要

 現在の日本は、高度な高齢社会である。2043年の人口ピラミッドは、70代半ばの第2次ベビーブーム世代を頂点として、きれいな逆三角形を描いている。総人口1億人のうち、高齢者(65歳以上)の人口は3500万人を超え、後期高齢者(75歳以上)だけでも2200万人に及んでいる。日本国民の平均年齢は50歳を超え、平均寿命は男性が80歳、女性は90歳に達している。2030年代に入り、南関東州を始め、いくつかの州では外国人労働者の受け入れを始めたが、それはまだ人口分布の偏りに影響を与えるほどにはなっていない。
 このような超高齢化の結果として、この10年間の日本では、高齢者による犯罪が大きな社会問題となっている。それらはしばしば、半世紀前の日本で同じように社会問題化した「少年犯罪」になぞらえ、「高齢犯罪」と呼ばれている。
 高齢犯罪の名称は、年齢差別(エイジズム)のあらわれとして、エイジフリー運動の支持者から強い批判を受けている。しかし、高齢犯罪者の増加そのものは事実である。
『高齢犯罪白書』2045年版によると、2044年の日本本土9州(沖縄州を除く)の検挙者数は45万人であり、そのうち高齢者は14万人、後期高齢者だけでも8万人を占める。高齢犯罪者の割合は1990年に2%だったが、半世紀で15倍になった。受刑者のうち高齢者の占める割合は50%に迫り、刑務所や矯正施設の運営に大きな影響を与えている。高齢犯罪に対する市民感情は厳しく、2045年3月10日にGoogle Total Lifeと南関東州が行った伝播加重型リアルタイムアンケートによれば、同州の非高齢者の32%が、非就労高齢者の増加を治安リスクだと考えている。後期高齢犯罪者に対しては、長期刑を科し、有効な更正教育を行うことが難しいため、刑罰の種別を変えた「高齢犯罪法」の新設を望む声も出ている。
 なお、犯罪者の男女比はもともと圧倒的に男性に傾いているが、高齢者では女性が多いため、高齢犯罪者の男女比は必然的に1:1に近づくことになる。2044年の後期高齢者の検挙者8万人のうち、男性は5万人、女性は3万人である。日本では、刑法犯検挙者に占める女性の割合は、1970年代以降上昇の一途を辿っており、2044年には30%に達している。

分類

『高齢犯罪白書』2045年版によると、高齢犯罪は、おもに、窃盗、親族を対象とした殺人などの凶悪犯罪、詐欺・横領などの知能犯罪、ハッキングなどのサイバー犯罪の4つに分けられる。
 前二者は、日本の高齢者が置かれた厳しい経済的・社会的環境を示している。原因としては、2024年に公的年金制度が事実上崩壊したこと(1970年生まれ以降世代への給付が漸近的に廃止されたこと)、そしてそのかわりに導入された9州共通の「新高齢生活保障制度」が失敗したことが指摘される。2045年現在、日本の高齢者の3割近く(州によっては6割近く)が一人暮らしをしており、高齢者世帯の一人当たり所得額は、全世帯の一人当たり所得額の6割ほどに止まっている。
 他方、後二者の犯罪は、まったく異なった性格をもっている。それらは、富裕な高齢者により行われることが多く、経済的な厳しさというよりも、むしろ彼らの精神的危機を反映している。
 高齢者の知能犯やサイバー犯は、非高齢者の同犯と比較して、動機としてアイデンティティの危機のような心理的要因を挙げることが多い。このタイプには、現役時代に高い社会的地位を築き、高度な専門的知識をもつ犯罪者が少なくない。被害者は、多くの場合かつての職場や同僚、友人である。その背景には、たとえ生活が民間保険や貯蓄で保障されたとしても、多くの高齢者が、そもそも人生の3分の1近くを「高齢者」として生きることを受け入れがたく感じているという現実がある。
 EUやアメリカも高齢犯罪の増加には苦しんでいるが、犯罪者の精神的な不安定や渇望感が原因となる事例が多いのは、日本特有の現象である。2020年代以降、国際的に、高齢者に対しては、医療面、経済面の支援だけではなく、精神面や宗教面、性的問題までも含めた総合的なケア(エイジドソウルケア:ASC)を提供するべきであるとの認識が拡がっている。日本政府は2023年に「高齢者の権利条約」を批准しており、その後行政と市場によって数多くの制度、サービスが整備されたが、残念ながら有効に機能しているとは言いがたい。日本では、高齢者の自殺死亡率が2000年代より一貫して上昇し続け、2043年の時点で全体の自殺死亡率を1955年と同水準の25%にまで押し上げている。

大阪抗老化センター事件

 高齢犯罪の重要性は、専門家のあいだでは2010年代より指摘されていた。しかし、社会的な注目が急速に高まったのは、2039年の「大阪抗老化センター事件」以降のことである。
 大阪抗老化センター事件は、82歳(当時)の元大学教授が、かつての職場である大阪大学医学部附属病院抗老化治療センターのシステムに侵入し、抗老化ナノボットのファームウェアを書き換え、自分を含めた通院・入院患者1200人以上の老化現象を急激に進めたという事件である。犯人の元教授は起訴中に多臓器不全で死去し、動機は未解明のままに残された。この事件は、28人の死者を出すとともに、日本でのナノテクノロジー延命治療の普及を大きく妨げることになった。

2007.03.28
第21話「カピバラはクリティカルヒットを出す(2)」山出さくら

大金持ちでなくても高層マンションの最上階には住めるものだ。この世には無数の最上階がある。川口だけでも相当な数だ。見合わない金額を払う決断をすれば、誰でもそこに住むことができる。

上層階専用のエレベーターをエントランスで降りると、能天気な音楽が聞こえてきた。メロディーに合わせて、舌足らずな声が「やきそばやきそばおいしいやきそば」と連呼している。巡回屋台だ。懐しい。東京首都にいた頃はよく食べた。あのときつきあっていたのは3番めの彼だったか。記憶とともに、甘辛いミーゴレンの味が口に広がった。思わずつばを飲みこむ。喉が鳴った。

だけれど、屋台のやきそばを昼食にするなどいまは考えられないことだった。
自分が放映したレシピで近隣ショッピングセンターの売れ筋は変化する。それはつまり、スポンサー会社の売り上げが変わるということでもある。雨が降ったからといってレシピを放映しないわけにはいかないし、レシピどおりの食生活をしているというペルソナを外してもいけない。セキュリティの危機とニュースが騒いでいても、明日のための買い出しはする。パニックが起きても、人は眠くなるし腹は減るしセックスもする。そういうものだった。

「こんにちは。いい天気ですわね」

堤防上の道へとつづくエントランスで2人の女性につかまった。この時間に食材の買い出しに行くことを知っていて待ちかまえていたのだ。出かけるところをカメラで見ていたのかもしれない。明日の放映内容を先に聞き出すつもりなのであろう。他人に自慢するだけで自分で料理したりはしないのだけれど。毎日つくっていたら、もっと体形がひきしまっているはずだった。

26階に住んでいる着飾った女が言った。
「このチラシ、見ました?」
首を横に振った。女がつづけた。
「家のドアにはさんでありましたのよ。いったい誰が入りこんだんでしょう」

渡されたチラシに視線を落とす。隣の研究施設でなにかの集会を開催すると書いてある。だけれど、女にとって、チラシに書かれている内容はどうでもよいことのようだった。

「本当に怖いですわね。今日の夕方からドアの鍵が効かなくなるという話を聞いたんですけれど、変な人が入ってきたらどうしましょう」
もうひとりが答える。19階の主婦だ。
「ウチでは今日は子供は外に出してませんよ。夫は関係ないって言ったんですけれど、やっぱり怖くて」
「ニュースではだいじょうぶと言っていたけれど本当かしら」
「買いだめしておいたほうがいいんでしょうか」
「カードが使えなくなるから現金を引き出しておいたほうがいいって聞きましたわよ」
「まあ。現金!」

弾丸となって飛んでくる言葉のほとんどを聞き流し、笑顔でうなずいた。
言葉の内容にほとんど意味はない。彼女たちにとって、いまここでリアルな時間を共有しているということだけが重要なのだから。もちろん、彼女たちもセキュリティの危機を不安に思ってはいる。数学者の新理論によって暗号が破られるとか、個人情報が流出するとか、預金残高が改竄されるかもしれないとか、ニュース番組はさんざん煽っている。恐怖の種はつきない。

しかし、本当の危機はそんなところにあるのではないのだ。住所も電話番号もPSP番号も、皆、他人に知られてはじめて意味のある情報である。お金だってきっと返ってくる。金など、もともと数字でしかないのだ。個人の数字をちょっと増やしたり減らしたりしても誰も困らない。

彼女たちは、起こるかもしれない本当の悪夢に、気づいていない。

「山出さん、あなたなにか聞いてません? なにかわかったらすぐ教えてちょうだいね」
「ええ。かならず」
右からやってきた心にもない言葉を、ペルソナの笑顔で左に受け流した。カメラは人の心の中までは映さない。便利でいい。
仮面の横を、自転車を押した青年が通りすぎていった。青年はヘルメットを被っていなかった。犬を抱きかかえていないのもマンションのルール違反だ。だけれど、言わないことにする。他人に注意をするというのはカリスマ主婦のペルソナにそぐわない。

横を擦り抜けざま、短く、鋭い音が鳴った。青年のものだ。
着飾った女が振り向いた。声をあげた。やっぱり。

「マンション構内ではペットは抱きかかえるか鍵のついた籠の中へ。自転車の籠は禁止のはずですよ」
「すみません」
青年があやまった。小型犬は不満顔だ。籠の中で四肢をふんばり、なにか文句あるのかとでも言いたげな視線を投げつけている。青年が必死で犬の口を押さえている。頭をぺこぺこと下げながら歩いていった。

「どんな育てかたをしてるんでしょうねえ」
19階の主婦が言った。賛成の微笑とともにうなずくことにする。
ウチの子は、ああいうふうには育てないようにしよう。

2007.03.29
第22話「カピバラはクリティカルヒットを出す(3)」山出さくら

主婦ふたりとの立ち話を適当なところで切りあげ、堤防上の道をあらかわ大橋へ向かった。目的地は赤羽だ。電車は使わない。特別な人間は、その他大勢と一緒に輸送されたりしないものだ。移動は徒歩か車と決めている。
荒川表面を北西から伝ってくる空気は冷たかった。本格的な冬が間近に迫っていることを感じさせた。

「そこの未登録船舶、停船しなさい!」

左手で叫び声がした。女だ。拡声器の限界を超え、声がひどく割れている。
横目で見ると、横幅200メートルの流れの中央部で、民間警備隊のパトロール艇に小型ボートが追われていた。パトロール艇は快速だ。両者の距離が見る間に詰まった。かと思うと、小型ボートは器用に急旋回し追撃をかわす。豆粒大の乗員がボートの床に転がった。パトロール艇もあきらめない。2艘の船が水上で火花を散らす。

たしか、民間警備隊には4階の奥さんが入っていたはずだ。この寒空によくやる。下層階に住む人間は、より下の人間を追いつめたくなるものなのか……。

追われているのはオープン主義者のボートだった。

オープン主義者は、荒川の中州に住みついている若者の集団だ。軍が払い下げたテントを草むらに張って好き勝手にやっている。
聞くところによると、それなりに快適な生活らしい。だが、大雨となれば話は別だ。遠く奥秩父から流れてきた濁流は、岩淵水門の真っ赤な堰き止め板のほとんどを水面下に飲み込んでしまう。中州もいちばん高いところしか残らない。そもそも河川敷というのは、大量の水が上流から流れてきたときの水路として確保してある場所なのだ。そんなところに住んでいるのだからたいしたものだと思う。自分には怖くてできない。オープン主義者たちは、危険の感じかたが人とは異なるのかもしれない。なにしろ、すべての情報をオープンにして、カメラで全世界に発信している連中だ。

オープン主義者にプライバシーはない。これは大変なことだ。
ふたりの主婦たちは気づいていなかったようだが、世界の暗号が本当に解かれたとき、真に訪れる危機とはプライバシーの暴露なのだから。

日本という国には無数の監視カメラがある。いまでも、24時間カメラ映像に張りついていれば誰がどこにいるか追跡可能だ。だけれど、そんなヒマな人間は滅多にいない。持ち主が公開設定にしていなければPSP機器の位置情報検索はできないし、顔検索ソフトの使用は政府によって規制されている。人物の検索が不可能であることによって、かろうじてこの国のプライバシーは保たれている。

ちょっとした有名人である自分にはそのことがわかる。いまも、匿名掲示板では赤羽の精神科医に通っていると陰口を書かれている。誰かが掲示板に書いたのだ。

その精神科に治療を受けにいったという人物が「前世は犬だったからドッグフードを食えと言われた」と書き込んだのが発端だ。根も葉もない中傷である。医師の泉藤はきっぱり否定している。最近流行している同一性障害に関して名の知れた医師だというだけでバッシングする人間がいるのだった。

誰が何を書くかわからないのが匿名掲示板の恐ろしさだ。さっき話していた主婦だって、本当は仲良しこよしとは限らない。あのふたりのうちのどちらかが匿名掲示板に書きこみをしていてもおかしくはなかった。暗号が破られれば、それらすべてが白日のもとに晒される。

もっとも、預金や侵入者の心配をしているふりをして、暗号が破られたら、彼女たちは素知らぬ顔で夫が帰宅しなかった日の追跡調査をするのかもしれない。人はそういうものだ。彼女たちだって、善良な市民の妻を演じているのにすぎないのだから。

暗号が破られたら自分はどうするだろう。夫の浮気の追跡調査をするだろうか。

おそらくしないと思う。そんな怖いことはしない。見なければ、それはなかったことと同じだ。
できれば、夫も同じ考えでいてくれるといい。

そんなことを考えながら歩いているとあらかわ大橋に着いた。
本当は無料の道を通りたかったが、有料歩道を選択する。カリスマ主婦は、スーパーでは1円の値引きにこだわり、その一方で、社会を支えるインフラにはきちんと対価を払うものだ。6円というちいさな額が、積もりつもって山となり自分をいまの地位に押しあげた。橋の欄干から、ぽんという電子音が聞こえた。6円分のコンクリートを踏みしめる。

有料道路は、無料の道よりなぜかまぶしく感じる。昼すぎの陽光を受けて輝く川面の先に赤い水門が見えた。水門に繋がる小島の、そのさらに向こうにあるのがオープン主義者たちが住む中州だ。小型ボートとパトロール艇の姿はすでにない。

おそらく、プライバシーというものは、伝説に出てきたパンドラの箱のようなものなのだろう。中を探れば災いがいくらでも出てくるのだ。パンドラの箱から飛び出ずに最後まで残っていた災いは、たしか、未来を見通す力かなにかだった。今度のことも同じなのだと思う。どれほどプライバシーが暴かれようと、人は、自分の未来まで見通すことはできない。破滅が襲ってくることも、濁流が襲ってくることもわからないから、人はその場に踏みとどまって生きていく。

もしも、逃れ得ぬ濁流がやってきたのなら、幾重にも積層し自分でもどれが本当かわからなくなった人格の仮面も流れてくれるのだろうか。

この世はペルソナだらけだ。
一刻も早く、本音をぶつけられる男と会話がしたくてしようがなかった。

2007.03.30
交通事故ニュース
■さきたまヘッドライン
■2045年11月25日午前6時25分

 24日午後10時21分、みなみさいたま市かわぐち区りょうけ4で、防犯灯による通報があった。
 交通保安サービスが駆けつけると、東京首都特別州荏原区池上1、A・Sさん(40・女性)が、市道上で頭から血を流して倒れていた。Aさんは頭を強く打っており、まもなく死亡。防犯灯とガードレールの環境記録によると、Aさんは走行中の乗用車から振り落とされたと見られる。南関東州警は25日未明、北関東州との州境で乗用車を発見、助手席に座っていた男性を拘束した。
 男性は発見時に泥酔状態で、州警の聴取には「記憶にない」と答えているという。乗用車はAさんのもので、自動運転可能な燃料電池車。事故現場はナビゲーションエリア内であり、GPSの記録によると、事故後も自動運転可能な幹線道路だけを通り、東北自動車道に入った模様。他方、ドライブレコーダーには、事故直前に車内で成人が争ったと見られる加重移動が記録されており、州警は、事件事故双方の可能性を考慮して、慎重に捜査を進めている。
 乗用車は中国製で、車載コンピュータのOSはLintron-Bの最新ヴァージョン。Lintronは'20年代に開発されたオープンソースの車載OSで、低価格車を中心に、アジア圏で生産される乗用車の22%に搭載されている('43年度)。PL法の適用を避けるため、日本では消費者が購入後に自らインストールする必要がある。今年1月にアップデートされて以来、原因不明の事故が数件報告されており、国土交通省では使用を控えるように勧告を出している。
 州警は、車載OSの解析を急ぐとともに、24日夜のAさんの乗用車の動きを捉えたライフログを保持する可能性がある市民に、データの有償被検索を呼びかけている。ログデバイスの接続先はpolice.region.minamikanto.lg.jp/koukai/lifelog。

■さきたまヘッドライン
■2045年11月25日午後0時17分

 南関東州警かわぐち署は25日午前、東京首都特別州新宿区西荻南2、ジャーナリストの五十嵐貴男(42)を重過失致死罪で逮捕した。
 調べによれば、五十嵐容疑者は、24日夜、電波干渉基準を満たしていない非合法の電子機器を、東京首都特別州荏原区池上1、Aさん(40)の乗用車に運転者の同意なく持ち込み、車載電子ユニットに誤動作を引き起こしてAさんを転落死させた。容疑者は当該機器について、「アキバ萌え街で外国人から購入した、非合法とは知らなかった」と話しているという。
 アキバ萌え街は、今年4月に東京首都特別州千代田区秋葉原にオープンした、アジア最大級の地下テーマパークモール。5万平方メートルの敷地に、昭和末期から平成初期の秋葉原を模したショップや「メイド喫茶」が、雑居ビル風に配置されている。50代以上の懐古型消費者を狙って開設されたが、電磁的著作権法の特区に指定され、クラシックゲームのパッケージや紙媒体の同人誌が手に入ることから、若年層にも人気が拡がっている。アキバ萌え街ではデバイスを切った現金決済が可能なため、非合法機器の売買も多いという。
 五十嵐容疑者には、「イガラシ・タカオ」のペンネームで、『グーグルというカルト』『過防備のファシズム』などの著作がある。25日はかわぐち区内で講演を行う予定だった。

2007.03.30
第23話「12万人の怒れる名無し(3)」小野寺笑男

山出さくらが通り過ぎるすこし前のあらかわ大橋でのこと——。

橋の南端に見知った顔はなかった。背伸びして周囲を見回した。状況は変わらなかった。
遠くに見える人影は別人だ。前後に連結した3台の車椅子を、白衣を着たアジア系の女性が押している。のどか極まりない土曜の午後の道を、ロードノイズとともに自家用車が走り抜けていった。

自転車をガードレールにたてかけ、ななほしを地面に降ろした。

「におい、わかるか?」
聞いてみた。小型犬は首をかしげている。
「においだよ。に・お・い。ご主人さまのにおいの追跡。わっかんねえかなあ」
「わうー?」
ななほしが答えた。おまえが発音しているニオイというモノはおいしいのか、という表情だった。

さて、困った。目の前に座っているのは警察犬ではないし、れいのにおいのついたハンカチがあるわけでもない。そのうえ、ここは橋の上。風の強い場所だ。通り過ぎただけの少女の体臭など残っていなくて当然だった。もともと、ライフサポート犬は飼い主のそばにはりついているものだ。離れたとしても、首筋に埋め込まれた短距離通信チップの有効範囲まで。においを追跡しろといっても、なんのことやら見当もつかないかもしれない。

携帯デバイスで小型犬のチップにアクセスしてみた。
ペット登録番号と飼い主のメールアドレスが判明した。住所や電話番号は公開設定になっていない。ちいさな女の子がいる家ならこれはしかたないだろう。通りすがりの犯罪者に住所を特定され、家にいるところを襲われたらたまったものではない。

迷い犬をあずかっています。
とりあえず、携帯デバイスでメールを打った。

さて、困った。本当に困った。警察に届けたほうがいいのだろうか。万が一を考えればそのほうがいい。しかし、万が一とは具体的になんだ。1万回に一度しか起こらない危険が、平和な街で急に少女に降りかかったりするものなのか? 起きることがあるから万が一だろう。いや、やっぱり警察はだめだ。今日という日に限っては、警察は勘弁してほしい。こっちにはこっちの事情というものがある。

携帯デバイスに表示された時刻は13時を回っていた。
偵察に出てきただけだというのにずいぶんと時間を浪費している。そろそろ自分の仕事に戻らなければならない時間だ。定職というやつについていない人間は、ついていない人間なりに土曜でも忙しい。この寒空の下、少女を捜して自転車をこぎながら、携帯デバイスで作業をするのは避けたい。

警察でなくても、ペット協会かなにかに問い合わせれば、小型犬を家まで送り届けることは可能だった。だけれど、犬を家に送り届けても、少女と犬がはぐれたという情報を家族に伝えることができるだけだ。それならメールで十分である。れいがひとりでどこかに行ってしまった事実は変わらないのだ。いずれにせよ、これから混乱するであろう川口の街に少女を放置するのは心が痛む。

他の何者でもない自分が、その混乱を引き起こすのであれば。

ネットの匿名掲示板と川口・赤羽周辺を舞台に、いま、ひとつの祭りが起きようとしている。
主役は赤羽の精神科医、助演女優が川口のカリスマ主婦だ。エキストラは募集中。撮影監督は街中にあるカメラを制御する機械たち。観客は、ネット経由でカメラと掲示板に張りついているヒマ人ども。そして、演出・脚本、小野寺笑男。

小野寺笑男

もうすぐ、情報の仕込みの段階が終了し、街はカーニヴァル・モードに突入する。カリスマ主婦がマンションの入り口にいたということは、そろそろ本格的にウォッチをはじめなければならない。もとはといえば、彼女が移動に使う道の異変を確かめるために家を出てきたのだから。

爺さんから聞いた、むかしむかしのおいしい御飯の炊きかたにカーニヴァルは似ている。
はじめちょろちょろ中ぱっぱ赤ちゃん泣いてもフタとるな。仕込んで焦らせて、時期がきたら一気にネタを投入するのだ。そうやって、沸点まで一気に温度をあげる。火加減には細心の注意が必要だ。沸騰したらあとは細火でかまわない。無事炊きあがったカーニヴァルは、なにもしなくても勝手に延焼をはじめる。

心を決めた。
ここは、一度家に帰ることにする。携帯デバイスでちまちま検索をかけるよりは、家にある複数の画面を使ったほうが少女を見つける効率もいいだろう。れいは監視カメラに映らない。彼女が行くところ、カメラ映像はブロックノイズの嵐になる。つまり、映らないカメラを探せば彼女は発見できるということだ。

「おまえ。ウチ、来るか?」
「わん」
投げかけた問いにななほしが答えた。肯定のわんか否定のわんかはわからなかった。あるいは、早く主人のところへ連れてけよ下僕、とでも思っているのかもしれない。ビー玉の瞳で下から見上げ、しきりに尻尾を振っている。

小型犬を抱えあげ、籠に入れる。元郷の自宅に向け、ペダルを踏み下ろした。

来週につづく

2007.04.02
第24話「12万人の怒れる名無し(4)」小野寺笑男

ななほしは家の門でにおいを嗅いでいた。
あらかわ大橋から北に自転車を飛ばして15分ほどの場所だ。低層住宅が立ち並ぶ住宅地である。南の空を見上げれば、隣家の屋根のはるか彼方に超高層マンションの勇姿がある。爺さんたちの代が全員あの世に行ったら、このあたりも、アクエスクエアりょうけみたいな超高層ビルをおったててその他を緑地にするという壮大な計画があるらしい。

飽きもせずななほしはにおいを嗅いでいる。あ、しょんべんしやがった。
どうやら、ここを自分の領土にするつもりらしい。

携帯デバイスでドアを開いた。デバイスの表示によれば家は無人だ。父も母も仕事に出ている。そういえば、爺さんはソウルケアハウスに行くと言っていた。研究所勤めの兄はもともと滅多に帰宅しない。

「ただいま」

誰もいない玄関に声をかけた。聞いているのは、家の中のどこかにいる機械たちである。だけれど、機械にとっては、チップが埋め込んである小型犬のほうがよほど話が合う存在かもしれない。ななほしはひくひくと耳を回転させている。彼らが交わす電波の言葉は、人間の耳には届かない。

小型犬を抱きあげた。外に繋いでおいていなくなったりしたら困るからだ。それにしても腹がへった。やきそばの鼻歌を歌いつつ階段を上り、2階のキッチンへ向かう。とりあえずメシだ。人間さまのエサは70年の歴史を誇る日本文化の代表カップ焼きそばでいいとして、犬はなにを食べるのだろう。飼ったことがないのでわからない。

冷蔵庫の表面にはディスプレイ・シートが貼ってある。よくわからないので、ディスプレイの検索窓に「犬用」と入れてみた。実行ボタンを押す。中に入っている食材の製品タグを冷蔵庫は読み取り、食材からできる料理や、足りない食材を見つけだす。女性の声で答えが返ってきた。

「上部ドア、上から3段めにちくわがあります」

ちくわ? ちくわってあのちくわのちくわか? 犬がちくわを食うのか。騙してんじゃねえだろうな、やい、冷蔵庫の中の人よ。といっても、冷蔵庫の検索プログラムはそこまで詳しく説明してくれない。いったい、どこの誰がデータベースの犬の項目にちくわを加えたのだろうか。

しかたないので、冷蔵庫を漁り、取り出してみた。

「わん」
気に入ったようだ。ビー玉大の瞳が輝いている。
本人が気に入ったなら、まあ、いいか。

ポットのお湯でカップ焼きそばをつくり、1階の玄関脇にある自室へ戻った。さすがに犬を抱えているわけにはいかないので、袋に残ったちくわでおびきよせる。
「ついておいで」
元気に尻尾を振っている。ずいぶんとうれしそうだった。

部屋は8畳間だ。三方には窓とクローゼットとベッドがある。残った壁を、8枚のディスプレイ・シートが覆っていた。ベッドの脇にはいくつものリモコンと、中身を飲みきったプラスチックボトルが転がっている。ちょっと前に流行したヘッドアップディスプレイは棚の上で埃を被っている。椅子に腰を下ろしつつ、携帯デバイスをステーションにドッキングさせる。ディスプレイのスイッチが自動的に入った。

キーボードを引っぱり出した。中学生のとき、兄が誕生日にくれたプレゼントだ。DVORAKキーボードという。100を超えるボタンが湾曲した板の上に配列された文字の入力機器である。せいぜい20個しかボタンのない携帯デバイスや変換効率の悪い音声認識に比べれば、圧倒的に入力が速い。ネットにおいてそれは強力極まりない武器となる。だけれど、操作に慣れるのに時間がかかるため、使う人間はほとんどいない。兄が研究職に就かなかったら、自分がこの入力装置に出会うこともなかっただろう。

さて、ここがホームポジションだ。深呼吸した。さっきまでは慣れない家の外にいたからおかしなトラブルに巻き込まれてしまったのだった。
事件の発端は、いつだって事件が起きた場所とは別の場所にある。自分の子を絞め殺して服役した母親も、万引きして捕まった爺さんも、PSPカードの引き落とし先をごまかして警察に踏み込まれた若い男も、皆、事件現場とは違う場所で原因を背負い、犯行の決意をしたのだ。現場にあるのは事件の結果にすぎない。わざわざそこに行くのは、ヒマなウォッチャーか、単なるおせっかいだった。

机の上の空いたスペースにななほしがぴょんと跳びあがる。そこを犬用のホームポジションにすることにしたらしい。ちくわをくわえ、ぼんやりとした光を放つディスプレイを見つめている。

「まあ、待てよ。もうすぐご主人さまを見つけてやるから」

電子情報に囲まれたこの場所が自分にとっての戦いの場だ。
8枚のディスプレイのひとつに、匿名掲示板を立ちあげた。

2007.04.03
第25話「12万人の怒れる名無し(5)」小野寺笑男

掲示板には違う時間が流れている。

リアルな世界と、そのリアルな世界の中にあるネットが、ひとつの世界であることはまちがいない。だけれど、掲示板を流れる時間は早かったり遅かったりすることがある。
どこかの誰かが書き込んだ発言は、電子の符号となり、ネットの中をぐるぐると回遊する。目的地はない。情報流に近いところにいる人間はすぐに書き込みを読むことができるし、遠い人間にはタイムラグが発生する。それがP2Pというシステムだ。もしかしたら、電子と化した情報たちが世界を駆けまわっているあいだに、時空の歪みみたいなものが生じているのかもしれない。

P2P掲示板は匿名ということになっている。
完全な匿名などというものは日本に存在しない。どこの誰がどの発言をしたのか、その気になれば国家権力は特定できる。ただし、ユーザーレベルでの追跡はほぼ不可能だ。そういう意味での匿名である。はるか昔は、個人が管理している匿名掲示板があったのだが、裁判に負けて匿名性が維持できなくなってしまったという。それに代わって発達したのがP2P掲示板だ。このシステムに管理者はいない。プログラムのアップデートがあるだけだ。主催者のいない広間で、人は、日々、仮面舞踏会に興じている。

精神科医のトピックは、注目トピックランキングの上から3番めに表示されていた。

 1.さあて、今日の38度線はっと 第208報
 2.今週の不祥事総合(個別の話題はトピックを立ててください) 101回目の懺悔
 3.前世は犬なのでドッグフードを食え 29

1位の38度線トピックは、朝韓国境の韓国側にいる国境監視団員が書き込んでいるという噂だった。紛争勃発まではいかないものの、中国軍と韓国軍はこのところピリピリしていて、朝鮮半島は妙にキナくさい。もちろん、本当に監視団員が書き込んでいるとは限らない。本当は、日本国内で妄想を膨らませている変人の仕業かもしれない。

 >ヒマです。中野のラーメンが食いたい。早くラーメンとかダウンロードできる時代が来ねーかなー
 >永遠に来ません

返事を書き込んだ。

つづいて不祥事総合トピックを見る。業界3位の自動車メーカーが車載OSの不具合を隠蔽していたそうだ。高速走行中にアンチウイルスソフトのアップデートが始まってさらに電波が切断されると、OSが再起動してエンジンが突然停止するらしい。怖い怖い。そりゃ隠したらまずいでしょう。
この不祥事社長の名は、3年前くらいにどこかの不祥事で見た気がした。検索。出てきた。取締役時代に食品メーカーの不祥事の責任をとって辞職している。不運な人間もいるものだ。とりあえず、トピックにそのことを書きこんだ。

赤羽の精神科医のトピックも調子がいい。丁寧に育ててきただけあってちゃんと注目されていた。
最新の書き込みを見る。

 >カリスマ主婦選手、赤羽に入場です!

タイムラグは1分。いいタイミングだ。別のディスプレイに赤羽周辺のカメラ映像を呼び出した。ついでに、ウインドウのひとつにニュース番組を流しておく。
赤羽アジア街に設置してある公共監視カメラのひとつに、ゆっくりと歩いているカリスマ主婦の横顔が映った。マンションのエントランスで接近遭遇したあと、外出したようだ。家に帰っておいてよかった。カメラの不調も回復している。続々と書き込みが表示された。

 >一見地味ですが、今日の服は勝負服です。カタログはこれ
 >今日も犬医師とセクースですね
 >そんなことないよ。さくらたんは処女なんだから!
 >ところで、さくらたんを擬人化してみました
 >好みです。結婚してください
 >いや、もともと人間だし

さすがヒマ人ども。情報が早い。

書き込んでいるのがどこの誰であるかはわからなかった。赤羽アジア街でヒマをもてあましているコーヒーショップの親父かもしれないし、38度線で監視任務についている隊員が娯楽で書き込んでいるのかもしれない。日本人かどうかだってわからない。他の掲示板と違ってP2P掲示板は多言語自動翻訳化されていないけれど、翻訳ソフトを使えば読み書きに支障はない。世界は広く、ネットは狭い。電子の情報は海底ケーブルを通り電波と化し衛星を経由して、猛吹雪の昭和基地から真夏の太陽がさんさんと照るクリスマス島まで等しく行き渡る。

日本ローカルのさらにローカルの赤羽周辺で起きようとしているカーニヴァルに興味を持つ外国人がいれば、の話だが……。

画面内で起きていることがわかっているのかいないのか、ちくわをくわえたななほしが、興味深そうにカメラ映像に見入っていた。やきそばをすすった。

2007.04.04
第26話「12万人の怒れる名無し(6)」小野寺笑男

その依頼を受けたのは、2045年、夏の暑い盛りのことだった。
突然、1通のメールが舞い込んだ。

previous75と名乗る人物だった。素性はわからない。性別もわからない。調べてみたけれど、Wikipediaに載っていた70年前のドラマがヒットしただけだった。しかしまあ、ネット上の仮名なんてそんなものかもしれない。深い意味を追及するほうがおかしい。

当時世間を騒がせていたのは、4月にオープンしたアキバ萌え街の報道にやらせがあったという話題だった。ニュースが流す映像と、個人が現地で撮った映像の人出がずいぶんと異なっていたのだ。ニュース映像を制作したプロデューサーをやり玉に上げて匿名掲示板は盛り上がっていた。ネットの世論がきっかけとなり1ヵ月後に謝罪会見が開かれたのだがそれはまた別の話である。

このカーニヴァルに主謀者がいると喝破した人物がいた。
それがprevious75だ。見抜いただけでなく、名無しのはずの自分をどうやってか特定してメールを送ってきたのだった。最初は非難されるのだと思った。誹謗中傷で起訴されるのかと背筋が寒くなった。だけれど、previous75はメールで主張した。

できあいの事件をカーニヴァルに仕立てることは簡単なことだ。誰でもできる。それが実力だと思ったら大まちがいだ。勘違いするな。火種のないまったくのゼロの状態から話題を延焼させることはできるのか? それができなければ、おまえは単なる火事場泥棒にすぎない、と。

かちんときた。

もしかすると、それはタチの悪い挑発だったのかもしれない。うまく操られてしまったのかもしれない。いまとなってはどうでもいいことだ。とにかく、11月25日、地元の川口でカーニヴァルを起こしてみせると約束してしまった。成功したら賭け金を払ってやってもいいみたいなこともprevious75は言っていたが断った。お金はいらない。犯罪の片棒を担がされるのも嫌だ。賭博かなんかで儲かるなら勝手に儲けるがいい。そんなもののためにカーニヴァルを起こしているのではない。
生計ならゲームプレイ・ワーキングで立っている。修正。立っているわけではない。両親に扶養されている。ゲームプレイ・ワーキングの収入はこづかいだ。だけれど、もしも自活しようと思えばできないことはない。出世や孫に関しては、真面目でできのいい兄にまかせている。

カーニヴァルを発生させても1円の得にもならない。それが肝心な点だ。PSP番号と監視カメラですべてを記録される身体の世界から離れ、電子情報だけでやりとりするP2P掲示板を選んだのはそのためである。掲示板で延焼が起きて得られるものは、唯一、ココロの充足感のみにすぎない。地位も名誉も金も、なにもない。ただいっとき、多くのヒマ人どもと一緒になって激走する。それだけだった。

匿名掲示板に集う名無しは魚の群れと一緒だ。魚群は、集団を形成しようという意思の下に固まって泳いでいるわけではない。魚にリーダーはいない。階級もない。単に、となりとくっつきすぎないように、離れすぎないように、常に前に進むようにしているだけである。たった3つの簡単な法則だけで魚の群れはできあがる。

昔話に出てくるハーメルンの笛吹きも、そうやって群れを制御していたんじゃないかと思う。伝説では町の外からやってきて子供たちを連れ去ったことになっているけれど、本当は、笛吹きは子供たちの内側にいたのだ。となりの子供とくっつきすぎないように、離れすぎないように、そして、常に前に進むようにしていただけだったのだ。掲示板にいる連中もそれと同じだ。彼らはなにかの役に立つ存在ではない。情報の海の中で、大挙して右往左往するだけなのだ。だからこそ、この国の中でもっとも信頼できる連中だと言えるのだった。

トピックに合わせて発言をしているあいだ、机の上のななほしは飽きもせずディスプレイを眺めていた。
脚を揃えてきちんとお座りしている。偏差値が高いだけあって行儀がいい。ちくわはすでに食べ終わったようだ。

「おまえはなんで急に走り出したんだろうな」
答えない。小型犬は次々に変わる映像を注視している。

表示されているカメラ映像にはリアルタイムのものもあれば古いものもあった。街頭に設置されているカメラでも、記録をさかのぼっていくらでもアクセスできるものや、外部からのアクセスだとリアルタイム画像しか見られないものがある。管理者によって方法はさまざまだ。

赤羽の精神科医が間借りしているビルのカメラは、掲示板で騒ぎが勃発してから公開を止めている。そんなことをしたって周囲のカメラ映像をチェックするから無駄なのだが。騒ぎを起こす前に公開していた映像はローカルでがっちり保存してある。開戦の準備は万端だ。

ななほしが鳴いた。
「わん」
「なんだよ。ちくわはもう品切れだって。焼きそば食うか?」
箸の先にやきそばをぶらさげる。ななほしは鳴きやまない。立ちあがった。4本の足でしっかと踏んばり、小型犬はディスプレイに吠えかけている。この犬に出会ってからは、はじめてのことだ。

視線をずらす。
数あるウインドウのひとつに、小学生くらいの女の子の姿が映っていた。見覚えがある。服が違う。日付を確認。リアルタイムではない。ローカルに撮りためた精神科医のビルの映像だった。

「ちょっと待て」
あわてて逆再生した。

ロリコン精神科医のところになぜ彼女がいるのだろう。いや違う。ロリコンは自分が流したただの噂だ。本当の医師は別に幼女趣味はない。それとも本当に本当の情報だったか。いまやなにが真実なにが嘘かわからない。タイムスタンプは2週間前。カメラに記録された海神れいは、硬い表情で、ビルの入り口をくぐろうとしている。息を飲んだ。箸の先から焼きそばが落ちた。

いったい、彼女は何者で、いま、どこにいるのだろう?

2007.04.05
第27話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(1)」丸田蔵人

パトロール艇が通りすぎた。水しぶきがあがった。青黒く澱んだ川水は、滴となって飛び散るときだけ白く輝いた。

「おい」
「しいっ!」

蛍光ピンクのライフジャケットを身につけた女性がパトロール艇の舳先で周囲に視線を配っていた。ボートのエンジンは停止している。聞こえるのはパトロール艇のエンジン音のみだ。自分と、少女と、ヒゲ面のオープン主義者の3人が小型ボートの狭い床にちぢこまっている。

「……ここにいて見つからないのか?」
問いに、ヒゲの男が答えた。
「光学迷彩シートが張ってあるんだ。向こう側からは葦の生えた水面にしか見えない」
「なるほどな。だからいつまでも捕まらないのか」
「そうだ」ヒゲ男はにやりと笑った。「嬢ちゃん。お父さん、お母さんには内緒にしといてくれよ。競争がなくなって寡占状態になると渡し賃が値上がりするからな」
「お父さんはいない」
「じゃあ、お母さんだけ。爺さんもよろしく」
「年寄りだと思うなら、もっと丁寧に運転しろ」
「爺さん、いくつ?」
「73だ」
「73じゃ年寄りとは言えないな。都合のいいときだけ年寄りのフリをするのはよくない」
「だったら爺さんと呼ぶな!」

パトロール艇が残した泡が水面ではぜ、消えた。エンジンの爆音が遠ざかっていった。息を吐いた。思ったよりだいぶ熱い空気が喉を通り抜ける。驚いた。

携帯デバイスで時刻を確認する。ソウルケアハウスでは、そろそろ小野寺がカウンセリングを終えているところだ。ライフログ発表会はまだ終わっていない。発表会会場の映像を確認したかったが、アクセス記録が残るとあとでまずいことになるかもしれない。我慢した。ヒゲ男が言った。
「15分くらい待ってくれ。そしたら向こう岸まで送るよ」
「15分、だな」

ボートが接岸しているのは荒川の中州だった。オープン主義者たちの居住地だ。赤羽の街と中州は地続きになっているが、川口へ行くにはあらかわ大橋まで戻らねばならない。徒歩だと30分近くかかる距離である。

「まあ、そんなに焦るなよ。ちょっと休もうぜ。キーマンティーでいいならサービスするよ。いい葉っぱを手に入れたんだ」
ボートの上で少女が立ちあがる。
「ここには近づくなと学校で言われているぞ」
「嬢ちゃんが近づいたんじゃない。操縦したのはおれだし、追いかけたのは警備隊だ。不可抗力ってやつだよ」
「なるほど。なら、いい」
少女は、中州へつづく桟橋へと跳び乗った。

「こんなところに子供を上陸させたらいかんだろうが」
「なんでだ。ここは自由の地だ。大人も子供も歓迎だよ。国籍、人種、年齢、男女、ヘテロとホモ、コーヒーが好きか紅茶が好きか、まったく関係ない」
「おまえら、全裸で歩き回ってるんだろう?」
「おいおい。オープン主義をなんだと思ってるんだ? ヌーディストとオープン主義は違う。みんな服を着てるし、日本語だってしゃべるし、2本の足で歩くよ。さあ、降りた降りた」

ヒゲの男にうながされ、合成樹脂製の桟橋に足を乗せる。
「それ、発泡スチロール製の浮き島だから気をつけて」
ぐらっときた。

先に降りた少女は、むきだしの茶色い土の上できょろきょろと見回している。

舗装されていない殺風景な荒れ地に、高さと幅が3メートル、奥行きが5メートルほどの直方体がごろごろと転がっていた。直方体の上には樽型のタンクが乗っている。下には車輪がつき、杭で地面に固定してあった。配色はさまざまだ。自然と調和した迷彩塗装もあれば、原色で派手な模様が描いてあるものもある。20世紀中南米の革命家の顔や、戦闘機や、アニメ調の女の子が描いてあるものもあった。そうしたコンテナ式住居が雑然と並び、あるいは連結し、1/2スケールのミニチュア街みたいな光景をつくりだしているのだった。

痛む腰を伸ばしながら進むと、膝ほどの高さのロボットがすべってきた。人間が見つけやすいようにするためか、てっぺんに旗がついている。ロボットは下生えに近づき、適当な長さにカットして通りすぎた。

「ひとけがないな」
ボートから降りたヒゲの男に声をかける。
「例の事件絡みで、今日は現場の仕事に行ってるやつが多いんだよ。普段はもっといる」
「仕事をしてるのか?」
「あたりまえだろうに。仕事をしないでどうやって生活するんだ。言っとくけど、優秀なプログラマーが揃ってるんだ。ここにミサイルが落ちてみんな死んだら、南関東のシステムの半分は使いものにならなくなるんだぞ」
「ほう。そりゃすごい」
「まったく、どういうプロパガンダに騙されたらそうなるんだか……」
男はぶつぶつと文句を言っている。

そのまま進むと、コンテナに囲まれたちいさな広場に出た。中央に人工的な切り株が据えてある。となりにあるかまどは自然石を組んだものだ。ビニール袋入りの木炭と流木が横に積んであった。切り株には中華包丁がぶっ刺さっていて、先に到着した少女が物珍しそうに切り株をつついていた。

「積層型の木製中華まな板だよ。水に浮くんで便利なんだ」
「せきそうがた?」
ヒゲの男は包丁をひっこ抜き、地面と平行に、切り株に切れ目を入れた。
「いちばん上をはがしてみるといい」
少女は切り株の一番上をめくった。ぺりぺりと音をたてて、まな板の表面が剥離していく。
「わあ」
目を輝かせている。
「便利なものだな」
「こうやって暮らすのもそろそろ半年になるからね。慣れもするよ」

広場の周囲に散らばっている荷物は、ひとつひとつがコンテナ化されていた。これなら流れても安心だし、おそらくタグがついていてすぐに回収できるようになっているのだろう。頭のいい連中だ。聞いていた話とだいぶ違う。宗教にかぶれたやっかいものというよりは、優秀さと奇抜さが突き抜けてしまった変人の集まりのようだった。それは、南関東のシステムをまかされているという言葉からもわかる。

カラフルな住居コンテナのドアが開き、もうひとりの男が出てきた。細い男だ。長い髪を頭の後ろでしっぽのようにくくっている。男は言った。
「お帰り。なんか電波出してる?」
「いや」
「ああ。また妨害か」
「なんなんだ?」
ヒゲの男に聞いてみた。
「市民団体がよく仕掛けてくるんだよ。ここらへんの通信をさせないように妨害電波を出すんだ。邪魔したって、周波数帯変えちゃうから意味ないのにな」
「いろいろと苦労してるんだな」
「まあね」
男は肩をすくめた。

川の真ん中というだけあって、ここは、いくらか空気が湿っているようだった。冬の川風は70を越えた身にこたえる。だが、夏はさぞかし爽快に違いない。これはこれで、悪くない。あと30年遅く生まれていたら選択肢としてないこともなかったかもしれない。気ままなひとり身にはグループホームより合っていそうだ。そんなことを考えた。まあ、ハナさんが中州のコンテナに住むとも思えないが。広場を見やった。一心不乱に中華まな板と格闘していた少女の姿がなかった。

これだから子供は嫌いだ。

2007.04.05
「『ギートステイト』南関東州」(1)
■『地球の歩き方 東京 '45-'46』(EAC版)より
■旅の準備と技術編:コラム:「ギートステイト」南関東州
■(1)

 東京を取り巻くのは「南関東」という別の州である。南関東州は、もし成田や横田から日本に入るのであれば、最初に足を踏み出す州である。横浜、鎌倉、箱根に足を伸ばすのであれば、それもまた南関東州にある。
 とはいえ、多くの観光客はそんなことはまったく意識しないだろう。東京首都特別州から南関東州に入ったことで、州境にゲートがあるわけでもないし、風景ががらりと変わるわけでもない。しかし実は、南関東州は、日本政府の直轄地域である東京とは大きく異なり、この10年ほど、「環境支援型分散民主社会」の実験場として国際的な注目を浴び続けてきた先進的な地域である。このコラムでは、南関東州のそんな側面を紹介しておこう。

 南関東州の面積は1万2339平方キロ(島嶼部除く)。人口は2675万人。日本の州のなかで面積は最小だが、人口は最大で、全人口の4分の1が集中している。在州外国人は300万人を超えており、外国人の比率も東京首都特別州に次いで高い。南関東州は関東平野の南部を占めており、鎌倉のように歴史的な町もあるが、その大部分は東京の郊外として近代に発展した。東京の北に拡がる埼玉、南の神奈川、東の千葉、西の多摩の4つの地域から成っている(行政区分としては伊豆諸島、小笠原諸島も含むが、そちらは性格がまったく異なる地域になっている)。
 南関東州の景色は、遠目ではほかのアジア諸国の郊外とあまり変わらない。古びた超高層マンションが立ち並び、その隙間を公園と低層住宅が埋め、都心から離れるにしたがい田園と場違いなショッピングモール、前世紀の無計画なスプロールの跡が目立つようになり、そのうち住宅地が途切れる。そんな景色は、上海でもソウルでもバンコクでも同じように見られるだろう。
 しかし、列車やタクシーを降り、あるいは観光地を離れ、それら住宅地に足を踏み入れると、おや、と思うことがあるはずだ。
 たとえば、ある街角に携帯飲料の販売機が立ち並んでいる。そこにはいっさいゴミが落ちていない。ところがそこから数十メートル先の道端に、空き缶や空きボトルがずらりと並んでいる。別にゴミ捨て場というわけでもないし、周囲が汚れているわけでもない。それなのに、見えない柵があるかのように空き缶が集中している。
 あるいは、駅に向かって歩いていると、急に前方の歩行者が立ち止まる。周りを見回すとほかにも何人か立ち止まる。たがいに言葉を交わすわけでもなく、それぞれ携帯を開いたり宙を見つめたりする彼らを観察していると、十数分後にそろってまた駅のほうに歩き出す。そして、なにごともなかったかのように改札をくぐっていく。南関東州では、そんな不気味な光景にしばしば出くわすのだ。

 これらは別にカルトの儀式ではない。謎を解く鍵は、南関東州が、世界でもっとも「環境計算機密度」が高い地域であり、人々がたえずネットワークで情報を得ながら生活をしていることにある。
 南関東州では、多くの商品に付いているEANタグの余白部分を利用し、資源ゴミとして回収可能な商品には購入者のIDを記録している。コンビニも自販機も現金決済を受け付けないので、飲料を買えば自動的に自分のIDが記録されることになる。飲み終わったあと、空き缶をリサイクルボックスに入れれば購入金額の一部が返金されるが、逆に道端や公園に捨てると警告のメールが来る。
 ところがこの制度には弱点がある。もともとEANタグはそのような用途を目的としていないので、小型で安価なタグが使われている場合には、環境からの電波が届かないと購入者情報が消えてしまう。市街地のほとんどでは、電信柱や防犯灯、あるいは近隣の住宅からたえず電波が届いているが、ちょっと郊外に行くとやはり死角はある。そんな「ダムタグ」と「電盲」の情報はネットで公開されていて、簡単な設定で携帯デバイスに送られてくる。そこで怠惰な人々は、携帯の指示にしたがって、電波が届かない場所を見つけてはゴミを投棄するわけだ。この問題は、最近ネットで大きな議論を呼び、政策論争の焦点にもなっている。

 また南関東州では、交通渋滞やラッシュの回避のため、アジアではまだめずらしい「個人単位での交通変動料金制」が実施されている。乗用車の移動経路をGPSを使って記録し、有料道路の走行に時間帯によって異なる料金を適用したり、あるいはラッシュ時の電車やバスの運賃を高額にして交通量を制御することは世界中で行われているが、南関東州ではその管理が一段と進んでいる。
 この州では、自動車の利用時だけではなく歩行時や公共交通機関の利用時にも、多くの市民がリアルタイムで位置情報を交通管理サービス企業に提供している。位置情報の提供を拒否することもできるが、その場合には有料道路や交通機関の利用が煩雑になるし、なによりも料金がたいへん割高になる(南関東州を訪れた外国人観光客はたいてい高額な地下鉄やタクシーに驚くことになるが、その理由はここにある)。管理サービスは、その情報を用いて数分先、数十分先の交通量を予測し、交通料金を設定し、さらには今後の変動幅も予想し、その結果をリアルタイムでユーザーに送り返している。料金や変動幅は、各人の移動状況、生活状況、タイムシフトへの協力履歴などによっても大きく異なる。そしてユーザーは、デバイスに表示される「カスタマイズされた」交通料金と変動予想を眺めながら、目的地への経路をリアルタイムでアレンジする。類似の制度は、ロンドン、シアトル、ドバイ、シンガポールなどで実現しているが、大東京圏を覆う南関東州のサービスは、人口的にも面積的にも世界最大規模を誇る。
 実際に利用するとわかるが、この制度はまるで株式市場のように機能する。たとえば地下鉄に近づいていくとする。同じ行動を取り、それぞれの行動履歴から同じ方向に行くと推測されるユーザーが周囲にたくさんいると、運賃が上昇する。そこでユーザーの一部は立ち止まったり、別の駅に向かったりする。すると運賃が低下する。むろん、変動の単位は数十円、ときには数円でしかないが、それでも節約したい人々はたくさんいる。結果として混雑は回避される。そうやって、上記のような光景が生まれるわけだ。

2007.04.06
第28話「古本2045(2)」名も無い男

「どうだ。他になにかおもしろいものはあった?」
古本屋の声がした。顔をあげた。

一冊の雑誌を読んでいたところだった。はるか40年もの昔、好き勝手に想像された未来世界の記事である。そこには、子供がいて、大人がいて、大人を通りすぎた老人がいて、それとは別に変な宗教にハマっている連中がいて、一生懸命働いている人間がいて、そして、自分と同じようなホームレスがいた。

悪くはないが、パラダイスでもなかった。

子供の頃、想像した未来がある。小学校に通っていたときのことだ。空中を走るパイプ、空飛ぶ車に空飛ぶ戦艦。絵描き帳に描いたら同級生に馬鹿にされた。その頃は、たしか、ビームでできた剣を振り回すスマートなロボットが流行っていた。

中学に入る頃には未来を悲観するようになっていた。1999年7の月に世界は終末を迎えるはずだった。そう思ってテロに走った連中もいた。だけれど、そんな破滅は起きず、いくつかの宗教団体が集団自殺を起こした程度だった。最近は2049年危機説というのが広まっている。きっとなにも起きない。

天国と地獄。成功と破滅。どちらかの未来が来るとばかり思っていたのだけれど、気づくと世界は二元論でなんとかできるようなものではなくなっていた。正義も中途半端で、悪も中途半端だ。誰もがちょっとずつ正と負を内包しており、しかもそれらはパスタのごとく複雑に絡みあっている。鉄をもすっぱりと斬る日本刀を持ってきたからといって2つにできるものではなかった。

不惑を迎える頃、空飛ぶ車やパイプは実現した。たしかに実物になった。頭の上にあるプロペラで空を自由に飛ぶことすらできた。だけれど、実現したからといってそれは実現しただけで、使い勝手の悪い道具を皆が日常の道具とすることはなかった。わざわざ空中にパイプを通したり、ビルの中心を貫いて列車を走らせるのは非効率的だ。

いま着ている服だって、子供の頃読んだ絵本に乗っていた銀色の服と性能は変わらない。見かけは普通の生地だけれど、編み込まれた光触媒繊維は、汗を吸い皮脂を水とガスに分解してしまう。現金を使う人間はいない。カードがなければ買い物はできない。子供の想像よりも、人類の科学ははるか先に進んでいる。

荒川の河川敷は薄緑色の芝生に覆われていた。水辺の近くで、枯れた葦が黄土色のカーテンをつくっている。夏に人間の背丈以上あったそれは、いまは肩ほどの高さになり、ブルーのシートで覆った粗末なテントがところどころ姿を現していた。周囲は堤防で囲まれ、視界は狭い。まるで空の底にいるようだ。ここでは、水も、それ以外のものも、上流から下流へとただ流れていくことしかできないのだった。

荒涼たる風景とはこういうもののことを言うのだろう。

世界の終わりというのは、もしかすると、天から隕石が降ってきて地球上に住むすべての生物が一度に爆死するとかではないのかもしれない。この荒川沿いのような茫漠たる場所を指す言葉なのかもしれない。別に希望がないわけではないが、かといって絶望もないわけではない。他のすべてのことと同じように、両者は中途半端に絡み合っている。そうして、時間とも思えぬ時間がただ経過していく。白かった紙が黄ばみ、表紙が傷んで、端がぼろぼろと崩れていくように、人はゆっくりと腐っていく。

目の前にあるのは、紙に書かれた記憶たちだ。
かつて、それが本当にあったことだと紙は主張しているけれど、本当にあったことなのかは誰も知らない。人類は、1000年ものむかしから、荒川の川べりで古本を整理しつづけているのかもしれない。そんな気さえする。

老齢期を迎えた脳の記憶は信用できない。いくら探しても、自分がつくった雑誌は見つからなかった。以前は、若者向けエンターテインメント誌の編集をしていたことがある気がする。だが見つからない。その頃すでに斜陽産業だったが、会社は依然として一流企業で、一流大学出しか採用しなかった。給料も良かった。当時つきあっていた女もいた気がする。怖がりで、怖がりで、本当に怖がりな女だった。他人という存在があまりにも怖いから、いつも誰かを罠にかけ、自分より先に破滅させようとしていた。そういうところがかわいい女だった。子供を欲しがるような発言を聞いた気もするが、本心ではないとふたりともわかっていた。

これは、自分の妄想にすぎないのかもしれないし。別の誰かの妄想なのかもしれない。小山を成すこの本たちを、かつての持ち主だという学者がすべて読破し記憶していたのだとすれば、この山は、彼の記憶そのものなのかもしれない。ある意味、それは、世界とも言えるものだ。

汗が流れる。目に入った。
どれほど、文明が進歩しても、額から流れる汗を食いとめるのは自前の眉だけだった。

2007.04.06
「『ギートステイト』南関東州」(2)
■『地球の歩き方 東京 '45-'46』(EAC版)より
■旅の準備と技術編:コラム:「ギートステイト」南関東州
■(2)

 ところで、南関東州では、上記のような複雑なゴミ管理や交通規制は行政や法令で定められているものではない。それどころか、南関東州では、いわゆる「役所」はほとんどなにもしていない。道路や公園の維持管理から教育、福利厚生、社会保障、さらには警察機能の一部まで、ほかの国では公的な機関が担当している業務の多くが、この州では民営化され、州や自治体の手を離れている。州庁や市役所には限られた仕事しかなく、州議会や市議会も形式的な存在にすぎず、地方税も安い(どうしてそんなことになってしまったのかは、半世紀前にまで遡って日本史を辿る必要があるので、ここでは説明を控えることにする)。
 かわりに南関東州の市民生活で欠かせない存在になっているのが、「公共サービスプラットフォーム」、略して「PSP」と呼ばれる組織である。

 PSPとはなんだろうか。辞書を調べると、「リバタリアンな分散民主主義社会で自生的に生まれた擬似政治体の総称」とあって、難しそうな感じだ。私たちの社会では、あまり親しみのない言葉でもある。
 しかし、本質は単純だ。分散民主主義が浸透し公共部門の市場化が進むと、ひとつの地域のなかで、異なったサービスが異なった企業によって、あるいはひとつのサービスが複数の企業によって提供されるようになる。たとえば、同じ市内でも、図書館の運営企業が保健所の運営企業と異なるようになるし、救急車も複数の企業が走らせるようになる。それはサービス向上にはいいかもしれないが、住民からすれば、図書館のユーザー登録と保健所のユーザー登録を別々に行い、救急車を呼ぶときにいちいち会員証を出さねばならないようでは、煩雑で生活できない。そこで、複雑な企業間競争をブラックボックス化し、住民から煩雑さを取り除いてくれる上位のサービスが発達することになる。それがPSPだ。
 PSPを介することで、住民は、単一の組織(国家)が行政を独占していたときと同じように、同一の地域では同一の認証によって多様なサービスが受けられるようになる。つまり、統一のIDで、図書館も保健所も救急車も利用できるようになる。
 PSPは日本だけではなく、アメリカやEUでも発達している。PSPは株式会社の場合もあればNPOの場合もあるが、いずれにせよ、巨大化したPSPは、住民の詳細な個人情報を蓄積し、マイレージポイントの循環で独自の経済圏を産みだし、地域社会に大きな影響力をもつことになる。南関東州でもその傾向は進んでおり、それに加えて、日本社会を特徴づける高密度なユビキタスコンピューティング環境が、この州のPSPの機能をとりわけきめ細かいものにしている。南関東州では、PSPのエンタイトルメント・デバイス、通称「PSPカード」がなければ(多くの場合はカードの形態をしていないが、日本ではなぜかそう呼ばれている)、ゴミも出せないし、地下鉄にも乗れないし、自動販売機も利用できない(あるいは高くつく)。そのかわりに、PSPは住民生活の実態とニーズをきわめて高い精度で把握し、サービス提供企業との取引内容を日々更新することで、住民生活の向上に務めている。
 そんなPSPは、しばしば「新しい福祉国家」とも揶揄される。実際、いまだ古いタイプの国家に生きる私たちからすると、国家の機能縮小に邁進してきたネオリベラル社会の直中から、PSPのような組織がふたたび生まれてきたことは、たいへん皮肉なことのように思える。

 外国人旅行者は、PSPカードを入手できる(PSPのエンタイトルメントIDをデバイスにダウンロードできる)のだろうか。結論から言うと可能だ。標準的な携帯デバイスとライフログサービスのIDをもっていれば、成田でも横田でも簡単に手続きを済ませることができる。東京首都特別州に入ってしまうといささか厄介になるので、南関東州を訪れる予定があるひとは、空港で入手しておくことをお勧めする。
 とはいえ、PSPカードを入手すると、南関東州に入境したとたんに位置情報や購買履歴の被検索が始まり、携帯デバイスに情報が続々と送られてくることになる。個人情報の拡散はひとにとっては不愉快かもしれないし、送られてくる情報のほとんどは短期滞在者には意味がない。したがって、多少の不便とコストを我慢して、IDなしで旅行するという選択もあるだろう。それはそれで、住民には見えない南関東州の「不便さ」が発見できておもしろいかもしれない。
 南関東州には、有力なPSPが5つ存在する。PSPは地域単位の組織なので、原則的には成田で登録すれば成田を範囲とするPSPの、横田で登録すれば横田のPSPのカードが発行される。しかし、もし登録先のPSPを選ぶことができ、1週間以上南関東州に滞在する予定があり、かつ多少の経済的な余裕があるのであれば、埼玉南部をサービス領域とする「さいたまパブリックホールディングス」(SPH)に登録すると、興味深い経験ができる。
 SPHは、100以上の公共サービス企業を傘下に収めた特殊な持ち株会社であり、PSPカードは同時に同社の株券にもなっている。SPHのPSPカードの保持者は、行動履歴の送付を通じてだけではなく、一定の条件をクリアすると(その最低ランクでの必要条件が1週間以上の滞在である)、細かな案件ごとに常時オンラインで開かれている株主総会の伝播型匿名投票を通じて、議決権を行使することができる。むろん、短期滞在者の行使できる権利は限られているが、SPHの運営に関わるとは、実質的には埼玉南部の行政に参加するということなので、普通の国ならば旅行者には決して開かれていない経験が味わえる。南関東州のような実験社会ならではの、「オープン」で「リバタリアン」な政治システムの不思議さを、ぜひ垣間見てほしい。

2007.04.23
3rdターンまでのかんたんなあらすじ。

2045年11月のある日。
小野寺笑男(おのでらえみお)は、ひとつの計画を実行に移そうとしていました。

彼は、街のいたるところに設置してある監視カメラの映像をよく覗き見します。そうやって得た情報をもとに、ネットの匿名掲示板でカーニヴァルを起こすのです。今回のターゲットは、赤羽の精神科医と川口のカリスマ主婦。掲示板の情報に右往左往する現実世界の人々を、カメラ映像を通して見るのが趣味という、笑男くんは、ちょっとばかり困った趣味を持つ青年なのでした。

その日は、同時に、世界にあるすべての暗号が解放されるという噂の日でもありました。嘘か真か、今日という日、数学者の理論に基づいたプログラムがネットワーク上にばらまかれるとニュース番組が騒いでいます。本当なら、世界中の街が大混乱になるはずです。

高齢者が集うソウルケアハウスに住む丸田蔵人は、混乱に乗じて、恋敵であるところの笑男の祖父・小野寺明を殺害するつもりです。川口のカリスマ主婦山出さくらも黙ってはいません。この混乱をうまく利用することができれば、もっと名をあげることができると野心を抱いています。なにやら秘密を持っているらしい少女、海神れいは、行く先々を混乱に巻き込みながら兄の研究所を目指します。

そんなことが進行しつつも、南関東州かわぐちの街は、表向き、平静を保っていました。

そのとき、川口元郷の駅にひとりの老人が降り立ちます。名前は古渡一郎。彼が、すべての事件の裏で糸を引く人物であることは、川口の住人は誰も知りません。

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2007.04.23
第29話「セキュリティの静止する日(2)」古渡一郎

川口元郷のコンビニエンスストアだった。

「現金? あ、ええと、使えるよ。たぶん」

若い店員だ。言葉遣いがなってない。注意してやろうかとも思ったが、やめることにした。いまの若者は、70過ぎの老境に入った男になにを言われても聞きはすまい。読み取り機の上に1万円札を置いた。店員が目を剥いた。
「え? これ……なんすか? はあ、いちまんえんさつ。これが? 本物? 紙に絵が印刷してあるだけなのに? ああ、ごめんごめん。疑ってるわけじゃないんだよ。はじめて見たもんだからさ」
店員が1万円札を手に取った。照明に透かしたり、ぴんと伸ばしてみたり、指ではじいたり、興味津々ようだ。

ただ、残念ながら、どれほど丹念に調べようとも彼に1万円札の真贋は判定できないだろう。オリンピック選手が金メダルを噛んでみせるようなものだ。混ぜもののある金を噛めば、むかしの人間は、硬度の違いからそれを察知することができた。だが、オリンピックの選手にはわからない。偽の金メダルも真の金メダルも、等しく金メダルの噛み心地がするだろう。同じように、店員にも1万円札の違いはわからない。彼が手にしているのは本物ではあるが……。

満足のいくまで札をいじりまわすと、店員は、危なっかしい手つきでレジに数字を打ち込んだ。
ピーという電子音が鳴った。
「おっかしいな。エラーだ。ちょっと待っててください」
レジのポインティングデバイスを操作する。彼に向いている小さな画面に、店員と同じ制服を着たアニメ絵の女性が表示された。ふきだしに文字が書いてある。「高額紙幣を扱うときは、レジのキーを打ったあと、専用の機械で紙幣に埋めこまれているICの読み取りチェックします。読み取り機の使用にはPSPカードによる本人認証が必要です」だそうだ。

店員は、まばらに伸びたあごひげをいじった。
「すんません。奥にいる店長にキカイがどこにあるか聞いてくるんで、ちょっと待っててくれます?」
「いや、いいよ。そこまでしなくても」
「はあ」
「これでお願いする。無理を言ってすまなかったな」

PSPカードを取り出した。1万円札の代わりに読み取り機にあてると、短い電子音が鳴って清算が終了する。一瞬のことだった。レジの機械は、PSPカード内部に書かれた個人情報を読み取り、レジを操作する店員の個人情報、店や商品の情報とセットにして圧縮、暗号化、さいたまパブリックホールディングスへと問い合わせを行う。さいたまパブリックホールディングスにあるコンピュータは、情報を記録し、指定口座から金額を引き落とす、あるいは個人が契約しているクレジット会社にさらに問い合わせを行う。そうして返ってきた承認をもとに、レジの機械は、カウンター上の商品に埋め込まれているICチップに持ち主情報を書き込むのだ。利用者にはなんの手間もない。PSPカードでタッチするだけで、商品の所有権は店から客へと移るのだった。

カウンターの上に置いてあった缶コーヒーを手に取り、店をあとにした。自動ドアをくぐると、11月の空気が頬を刺した。背後で、店員の若者が、なんだよ持ってるなら最初から使えばいいじゃんとぼやくのが聞こえた。

ナイル川のほとりでピラミッドを建設していた頃、労働者は、3斤のパンと甕2杯分のエールを一日の給金として受け取っていたという。古代のパピルスに書いてある。食べ物が十分に社会に行き渡るようになると、人は、持ち運びに不便な穀物そのものではなく、工業的な過程を経てつくられた通貨を使って税を納め、労働の対価を支払うようになった。20世紀の公共事業の日当は通貨だった。穀物ではない。コインや紙幣を得るために、労働者はダムをつくり、道をつくった。

そしていま、先進国においては、工業製品も十分に人に行き渡るようになった。モノは、好きなときにいつでも所有し、使うことができる。苦労して手に入れる必要はない。いつのまにか、人はモノに価値を感じなくなったのだ。そうして人は、電子情報によって税を払い、給料を貰い、日々の支払いをするようになった。いまや、肉体労働者のとっぱらいすらも目に見えぬ数字でやりとりされる。人間は、食べ物の価値を喪い、工業製品の価値を喪い、さらには身体の価値までも喪おうとしているのだった。

貨幣がつくられ、食べ物が通貨としての価値を喪ったとき、当時の人々は同じ空しさを感じていたのだろうか。そんなことを考えることがある。このまま社会が進歩していけば、いずれは電子情報も価値を喪うに違いない。いずれ、人が税として納め、労働の対価として得るのは、喜びや悲しみといった感情そのものになるのかもしれなかった。

缶コーヒーをあけた。冷たい風に熱いコーヒーが沁みた。

川口元郷の駅前は30年前と変わらず殺風景だった。この地に来たのは30年ぶりのことだが、殺風景だという記憶だけは鮮明だ。地下鉄の出口横のロータリーは、あのときもがらんとしていた。駅前交番には人がいたような気がするが、いまは無人だ。昔は郵便局だったところがコンビニエンスストアになっている。縮小された郵便サービスは、コンビニエンスストアの横に間借りするような形で事務所を置いている。

すぐそばの幹線道路を、ロードノイズと風切り音とともに車が行き交っている。流れに乗って、あらかわ大橋方面から1台の自転車がやってきて、そして、通り過ぎていった。ペダルをこいでいたのは見覚えのある青年だ。直接目で見たことはないが外見は知っている。名前もわかる。小野寺笑男だ。向こうはこちらに気づいていない。存在すら知らないだろう。自分はただの老人にしか見えない。

自分の存在と、仕事を依頼したprevious75が彼の中で繋がることはないはずだった。

2007.04.24
第30話「セキュリティの静止する日(3)」古渡一郎

自転車にまたがった小野寺笑男の後ろ姿がちいさくなっていく。「わん」。なぜか犬の声がした。

もともと笑男の存在を知っていたわけではなかった。ずいぶんとむかし、彼の祖父である明と知り合いだったのだ。孫だというのは名前からわかった。明の孫である彼が、ネットでなにをやっているかは偶然知った。それで、使えると思っただけのことだ。他意はない。あくまでも偶然だ。

自分は子供をつくらなかった。が、もしも血が受け継がれていたとしたら、彼くらいの年齢の孫がいてもおかしくなかった。調べてすぐわかったが、笑男は、定職にもつかずふらふらしているらしい。いま流行りのギートというやつである。古渡の血を継ぐ孫はギートにはならなかっただろう。

笑男の背中はもはや小さな点だ。手前の道路を音もなく自動車が横切る。赤い車が過ぎ去ったあとは、自転車をこぐ青年の姿は背景に溶けこんで見えなくなっていた。

缶コーヒーを飲み干し、領家にある研究所に向かって歩き出した。周囲にゴミ箱はない。仕方なく持っていくことにする。研究所のすぐそばを通る新都市交通システムを使わなかったのは人目を避けるためだ。昼間の地下鉄出口は予想どおり人がすくない。これなら、尾行がつけばすぐにわかる。

歩いていると、歩道の一角に、林立するプラスチックボトルを見つけた。全部で12本ある。どうやら捨てられているようだ。東南アジアかもしくはもうすこし南の島国からやって来たらしき若者が3人、ボトルの林の横で興奮気味に会話していた。地球の歩き方でも見てきたのだろう。

南関東州では、たしか、プラスチックボトルを1本資源処理用のゴミ箱に捨てると2円のキャッシュバックがある。12本なら24円だ。一般の人間にとっては、24円はかがんで拾う行為の代償にすらならない。ゴミを持ち運ぶだけでそれ以上のコストがかかると本人たちは考えているのだ。こうしたゴミはホームレスが回収しているとも聞く。嘆かわしい。民度も地に落ちたものだった。

「つかぬことをお願いいたしますが、写真を撮ってくれませんか?」

空き缶を手にそばを通り抜けようとすると、馬鹿丁寧な言葉遣いで話しかけられた。日本語だ。コンビニの店員よりよほどしっかりした口調だった。視線を向けた。どうやら海外からの観光客らしい。派手なアニメ絵がプリントされたシャツに、大きなバックパックを背負った男が立っていた。なにが楽しいのか、3人とも笑みを浮かべている。浅黒い肌の中に白い歯が目立った。

「写真です。お願いできますか?」
ひとりの若者が言った。カメラを受け取る。観光客らしき若者たちは、プラスチックボトルの横に座ってピースサインを出した。たしかヤンキー座りとかいう座りかただ。打ち捨てられたボトルといい、若者たちの仕草といい、日本の恥ではないか。まったく嘆かわしい。シャッターを押した。しかしなんでこんななにもないところに観光など来たのだろうか……。
つぶやいた言葉をカメラを兼ねた携帯デバイスのマイクが拾いあげる。

「Pourquoi êtes-vous venu à un tel endroit comme ici ?」

若者たちは満面の笑みを浮かべて答えた。
「セイチジュンレイです!」

なぜ川口が聖地なのか。自動翻訳システムがまちがえたのならともかく、彼らが直接発した言葉だ。なにかのスラングなのか。カメラが翻訳してしゃべったのはおそらくフランス語だ。日本人が、早口で、あるいは複雑な日本語でしゃべったときに補助として使うのだろう。彼らの行動は理解不能だ。
かろうじてわかるのは、日本人にとって屈辱的なものたちを、外国人の彼らが大切に思っているらしいということだった。若者たちは何度も頭を下げ、興奮気味に話しながら去っていった。

シャッターを押した右手がやけに疲れていた。
むかしはこんな風景はなかった。たしかに、道端にゴミを捨てる不埓な者はいた。しかし、むかしはもっと堂々と捨てていたはずだ。機械の目を盗み、こそこそと放棄するようなことはしなかった。いまや、ゴミ捨ても機械に管理される世の中なのである。彼らはみずからの意思でここにゴミを捨てているつもりなのだろうが、それも怪しいものだ。電波の届かない場所はホームレスが巡回するのに適した配置になっているのかもしれないのだから。ゆりかごから墓場まで管理される社会を考えた過去の偉人も、まさか、ゴミをポイ捨てする場所すら人の決定権が及ばぬ社会がやってくるとは夢にも思わなかっただろう。

もしかすると、日本という国では、気づかぬうちに革命が起きていたのかもしれない。団塊の世代と呼ばれる人々が起こそうと夢みた革命だ。自分にとっては親の世代にあたる。団塊の彼らが起こした社会運動から75年の時がたち、彼らとまったく関係ないところで、彼らの予想もつかない形で、革命は実現したのかもしれない。ふいに、そう思った。

ヘルメットを被りゲバ棒をふりまわしていた奴等はなにも革命できなかった。変えたのは、長髪でギターを鳴らし、セックスばかりしていた連中のほうだ。彼らがつくったフォークソングとアニメーションはこの国のありかたを変えた。言葉を変え、風俗を変え、人々の考えかたを変えた。その結果が、荒涼たる川口元郷の景色であり、道路の脇に固まったプラスチックボトルなのだった。

団塊の世代のほとんどは鬼籍に入った。延命治療技術の恩恵をぎりぎり受けられなかった世代である。彼らが革命の結果を見ずにあの世へ行ったのは幸せなことだと思う。

この国は本当にだめになった。
美しさのかけらもない。これほど薄汚れた国は、一度、解体する以外に道はないだろう。

2007.04.25
「『ギートステイト』南関東州」(3)
■『地球の歩き方 東京 '45-'46』(EAC版)より
■旅の準備と技術編:コラム:「ギートステイト」南関東州
■(3)

 南関東州の住民の多くは、そんな先進的な社会制度のなかでも、私たちとほとんど変わらない生活を送っている。しかし、なかにはやはり、南関東州独自の政治環境と計算機環境を存分に活かし、ほかの国ではなかなか見られない「先進的」なライフスタイルを選んだ人々もいる。旅行者の行動範囲では限界もあるけれど、そんな人々に会える場所をご紹介しよう。
 ひとつは、つくばエクスプレス沿線のギートマンション、もうひとつは、東京首都特別州との境界にあるオープン主義者のコミュニティだ。

 読者の多くは、東京観光の一環で秋葉原を訪れるのではないかと思う。秋葉原は、いまから半世紀ほどまえ、日本独自の発展を遂げた映像系エンターテインメント産業の中心地で、古い世代の「アニメ」マニアやゲームマニアには聖地として位置づけられている。もともと少なからぬ観光客が訪れる街だったが、今年4月に、2000年代初頭に日本で流行した「萌え」スタイルを採用した巨大なテーマパークモール、「アキバ萌え街」がオープンし、いっそう多くの観光客を集めるようになった(詳しくは「秋葉原・神田・上野エリア」の項目参照)。
 そんな秋葉原には「つくばエクスプレス」(TX)という鉄道が走っている。TXは東京駅を起点として、南関東州を走り抜け、茨城空港を通って北関東州の水戸市に至る鉄道路線だ。
 TXは'05年に開業し、当初は東京駅と水戸ではなく、秋葉原と北関東州にある大学都市、つくばのあいだを結んでいた。一方の秋葉原はエンターテインメントの中心地で、他方のつくばは理工系学生が多い大学都市。しかも、開業当初は、東京周辺のほかの地域に較べて、便利なわりに地価が安かった。そのためTX沿線は、'10年代に入ると、小さなゲーム制作会社やスタジオが集中し、若い世代のコンピュータマニアやゲームマニアが数多く住み、街のあちこちに「萌え」スタイルの広告やポスターが散見される、独特な地域として発達することとなった。
 そして'30年代には、そこにアジア人ギートが流入することになった。南関東州は、日本のほかの州に先駆け、'20年代後半に外国人労働者の居住資格を大幅に緩和した。そのため、'20年に73万人だった外国人登録者数は、'44年には325万人にまで急増している。そして、その過程で大きな役割を果たしたのが、'33年に始まった外国人ギートの受け入れだった。

 多少硬い話になるが、背景を説明しておこう。いまでこそギートはひとつのライフスタイルとして広く受け入れられているが、'30年代には、世界各地で、ギートの急増が深刻な社会問題と見なされていた。なかでもアジア圏では反発が強く、中国は'34年に領域内からのゲームプレイ・ワーキング・プラットフォームへのアクセスを禁じ、いくつかの国がそれに追随した。
 そのようななか、南関東州は'34年に、ゲームプレイ・ワーキングの参加者を「単純知的労働者」として認定し、雇用関係がなくてもオンラインの労働実績に応じて就労ビザを発行するという大胆かつ先駆的な政策を打ち出した。その背後には、'20年代以降衰退の一途を辿り、何としても巻き返しを図りたかったコンテンツ関連産業のロビー活動があったとも、また、分散民主主義の実験を推進する某大手情報企業の暗躍があったとも言われる。いずれにせよ、この政策は、当時「知的難民」化しつつあったアジア圏のギートを惹きつけ、熱狂的な支持を集めることになった。'33年から'43年までの10年間で、同州の在住外国人は200万人以上増加しているが、そのうち約4割はギートだと推測されている。実に、毎年10万人近いギートが南関東州に流れてきたのだ。同州が「ギートステイト」と呼ばれる所以である。
 '30年代から'40年代にかけて流入した、彼ら「ガイジンギート」の多くは、ゲームプレイ・ワーキングで生活を支えられるものの、基本的には金もなければ職もない、20代の単身者だった。そんな彼らは自然と、相対的に生活費が安く、今世紀に開発された住宅地のため適度に便利かつ快適で、コンピュータマニアやゲームマニアが暮らしやすいように進化してきたTX沿線に集まることになった。同じ理由で、この地域には日本人のギートも多く住んでいる。そうやって、「ギートステイト」南関東州のなかでもとりわけギートの比率が高く、それも日本人以外のギートの比率が高い、現在のTX沿線地域が形成されることになった。
 むろん、TX沿線にはギート以外の市民も数多く居住している。むしろ、人口としてはそちらのほうが多数だ。しかし、ギートが集まっているという事実は、やはり町並みに独特の空気を与えている。そして、この沿線にギートが集まっていることは、不動産業者が提供しているさまざまな指標によって(日本では、居住者の雇用状況や所得を反映した住宅地図を公開することは法律で禁止されている)、南関東州では広く知られている。ギートといえばTX、TXといえばギート、とそんな連想が働く地域なのだ。

 それでは、そんなつくばエクスプレスに乗って、南関東州のギートの生活を覗きに行ってみよう。目的地は、秋葉原から約30分の「かしわのは」駅だ。
 かしわのは駅西口には、40年前に建設されたショッピングモールが隣接している。建築当時には開放的な空間だったはずだが、その後の劣化と度重なる増改築によって、いまでは内部はちょっとした迷宮のようになっている。駅を出て、そんなモールを横断し、反対側の出口から出ると、交差点の向かいに巨大なジオデシック・ドームが目に入る。そこで左手に目を遣ると、ドームと隣接して、こちらも30年以上は経っていそうな古びた高層マンションが2棟目に入るだろう。
 その背の低いほうが、居住者の3分の2以上がギートだと言われる、南関東州でもめずらしい住宅棟、通称「ギートマンション」だ。一見何の変哲もないマンションだが、ギート絡みの大きな犯罪が起こると、アジア圏ではたいてい資料映像として流れる建築物なので、どことなく記憶にある読者が多いかもしれない(住民が抗議しているため、日本に登録されたメディアのサイトでは流れない)。旅行案内では紹介されないが、実はひそかに有名な場所なのである。

2007.04.25
第31話「セキュリティの静止する日(4)」古渡一郎

海神結というひとりの数学者が、ゲームプレイ・ワーキングを下敷きにした理論を発表したのが発端だった。

ゲームプレイ・ワーキングは、仕事を数学的に変換し、数学的に圧縮して、ゲームという小問題に分割する。利用者は、ゲームをしているだけで仕事をしたことになる。ネットワークとコンピュータの普及がもたらした21世紀の労働革命である。詳しく知りたい人間はWikipediaでも見るといい。どこかにいるヒマ人が懇切丁寧に説明しているはずだ。

海神が考え出した暗号解読の手法も同じだ。暗号解読の作業を圧縮・分割する際に、ネットトポロジーと通信遅延を活用して、多項式時間判定濃度を下げる。カネコ解析の応用のひとつである。海神の理論は、暗号解読の革命と言えた。

もともと、暗号は破られるものだ。

マシンパワーの発展によって、完全無欠と呼ばれた暗号はいままでも常に破られてきた。そのたびに、人類はさらに複雑な暗号を編み出し、綻びたセキュリティに継ぎ接ぎをあてた。いたちごっこなのは、暗号を提供する側も破る側もわかっていた。抜きつ抜かれつの状態が暗号の命を繋いでいたと言っていいだろう。海神理論のまずいところは、ネットに繋がったコンピュータがある限り、暗号解読のいたちごっこが、破る側の勝利に終わる可能性があるということだった。なにしろ暗号を生成するのがコンピュータなら、解読するのもコンピュータ。どちらも同じ機材を使っていて、同じ程度に複雑な計算処理ができるのだ。

理論は完成し、発表された。あとは結果がどうなるかを見るしかない。たとえいま海神結を暗殺したからといって、理論に基づいたプログラムを他の誰かがかならずつくってしまう。セキュリティの死刑宣告はすでに出た。あとは、どれほど死ぬかの問題にすぎない。

海神の理論がもたらす現実への効果は限定的だと主張する者もいる。あるいは、全世界に遍在し相互接続しているコンピュータの繋ぎかたを劇的に変えねば、もはや人類は、ひとつの暗号では1週間足らずしか安心を得ることができなくなる時代が来るのだと主張する者もいる。どちらが本当かはわからない。海神が今日起動させるというプログラムの結果を見るしかない。

このことを政治的に利用しようとする人間もいる。聞くところによると、いま、世界中の国が川口にスパイを送り込んでいるそうだ。

各国の反応はさまざまだ。欧州勢は揃って、セキュリティの危機に憂慮を表明している。日本も同様である。中国は、基幹ネットワークの一部封鎖をはじめているという。インドやロシア、ブラジルは楽観的だ。いい商機のひとつくらいに考えているのかもしれない。平均株価が、その国の立場表明と比例している部分もあり、あまり強い懸念を表明できなくなっている現実がある。

意外なのは、アメリカ合衆国の現政権がセキュリティの危機を歓迎しているらしいことだ。世界のセキュリティが脆弱になれば、まったく別系統で世界中に張り巡らされている米軍の軍事ネットワークの有用性が増すのだそうだ。アメリカが送り込んだスパイは、皮肉なことに、情報社会の自由を守ろうとするユダヤの暗殺者から海神結を守っているらしい。日本政府が海神の研究所に圧力をかけないのもアメリカの意向だ。

つまるところ、この混迷極まる状態に、人類が開発した国家というシステムはなにもできないでいるのだった。まったく馬鹿馬鹿しい。80億もの人間が指を咥えて見ているなんて。街角にゴミがあふれ、観光客が呑気に旅をし、若者は若者ゆえに馬鹿であり、そうして平静を保っているように見える川口の街は、ある意味、世界の縮図だと言えた。

無論、自分も、日本政府の意を受けて動いているのではない。政府のエージェントをしていたのはもう何年も前のことだ。いまは、国の行く末を憂う一個人として行動している。

この国は発展の方向をまちがえた。汗水垂らして働いている人間が幸福を得られない国ができてしまった。真面目に働けば働くほど、人が家庭をうまく築けなくなる制度を組み上げてしまった。国の舵取りをまかされていた官僚として、忸怩たる思いがある。あの世に行く前に、それだけは正しておかねばならない。海神結がもたらすセキュリティの危機は、国家にとっても、自分にとっても、神の配剤だ。

海神がいる研究所に向かってゆっくりと歩を進めた。

遠くから、やきそばを売る巡回屋台のテーマソングが聞こえてきた。あらかわ大橋へと繋がる車道は、週末のショッピングのため東京首都特別州からやってくる車が整然と流れている。むかしと比べて、車はずいぶんと静かになった。それすらもいいことなのかどうかはわからないが。すぐそばに、人を殺せる凶器が走り寄ってきても、人間は気づくことができないからだ。もちろん交通事故による死者数は減った。あたりまえだ。それが、文明が進歩するということなのだから。

このあいだふらりと立ち寄ったファストフードショップで若者が話していた。むかしは交通事故でよく人が死んだ。なぜなら、むかしの車はツノとかトゲとかをたくさん装備していたからだそうだ。映画で見たという。

やはり、この国は、腐っている。

2007.04.26
「『ギートステイト』南関東州」(4)
■『地球の歩き方 東京 '45-'46』(EAC版)より
■旅の準備と技術編:コラム:「ギートステイト」南関東州
■(4)

 ギートマンションに辿り着いても、もちろんギートの部屋を見られるわけではない。しかし、このマンションは4階までが共用空間と店舗になっており、その部分はセキュリティレベルが低く、EACで登録された携帯デバイスを身につけていれば問題なく入ることができる(登録情報によってまれにSPAMとして弾かれることがある)。
 店舗スペースには、ジャンクフードとサプリメントばかりが並んだコンビニや、入力装置のカスタマイズショップ、それに南関東州ではめずらしい物理媒体著作物(書籍や光磁気ディスク)の専門店などが並び、一般の住宅隣接店舗とは一線を画している。ギート趣味のある読者なら、それらの店舗を眺めるだけで1〜2時間は過ぎてしまう。

 ところで、ここで意外と重要なのが訪れる時間だ。
 ギートの生活には、本来昼も夜もない。GPW(ゲームプレイ・ワーク)はあらゆる国で発生し、プラットフォームはGPWと世界中のユーザーの適合性を時差に関係なく照合しているので、とくに日中に仕事が集中するわけではないからだ。それでも、不思議なことに、どの国のギートも、なぜか自国や近隣諸国で発生したGPWを好んで処理する傾向がある。そうすると、一定の生活リズムが決まってくる。
 南関東州でもっとも多く処理されているGPW課題は、GPWプラットフォームの出している統計によれば、日本を含む東アジア諸国の企業や行政組織における、さまざまな意志決定システムの支援である。このタイプのGPWの需要は、日本時間の平日の15時から23時まで(EAC標準時間の14時から22時まで)がピークであり、ゲームクリアあたりの賃金もその8時間がもっとも高い。したがって、南関東州のギートの多くは、その時間を狙ってゲームプレイに勤しんでいる。ゲームプレイ・ワーキングというと、ちょっと空いた時間にカジュアルゲームをプレイして小遣いを稼ぐというイメージが思い浮かぶが、それで生活費を稼ぐ「ワーキングギート」たちにとって、GPWはそんな気軽なものではないらしい。
 というわけで、ギートマンションを訪れるのだったら、GPWがピークを迎える前の昼下がりか、あるいはピーク後の深夜がいい。へたに夕方などに行くと、住人はみな自室にこもっていて、店舗は閑散とし、住宅エリアに出入りするケータリング業者を空しく眺めるはめになる。

 ギートは物理空間の共有を重視しない。マンション2階には大きな「マンキツ」「ファミレス」(もともとは「マンガ喫茶」「ファミリーレストラン」の略であり、その名のとおり喫茶店やレストランを指していたが、いまでは、軽食付きの安価な多機能レンタルスペースの俗称になっている)があり、ギートたちで賑わっているが、多くは飲み物を飲みながらデバイスに向かっているかディスプレイグラスで視野を覆っており、会話の声はほとんど聞かれない。それはそれでおもしろい光景だが、「本場のギート」と交流してみたい読者には、いささか物足りないだろう。
 ところが、このギートマンションには、そんなギートたちが奇妙に社交的になり、初対面の観光客を温かく迎えてくれるめずらしい場所がある。それが、テーブルゲームスペース「ヨウヤンティ」だ。

 ヨウヤンティは、愛好家同士がボードゲームやカードゲームを物理的に対面して行うコミュニティ・スペース。同じようなスペースは私たちの国にも存在するが、この店が特徴的なのは拡張現実を導入している点だ。
 ヨウヤンティに入店すると、客はまず携帯デバイスと店のサーバを接続するように指示され、ディスプレイグラスと光学迷彩シートでできた目抜き帽と貫頭衣を渡される。グラスを掛けシートを被ると、ディスプレイに設定画面が出るので、その指示にしたがい、どこまで自分の「物理身体」を相手に見せるか、声を聞かせるのか、アバターを使うならばどのような姿にするか、設定を進めていく。設定が終わったあとは、グラスとシートを身につけたまま、適当にゲームの輪のなかに入っていく。つまり、ヨウヤンティは、客と客が物理的に対面しながらも、相手には自分が設定した情報しか仮想的に見えない拡張現実空間になっているのだ。そんな場所で、何十人ものギートが、テーブルを挟んで、カードをめくったり駒を進めたりしている。ゲームに参加せず、会話を楽しんでいるだけの客も多い。
 言うまでもなく、ヨウヤンティのような小さな店舗で、精度の高い拡張現実を提供することは難しい。実際に参加するとわかるが、光学迷彩を通しても相手の顔や体格はかなりわかってしまうし、こっそりイヤホンを外せば声も聞こえる。だから、ヨウヤンティが提供しているのは、拡張現実そのものというより、むしろ拡張現実の「コスプレ」とでも言ったほうがいい。しかし、それでも、「とりあえず現実が隠されていることにする」「とりあえずゲームをやっていることにする」という建て前は、内気なギートから十分な社交性を引き出しているようだ。2階のマンキツと対照的に、ヨウヤンティはいつも会話に満ちている。
 店長のシン・シーマ氏は、8年前に来日したという、「ガイジンギート第1世代」の28歳の中国人。仮想現実のなかで現実のゲームを行うという同店のアイデアは、シミュレイティドアバタースペース(SAS)の先駆けである「SecondLife」のなかで開催された、40年前のテーブルトーク・ロールプレイングゲームのあるイベントから得たという。「ヨウヤンティ」という店名も、そのイベントのゲームマスターが所属していた、半世紀前のスタジオの名前の中国語読みとのこと。ヨウヤンティは'41年にオープンしたばかりだが、業績は好調で、'44年にみなみさいたま市に最初の支店を出し、'45年には東京首都特別州への進出を考えている。
 ヨウヤンティは3階にある。30分でもよいので、ギートマンションを訪れたらぜひ寄ってみよう。初心者と見るとすぐだれかがチャットで話しかけてくるので、テーブルゲームについて無知でも何の心配も要らない(日本語がわからないひとは、チャットオンリーにして翻訳デーモンを立ち上げておくとよい)。
 開店時間は7/24。入店料は必要ないが、グラスとシートのレンタル代が1時間に3ドルかかる。ほか、拡張現実の設定と参加するゲームの形態に応じ、情報使用料が上積みされる。連絡先はblog.baidu.eac/xsm/youyanti

2007.04.26
第32話「セキュリティの静止する日(5)」古渡一郎

左手に大型ショッピングセンターが見えてきた。平べったい建造物の奥に突き立っている複雑な形をした棒が、荒川沿いの高層マンションだ。目指す研究所エリアは、マンションに隣接していた。

30年前は古ぼけた工場が建ち並んでいた場所だった。壁面のコンクリートはくすみ、錆びた鉄骨の褐色が浮き出ていたものだ。目をつぶるといまでも色合いを思い浮かべることができる。いまは、ずいぶんと、小綺麗で無機質な街並みになった。かと思うと、荒川と芝川に挟まれた20メートルほどの土地には、築年数の経った一軒家がひしめいていたりする。化粧をほどこしているのは幹線道路沿いだけで、狭い道に一歩踏み入れれば開発からとり残された街区があるのだ。それが南関東の現実である。遠く、いまにも崩れそうなコンクリート壁に、かすれてほとんど見えなくなったペンキで「夜露死苦」と落書きがしてあった。

ドライブスルーを併設したファストフードショップの横を通りかかったときだ。あらかわ大橋のほうから走ってくる男が視界に入った。体格のいい白人だ。ロングコートの裾がたなびいている。脚を回転させると、アメリカンフットボールでもやっていそうな筋肉が服の生地に浮かびあがる。余剰熱を発電にまわしたらエコロジーに役立つに違いないと思った。

男は、周囲をきょろきょろと見回しながら駆けてくる。
こちらを視界にいれると、碧い目を、ぎょ、と剥いた。なんだ。気にくわんな。外人め。

咳払いしてやった。
「わたしの顔になにかついているかね」
「Hoo……船着き場を探してます。知りませんか?」
「ふん。駅ならショッピングセンターに隣接してあるはずだ」
「No,No,stationじゃありません。a landing pierです。電車じゃなくて船のカンジ」
「船? 内陸の川口に船なんか関係あるわけないだろう」
「Oh, No!」

男の言葉は、外来語の発音がネイティブな英語になっているものの流暢な日本語だった。

まったくこの国ときたら外人ばかりだ。政府の失敗のせいで日本人が増えず、流入した外人ばかりが増えている。しかも、別の言葉を話す国からやってきた連中のほうが正確な日本語をしゃべっている有り様だ。この皮肉さはなんだろう。日本国民が惰眠を貪っているうちに、この国は立派な植民地と化しているではないか。

我々日本人は、同じ言葉をしゃべっていて、しかもその言葉が指し示す概念は万人に共通だと思い込んでいる。しかし、そんな考えは70年以上も前にすでに崩壊しているのだ。言葉は、表層の意味でしか通じていない。言葉の背後にある真の意味は、人が属するコミュニティーごとに異なってしまっているのである。人は同じ言葉をしゃべっていると勘違いしているが、世代別、職業別、所得別の意味の違いは深まるばかりだ。むしろ、日本全国で普通に話が通じていることのほうが不思議なのだった。

周囲を海に囲まれた土地に守られ、ずっと農耕をしてきた日本人は、言葉の背後にある異なった幾種類もの概念を本質的に理解することができない。となりに住んでいる人間には言葉が通じるものだと思いこんでいる。だが、それは誤りだ。一方、狩猟採集し移動することによって発達してきた民族は、異文化とコミュニケーションする術を身につけている。奴等に日本人は勝てない。だから、外人の流入を阻止するしかないのだ。このままの状態を放置すれば、あと数十年もしたら日本の各州は別々の民族に占拠されているかもしれなかった。

外人は息を切らせている。聞いてみた。

「おまえさんも聖地巡礼とやらなのか?」
「What?」
「なんだ、違うのか。なら、いい」
「……すみませんが、ここのmapを見せてくれませんか?」
「悪いが、わたしのPSPカードの機能は限定的だ。南関東州の住人じゃないからな。見せてやりたくてもそんな機能はついておりゃあせん」

外人は肩をすくめた。外人らしいおおげさなそぶりだった。よく見ると、片手に携帯デバイスを握りしめている。言ってやった。
「おまえさん、携帯デバイスを持ってるじゃないか。そいつではだめなのかね?」
「何度もtryしているんですケド……」
「わたしはこのあたりの住人ではないからな。あの店なら、店内に案内パネルがあるだろう」
道沿いのファストフードショップを指さした。
「そうか。ありがとうございます」

大きな背を丸めて礼をし、外人はファストフードショップに向かった。
おかしな男だ。あれほど日本語がうまければ日本滞在も長いだろうに、携帯デバイスの使いかたを知らないのだろうか。機械も使えずなにをしに日本へ来たのだ。それとも、太い指だと細かいタッチパネルが押せないのか。だいたい観光地でもない川口でなにをしているのか。まったく理解不能だ。

まあ、いろいろあるのだろう。気にせず、歩き出した。
背後で、ぴんぽんぱーんという陽気な電子音がした。

「本店はPSPカードによるキャッシュレスサービス専用店舗です。入店にはPSPカードの登録が必要となります。お客さまにおかれましては、入店の前に、PSPカードの登録を行ってください」

おがあ、と、肉を主食とする人種の叫び声が聞こえた。
これ以上かまっていられないので、放っておくことにした。

2007.04.27
第33話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(2)」海神れい

その島は魔物が住むと言われていた。

正確には島ではない。下流のほうで陸地と繋がっていたから。正しくは中州というそうだ。だけれど、同級生のあいだでは、魔物が住む島だと言い伝えられていた。

学校の先生は言ったものだ。交通事故死のグラフは右肩下がりだけれど、犯罪の被害者となる子供の数は横ばいである。全国の街という街、道路という道路に監視カメラが設置され、すべての子供が位置情報システムによって追跡されているというのに、それでも被害に遭う子供は発生している。だから、あなたたちも、できるかぎり自分の身は自分で守らなければならない。危険な場所に近寄ってはいけない、と。

おーぷんしゅぎとかいう反政府主義者たちが集う島は、繁華街と並んで近寄ってはならない場所のトップツーだった。繁華街は別に危なくないし、なんでも記録して公開する集団が犯罪をしているとも思えなかったけれど、とにかくそうなっていた。

その島に、上陸してしまった。ふかこうりょくで。

ちょっと状況を整理してみよう。いまは、兄さまのところに届けものをしに行くところで、オノデラ・エミオというどうやら悪い人間じゃない青年に物陰から監視されていたりして、ななほしがいなくなって、それとは別にガイジンの大男に追われているらしくて、向こう岸に渡らなければならないのだけれど荒川警備隊のパトロール艇に追われてこの島へ漂着してしまって、ついでにボートを操縦していた男も同じく追われているらしく、兄さんは優秀な学者でたいへんな研究をしているので、大切な届けものが犯罪者につけ狙われるのもいたしかたない。しまった全然整理になってない。整理は苦手だ。

ヒゲ面で気さくなオープン主義者が住む魔の島は、ある意味魔界っぽいといえた。住んでいる連中は、兄さまの研究所にいる人たちと雰囲気が似ていて親しみが持てたけれど、場所は別である。街の中と違って、地面は舗装されていない。剥き出しの土だ。踏むとすこしだけやわらかくて気持ち悪い。そんな中に、背丈の倍くらいはありそうな直方体が林立している。社会科の教科書に載っていたコンテナをカラフルにしたような不思議な物体だ。それらが渾然一体となり、一種の迷宮状空間を形成しているのだった。

道とも言えない道をヒゲ男の案内で進む。広場に出た。真ん中に切り株がある。包丁の化け物みたいなものが突き立っている。さすが魔の島だ。アーサー王とかいうむかしむかしの伝説では、たしか岩に剣が刺さっていたはずだった。駆け寄った。つついてみる。こん、と澄んだ音がした。固かった。

「積層型の木製中華まな板だよ。水に浮くんで便利なんだ」
ヒゲ男が言った。
「せきそうがた?」
ヒゲの男は包丁の化け物をひっこ抜き、地面と平行に、切り株に切れ目を入れた。
「いちばん上をはがしてみるといい」
切り株のいちばん上をめくってみる。ぺりぺりと音をたてて表面が剥離していく。
「わあ」

低学年の頃、兄さまにアミューズメントパークに連れていってもらったことがある。その中に、ヘンなゴーグルをつけて迷路を回るアトラクションがあった。ゴーグル越しに見ると、兄さまの姿も、自分の姿も、ファンタジーに出てくる戦士のような格好になっていた。あのときのダンジョンに比べると、この島の風景はずいぶんとリアルな魔界だった。

ダンジョンの中でゴーグル越しに見ると、手に持ったへなへなの棒はごつごつしたこんぼうに変化した。触るとぐにゃぐにゃしているのに見ためは硬質で、車に酔ったような奇妙な気分になったものだ。何回か通っていると、カードに記録された情報がレベルアップして武器はつるぎになるそうだった。出現するモンスターが水色のクッションみたいで、攻撃するのが忍びなかったから、1度しか行ってないけれど。

いまの装備はぬののふくである。あまり格好よくないけれど武器はつるぎといっていいだろう。盾に持ち手がないのは問題かもしれない。ヒゲの男が切り株の上に置いた武器を、とりあえず振ってみることにした。頭の上まで振り上げて、一直線に振り降ろす。重い。いちばん下までいったときにずるっと手からすべり抜けて、土を踏み固めた地面に突き刺さった。左のつま先から1センチほど離れたところだった。さくっという音が、耳からではなく脚から伝わった。真四角の刃が光を散らした。

「なるほど」
つぶやいてみた。

右手に持った武器を上から下に振り下ろすときは、左足を前に出していてはいけないらしい。でないと自分の脚を切ってしまうからだ。ひとつかしこくなった。マニュアルに書いてないのは不親切だ。家に帰ったらアンケートのメールに書こう。まあ、ゆうしゃにマニュアルなんてないのかもしれないが。

ヒゲ男と爺さんは立ち話をつづけている。
邪魔するのもなんなので、ひとりで冒険に出ることにした。

2007.05.07
検索性同一性障害とは
■「泉藤メンタルクリニック」公式サイト
■「精神疾患Q&A」コーナー内「検索性同一性障害」


検索性同一性障害とは

 検索性同一性障害は、解離性障害の一種です。検索性同一性障害の患者は、自分の思考や記憶や人格が、自分固有のものではなく、不可視のデータベースから他者の意志によって「検索」され、読み込まれ、そのつどあたらしく作られた「インターフェイス」のように感じます。そのため、人格や行動原理が頻繁に変わり、他人とのコミュニケーションに深刻な問題を抱えます。
 検索性同一性障害の患者は複数の人格をもちますが、そのいずれにおいても、情報機器を通して示された数字や記号、記録の完全性などに固執します。突発的な人格交替のため物理的なコミュニケーションに困難を覚えますが、その突発性を隠すことができるネットワークを介したコミュニケーションでは、しばしば高い社交性を発揮します。検索を介して自己が世界全体に拡大するかのように感じる一方で、考想吹入妄想が見られ、自己の発言や行動がだれかに盗み取られているかのように感じます。多くの患者では幻聴や幻視が見られ、検索の主体である「超越者」や「データベース」との交信を主張する事例もあります。
 少なからぬ患者が、発症の初期段階で、物理的な現実の希薄さを訴え(解離感)、自分を仮想現実のキャラクターやアバターに喩えます。そのため、「ゲーム性妄想」「ゲーム病」とも呼ばれますが、実際のゲームプレイとの因果関係は証明されていません。
 日本では現在、約3000人の人々がこの障害で苦しんでいます。

解離性同一性障害との類似性

 検索性同一性障害は、離人症性障害や妄想性統合失調症など多くの精神疾患と共通の症候を示しますが、とくに複数の副人格をもつ点で、前世紀末から今世紀初めにかけて北米で流行した解離性同一性障害(多重人格障害)に似ています。しかし、つぎの点で解離性同一性障害と異なると考えられます。
 解離性同一性障害においては、副人格は一貫した同一性をもちます。たとえば、ひとりの患者のなかに人格Aと人格Bが存在するとして、そのとき人格Bと交替して現れる人格Aは、その前に現れたときの人格Aと同一だと考えられます。しかし、検索性同一性障害ではそうではありません。検索性同一性障害における副人格は、同じ検索キーを用いても昨日と今日では異なった検索結果が現れるように、現れるたびに少しずつ異なった性格と記憶を示します。
 検索性同一性障害における副人格は、解離性同一性障害のそれとは質的に異なったものであり、心因的にも生理的にも、異なった機構に支えられていると考えられます。検索性同一性障害については、幼少期の心的外傷との関係も発見されていません。

診断と治療法

(略)

現実か幻想か

 検索性同一性障害は、21世紀半ばの現在、神経生理学的基盤が解明されていない、数少ない精神疾患のひとつです。そのため、文化分析学者のなかには、この障害は「社会構築性」のものだと主張するひともいます。彼らは、ヒステリーが19世紀末を象徴し、多重人格と境界例が20世紀末を象徴していたように、検索性同一性障害は21世紀の社会が生み出した病だ、と主張しています。
 検索性同一性障害が、神経生理学的基盤がない幻想だとは考えられません。しかし、症例の増加に、小説や映画、ブログなど、文化的要因が大きな役割を果たしたことは確かです。現在の基準で検索性同一性障害と分類可能な症例は、2013年にアメリカで初めて報告されました。それから10年間、同様の症例はまれに報告されるだけでしたが、2023年に『80億人のビリー・ミリガン』がベストセラーになると同時に、報告数が急増しています。
 このような経緯から、医学界は、長いあいだ検索性同一性障害の認知に対して慎重でした。検索性同一性障害は、2031年にアメリカ精神医学界が発行した『精神障害の診断と統計の手引き』第7版(DSM‐Ⅶ)で項目として独立しましたが、WHOが発行する『疾病及び関連保健問題の国際統計分類』第14版(ICD‐14)ではいまだに正式名称として採用されていません。

コ・チョルジェ症例

 検索性同一性障害の患者としてもっとも有名な人物は、韓国系アメリカ人のコ・チョルジェでしょう。
 コは2030年代前半に、東アジアの政治を専門とする「ジャーナリスト」として、英語と韓国語の媒体で論説を発表していました。コは出身地や年齢を伏せたまま、ナショナリズムの急進派論客として韓国語圏で評価を獲得し、2035年には、日本や中国の政治家と論戦を交わし、外交政策に影響を及ぼすまでになります。
 しかし、2037年に、当時の主治医の匿名の告発により(のちに実名が暴かれ、主治医はこの告発を原因に巨額の賠償請求を起こされます)、コが実際にはジャーナリストではなく、検索性同一性障害を患い、アリゾナのクリニックに通院中の27歳の若者であること、さらに驚くべきことに、コの論争相手として知られた日本人や中国人の論客のうち3人も、彼の副人格だったことが明らかになります。しかも、コ自身はそれを自覚していません。スクリーンを前にしてつぎつぎと人格が替わり、そのたびに言語を切り替えながら、たがいに矛盾する愛国主義的な主張を4人のアバターに理路整然と語らせていくコの映像(前述の主治医が撮影し、ネットで公開したもの)は、当時の東アジアの人々に大きな衝撃を与えました。
 コ・チョルジェ症例は、センセーショナルであるだけではなく、検索性同一性障害の本質を示していると言われます。コと3人の交替人格が得意としたのは、東アジアで前世紀から引き続く「歴史認識」論争でした。歴史認識の差異は、事実というより、その解釈の差異によって生まれます。検索性同一性障害の交替人格も、ひとつの共通の「データベース」を読みこむ、検索キーの差異から生まれ(ると想像されてい)ます。もしかして、コは、その類似性を無意識にわかっていたからこそ、ひとつの歴史から、あるときは韓国人として、あるときは中国人や日本人として異なる結論、異なる自己を引き出して、論争させていたのかもしれません。
 コ自身は告発の直後に言論活動を停止しましたが、不思議なことに、コと交替人格たちの論文は、上記の事情が明らかになったいまでも、日中韓それぞれのナショナリストを惹きつけ続けています。彼は2039年に、主治医との裁判に勝ち、巨額の賠償金を手に入れました。現在の状況は公開されていません。

2007.05.07
第34話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(3)」海神れい

そこは、カラフルな立方体がつくりだす地下迷宮だった。

青い空が見えているのに地下迷宮というのもおかしい気はするが、まあいい。そういう設定ということにした。立方体の高さは背たけの倍以上ある。ジャンプしてもてっぺんに手が届かない。配置は乱雑で、あいだにできた路地は屈曲し見通しがきかない。迷宮と呼ぶにふさわしい場所である。……空は邪魔だけれど。

そういえば、中世の城塞都市は、敵の侵入を防ぐためにわざわざ細く曲がりくねらせてあったと兄さまが言っていた。ここもそんなものなのかもしれない。兄さまは博識だ。

即席の剣と盾を構え、立方体の隙間にできた狭い道をずんずんと進んでいく。草むらで行き止まりになった。枯れてカーキ色になった草が膝の高さまで密生している。踏み込んだ。ささくれ立った先端がむきだしの脚をくすぐった。こそばゆくて気持ち悪かった。

こういうときには剣を使うのだっけ。枯れた草にむかって垂直に剣をふるってみる。がさりと音がして、乾燥した茎が散る。金属の塊は重い。何回か振っていると手がつりそうになったのでやめた。残念ながらここは行き止まりだ。振り返る。陰になった場所につぼが置いてあった。きっとこれは、割るとアイテムが出てくるつぼだ。ラッキー。行き止まりには福がある。

ところが、いくら力を込めてもつぼは持ち上げられなかった。背景の一部なのかもしれない。期待したのにがっかりだ。なんてできの悪いアトラクションなんだろう。ぶつぶつ言いながら引き返した。

左手の法則に従うことにして、来た道と反対方向へ歩く。ひとつの立方体は穴が開いていて、中をのぞくことができた。どうも、立方体の側面についている潜水艦の飾りみたいなものはドアだったらしい。無人の室内で、3台の洗濯機がうんがうんと動いていた。舞台の裏側を見てしまったようで居心地が悪い。早く正規のルートに戻らないと。こういうとき、ななほしがいてくれたら便利なのだけれど、どこかに行ってしまった。まあ、どうせななほしはアトラクションに入れてもらえないのだが。

もちろん、いまいるのは荒川の中州であり、アミューズメントパークではないことはわかっている。右手に握っているのはゆうしゃの剣じゃなくて包丁の進化形っぽい刃物だし、左手にぶら下げているのは盾じゃなくてまないたの切れっぱしだ。コンテナ状の立方体はおそらく人が住んでいるところだということも理解している。理解はしているのだが、ときどき、目の前の現実と頭の中で発生した設定の区別がつかなくなることがあるというか、むしろ積極的に設定のほうを重視しなければいけない気分になることがあるのだった。

クラスの子に聞いてみても、そういう気分になる子は他にいないらしかった。なんで、と聞かれてもわからない。なんでそういう気分にならないのかをこっちが聞きたいくらいだ。こういう自分を、母はたいへんに心配しているようだし、兄さまは難しいことを考えているっぽい。だけれど、そういう区別がつかなくなる状態は嫌いではない。楽しいから。

心が自由であるのはいいことだとお医者さんは言っていた。脳が機能解析され、肉体の一部となることで現代人はますます動物に近づいてしまったけれど心は依然として自由だとか、空虚で無意味でやくたいもないことに熱中できるからこそ人間は人間なんだとか。よくわからないがそういうことだ。詳しくはそのお医者さんに聞いてほしい。

それにしても、エンカウントがなくてつまらなかった。地下迷宮といったらモンスターをばっさばっさ倒すところだろうに。このアトラクションはぬるすぎる。責任者が出てきたら兄さまに説教してもらおう。

しばらく行くと、ぬかるんでいるところがあった。沼地のようだ。

アミューズメントパークに何度も通っている男子が自慢していたことを思い出した。たしか、毒の沼地のどこかにゆうしゃのしるしが隠されているのだった。伝説では、そのしるしを長老か誰かに渡すと、魔物の島へ渡るための橋をかけてくれるそうだ。もちろんそれはアトラクションの話だ。しつこいようだがそんなことはわかっている。だけれど、魔物の島から脱出して兄さまのところへ行くときもその橋は必要なのではないだろうか?

うん、いいかんじになってきた。冒険に宝物はつきものだし。

ぬかるみを、靴の底で探りながら進む。そろそろと。息をつめて。お気にいりの靴が泥まみれになったが平気だ。ゆうしゃはそんなことを気にしない。

つまさきに、こつん、という感触があった。泥の中から角ばったなにかが姿をのぞかせている。指先で、そうっと、つまんでみた。板ガムの半分ほどの大きさのカードだ。泥のにおいが鼻をついた。目をこらした。古いメモリーカードだった。

ゆうしゃのしるしも電子化の時代なのだった。せちがらい世の中になったものだ。近くの葉っぱで泥をこそぎ落とし、ポケットにしまった。すると、前方からBGMが聞こえてきた。この迷宮に入ってはじめてのBGMである。足音をたてないように近づいた。かすかな衣ずれの音がBGMに混じっているのがわかった。

やっとモンスターか。待ちかねた。

立方体の陰に身をひそめた。剣をちょっとだけ突き出し、側面に向こう側を映してみる。うまく映らない。映画みたいにはいかないものだ。顔を出してのぞいてみた。ゴーグルをつけた人物が、BGMに合わせて奇妙な踊りをおどっている。ダンスにしては動きがゆるやかだし、かといって太極拳の類にも見えない。いかにも魔物っぽいステップだ。まちがいない。

鈍色に光る包丁の化け物を頭上に構え、なにも知らず踊る人影に背後から忍び寄った。

2007.05.08
第35話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(4)」海神れい

鈍色に光る剣を頭上に構え、なにも知らず踊るモンスターに背後から忍び寄る。

狙うはクリティカルヒットだ。モンスターの頭部は高いところにある。斬り下ろしではうまく届きそうにない。下段からの円月殺法を選択。円月殺法ってなんだか本当は知らないけれど、殺法というからには強力な攻撃のはずだった。

「えい」
すっぽ抜けた。

包丁の化け物は弧を描いて飛んでいき、重力に従って落下を開始、回転しながら金属質の光を散らす。BGMの音声源であるスピーカーの真横に突き立った。びりびりと震えた。攻撃は失敗だ。どうもこの武器とは相性が悪いらしい。反撃に備え盾をしっかりと握りしめた。

「わ!」

一拍遅れてモンスターがびっくりした。日本語のようだ。振り向いてゴーグルをはずした。目が丸い。細身の女性だ。動きやすい機能性のスウェットに身を包んでいる。朝起きてコーヒーを飲む前の母に雰囲気が似ていた。ショートの髪が、汗に濡れた頬にへばりついていた。
「ええと……なに?」
「むむ。モンスターじゃなくて村人なのか」
「まあ、たしかにここは村と言えなくもないから、村人と言えば当たらずとも遠からずだけど……モンスター?」

「わたしの武器を返してくれ」
「えっと、これが武器?」
スピーカーの横にぶっ刺さっている鋼鉄の板状物体を村人は見やった。
「そう」
「じゃあ、もしかしてそっちに持ってるのは盾なのかな」
「もちろんそうだ。悪いか」
「悪くはないけど……これが武器ってのはどうなのかなあ」
「だめなのか?」
「これがニュース番組で報道されたら、武器のようなものとは言わないんじゃないかな。バールのようなものじゃないだろうけれど、かといって武器でもない気がする。少年少女の情操教育にもよくないだろうし。ちょっとここで待ってなさい」

そう言うと、村人は近くの立方体の中に入っていった。しばらくして出てきた。
「これと取り換えてあげるよ」

村人の女が持っていたのは、見た目もちゃんとした剣だった。手にしてみるとすごく軽い。カーボン素材でできているっぽい。ためしに振ってみると、シュキーンという小気味好い電子音がした。握り手も手になじむ。これはなかなかの業物(わざもの)だ。
「いいのか?」
「いいよ。むかし開発でもらったんだけど、どうしようかと思ってたところだから。そっちの盾も貸してごらん」

ポケットから取り出した大型のホチキスで、村人は盾に取っ手をつけてくれた。これで、指でつまんでいなくてもよくなった。素晴らしい。ゆうしゃのしるしを見つけただけのことはある。一気にレベルアップしてしまった。包丁の化け物が人に当たったら危ないだろうなとちょっとだけ思っていたのでその点も安心である。頭の中で、レベルアップ音が高らかに鳴り響いた。

「ところで、質問なのだが、こんなところでなにをしていたのだ? 魔法の踊りかなにかか」
「たしかに似ているかもね。宗教や魔法に身を委ねるのもアルゴリズムに身を委ねるのも同じだと言えるかもしれないから」
村人は笑った。冬の空に合うからりとした笑顔だった。いやいや、違う。空は見えどもここは地下迷宮なのだったっけ。
「『高度に発達した科学は魔法と区別がつかない』と言うしね。本質的に理解できない他人の行動は、マジックリアリズム的に読解されることによってコミュニケーションが成立するんだよね」

よくわからなかった。村人といったら普通は状況の説明をしてくれるものなのに、このお姉さんが言うことはずいぶんと難解だ。村人じゃなくて賢者かなにかなのかもしれない。頭の上に黒いもじゃもじゃを浮かべていると、賢者っぽい村人はつづけた。

「むかしの人は、太陽の動きに合わせて生活していたんだよ。太陽が出てから沈むまでを等分していた江戸時代の日本は、季節によって一刻の長さが違ったし、イスラム教徒は日の出日の入りに合わせて礼拝をする。そういうふうに太陽の動きに合わせて生活するのが自然なんだとかいう考えかたが主流だったんだな。なんというか、地球とか太陽とか神さまとか大きなものにみんなで身を委ねたほうが、共通理解の基盤ができて安心できるんじゃね? みたいな。でも、本当は25時間周期で生活したほうが人間の体のリズムは崩れないし、太陽が出ていないあいだに活動する動物だってたくさんいる。でもって、科学技術が発達して、自然とか太陽とかに合わせなくても全世界の連中が同期をとれるようになったってわけよ。それが、さっきの行動パッケージツーリスモ。ちょっと一緒に踊ってみる?」
「むむむ」
勧誘されてしまった。これはゆうしゃに必要な儀式というやつなのだろうか。

「怖がらなくてもだいじょうぶ。別におかしなことじゃないから」
賢者っぽい村人はゴーグルをはずし、立方体の近くにある台の上に置いた。スイッチを入れると、怪しげな動きをする白人のアニキの姿が壁に映写される。わざとらしい笑顔と筋肉と真っ白な歯が印象的なアニキだった。BGMに合わせてうにょうにょとうごめいている。人間の動きというより軟体動物の動きみたいだ。

「とりあえず動いてみて。夏休みの共同体操みたいなもんだと思えば」
装備を外してとりあえず踊ってみる。村人が言った。
「映像を見るんじゃない。感じるの」
「……ちっとも感じないぞ」
「わるいわるい。感じるってのはものの例えでね、あたしたちはよくフォースを感じるんだって言うんだけれど、もちろん人間にフォースなんてないし第六感も第七感もない。頭の中で想像すんのよ。これは全世界の人と同期している動きなんだって。妄想と言ってもいい。ツーリストにはそれが重要なの」

「なるほど。やってみる」

頭の中を真っ黒にして、またたかない星を散らして、太陽をつくって、近くに浮かぶ水星と金星をつくって、地球とそのまわりをぐるぐるする月をつくってみた。地球の上に7割の海と3割の大陸を思い描き、世界中にいるヒマ人が各地でまったく同じ動きをしていることを想像してみる。頭の中にあるミニチュア地球に住む人間はやっぱりちっちゃくて、ちいさな手と足を精一杯動かして、みんなで同じ踊りをおどっている。それは、壮大なんだか冗談なんだかよくわからない奇妙な景色だった。しいて言うなら、暗黒面に落ちた太極拳みたいなのだった。

「いろいろとどうもありがとう」
ひとしきり行動パッケージツーリスモとやらをやったあと、村人兼賢者の元を離れることになった。
「お。礼儀正しいね。どこの子?」
「わたしの名は海神れい」
「ああ、海神さんとこの。今日来てるんだ」
「村人なのに兄さまを知っているのか?」
「村人? ああ、そういうシチュエーションか」村人の女はひとりで納得している。「村人にだって名前はあるよ。モンスターにもあるんじゃないかな。あたしはハシモト・ヒロカ。お兄さんによろしくね」

ゆうしゃの冒険はつづく!

2007.05.08
行動パッケージツーリスモ
■JCニュース
■ビジネス&メディアウォッチ
■2045年11月3日


打ち水で温暖化を止める? 5000万人参加の巨大TAIの謎

 去る9月2日、北極海の氷がついに消滅した。グリーンランドの氷床も溶け始め、九州ではマラリアが流行している。東京では、5年前から雪が降っていない。温暖化の警告は前世紀から発せられていたにもかかわらず、人類は結局なにもできなかったわけだ。しかし、そんな温暖化を止めるという男が現れた。
 男の名はケン・キルシェンフーゲル(28)。ハンブルク在住のアーティストで、行動パッケージツーリスモ(★)のツーリスタとして知られている。ケンは北極海の融氷が報じられた翌日、ブログで早速「温暖化停止パッケージ」への参加を呼びかけた。
 ブログによると、今月25日の日本時間午後6時、5000万人が同時に「打ち水」を行うことで、地球の平均気温が0.02℃下がり、気温上昇率も下がるという。なんとも怪しい話だが、これがハリウッド俳優の紹介で火がつき、世界中から参加申し込みが舞い込んでいるというから驚きだ。そんなケンに話を聞いた。

 ——打ち水で気温が下がるのか。
 水を撒くと気化熱で地表の気温が下がる。都市部で行うと効果が高い。もともと打ち水は日本の伝統だ。知らないのか?
 ——地球は都市より大きいが。
 そこを補うのが地球規模のネットワークだ。行動パッケージを使い、参加者の同期を精密に取って、散水の位置やタイミングを管理する。非線形のカスケードが起きて信じられないほどの効果が起きる。それは科学的に証明されている。5000万人で0.02℃下がるという試算は、IPCCのシミュレーション・モデルから導かれたものだ。1億人だとさらに効果的だ。
 ——温暖化は止まるのか。
 むろんこれだけでは止まらない。しかし一定の効果はある。また政治的な態度表明にもなる。なにより大事なのは、このパッケージを契機に5000万人の心がひとつになることだ。
 ——参加は有料か。
 無料だ。
 ——5000万人も集まると思うか。
 10月20日の時点で1700万人が集まっている。登録は加速度的に増えており、達成可能だと考えている。むしろサーバ側の負荷が問題になるだろう。
 ——参加者はどの地域が多いか。
 実施日が11月で時間帯がUTC9時なので、南半球と東半球が多い。インドやオーストラリアではかなりの人数が参加しそうだ。
 ——当日はなにが起こるのか。
 打ち水のプログラムは、最終的な参加者数や参加場所の気候によって変わる。詳細は当日まで確定しないが、参加者は5リットルほどの水を用意して、水が蒔ける場所にいる必要がある。時間は30分ほどだろう。楽しみにしてほしい。
 ——環境問題に便乗した売名行為や、ライフログ連動型広告の広告料配分を狙った営利行為ではないかとの批判もあるが。
 活動家はつねに中傷に曝される。まったく気にしていない。

 ケンは快くインタビューに答えてくれた。話を聞いたかぎりでは、予想よりトンデモ色は薄く(といっても根拠はきわめて怪しいが)、むしろ政治的なデモンストレーションが想定されている印象を受けた。環境問題の解決にはなりそうにないが、お祭りだと考えれば、これはこれでありだろう。
 ただし、売名行為や営利目的との批判にも一理ある。9月以降、ケンの名前の被検索数は急上昇しているし、5000万人のライフログデバイスをTAIサーバに平均15分間同期させたとすると、発生する広告料は1000万ドルを超えるという試算もある。ケンの手に渡るのが数%だったとしても、かなりの金額だ。おまけに、彼は第2弾、第3弾の開催も予定しているらしい。
 最新の世論調査によれば、アメリカの10代の7割は「温暖化」の言葉すら知らないという。そんな状況を変えるためには、確かにケンのような荒唐無稽な発想が必要なのかもしれない。とにもかくにも、世界にはいろんなビジネスを考えるひとがいるものだ。

 ★行動パッケージツーリスモ(TAI)
 2028年にイタリアで生まれたライフログ・コミュニケーションの一種。参加者は専用のソフトをデバイスにダウンロードし、世界中に散らばる無数の参加者が同じ行動や発言をする「同期行動」に参加する。同期行動のあとは、デバイスのモニタで、同期の拡がりを見たり、友人と感想を交換したりすることができる。2044年末で、5万種類の行動パッケージが無料公開されているほか、有料のプログラムも多い。100分の1秒、1000分の1秒の同期を必要とするスポーツタイプのものもある。

2007.05.09
第36話a「12万人の怒れる名無し(7)」小野寺笑男

ローカルに撮りためた映像に海神れいの姿が映っていた。

薄暗い8畳間だ。壁の一面を、8枚のディスプレイ・シートが覆っている。その中の1枚に、画面の前で吠えているななほしの主人の姿があった。タイムスタンプは2週間前。となりのディスプレイには赤羽アジア街に設置してある監視カメラのリアルタイム映像が流れている。画面を横切ったのは川口のカリスマ主婦だ。一瞬のことでよくわからなかったが、こころなし頬が上気しているようにも、決戦を前に口を引きしめた武将のようにも見えた。

少女の飼い犬であるななほしを抱き寄せ、ひざの上におろす。小型犬は吠えるのをやめ、口の中でぐるぐると唸った。

赤羽アジア街の監視カメラ映像を妨害していた少女と、そこで発生するカーニヴァルの助演女優になろうとしている女。ふたりにはなにか関係があるのだろうか。それとも、鍵を握っているのは精神科医か。カーニヴァル決行の日にふたつの点が結ばれたのは偶然のことなのか。謎がいくつも浮上する。

カリスマ主婦の姿が精神科医のビルに消えた。匿名掲示板の投稿がものすごい勢いで回転している。

キーボードを操作し、撮りためた精神科医ビルのカメラ映像かられいの顔を検索することにした。兄が勤める研究所から内緒でパクってきたソフトだ。ちなみに、正式には違法なシロモノである。顔検索のために外部サーバーへアクセスに行くと、記録をたどって警察がすっ飛んでくる。ローカルに保存した画像の検索だけでは、このソフトの威力は1億分の1も発揮できないというのに。世界はいろいろと不自由だ。

加速した匿名掲示板の流れは目で追うだけで精一杯だった。反応したいが、頭が追いついていかない。一度にやるべきことが多すぎるのだ。時間が惜しい。顔検索はまだ終了しない。
そうこうしているあいだにも監視カメラ映像は自動的にザッピングしていく。そのひとつに、見覚えのある人影が映った。大男だ。黒いコートを着ている。川口を目指していた男にまちがいない。あらかわ大橋近くのショッピングセンターに設置してあるカメラだった。

携帯デバイスを耳にあて、白人の大男はなにごとかをまくし立てている。少女の姿は見えない。ひとりのようだ。役に立たない奴め。なにか情報をよこせ。映像に対して、口元認識ソフトを動作させた。ライフログサービスのためにカメラは音声も記録しているのだけれど、街中の監視カメラはプライバシーの観点から音声にアクセスできないことが多い。そんなときに威力を発揮するソフトである。これも、むかしはフリーで落ちていたが、現在は違法となっている。兄の研究所には便利なソフトが転がっている。

大男の映像の下に文字が流れていく。けっこうな速度だ。しばらく目で追って、違和感をおぼえた。おかしい。そうだ。英語ではなく、字幕が日本語なのだ。同時通訳ソフトは使っていないのに。ななほしは、腕の中で低い唸り声を発している。

わけがわからなかった。

なんで、カタコトで道をたずねてきたはずのガイジンが流暢に日本語をしゃべっているんだ?

2007.05.09
第36話b「カピバラはクリティカルヒットを出す(4)」山出さくら

泉藤の前に座ると、プレパラートにのせられたミジンコの気分になる。

それはきっと、精神科医という彼の職業ではなく、泉藤円という人間の根っこにあるなにかが感じさせるものなのだろう。

広くもなくかといって狭くもない診察室だった。薄いグリーンで統一された壁に間接照明があたっている。普通の部屋よりも天井までの距離は長い。そんな中に、ふわふわの低い椅子が置いてあるものだから、余計に天井が高く感じる。病院特有の臭いはせず、室内はアロマの芳香で満ちている。ゼラニウムのようだった。

「きょうはちょっと特別な日なんでね。あなた以外の予約は入れていない。看護師さんにも休みをとってもらった」
そう言って、泉藤はふわふわの椅子に腰をおろした。くだけた口調だ。それ以上の説明はなかった。特別というのは例のセキュリティ絡みのことかと思ったが、聞かないことにした。

泉藤円はちょっといい男だ。長身で、細身で、顔は悪くなく、高学歴である。しかもそれを自覚し、武器として使うことを心得ている。羽織っている汚れのない白衣も、白衣の内側からすこしだけのぞかせたスーツも、なにも書かないときでも持っている万年筆も、腕を動かすたびにちらりと見える高級時計も、すべて計算されている。もちろん、こういう男は、それはそれでつけいる隙があるものだが。

「最近はどうなのかな」
泉藤が聞いた。
「それは医師として聞いているの? それともそれ以外の存在として?」
「両方だね」泉藤は微笑する。人の悪そうな、それでいて妙に色気のある表情だった。「精神科医という職業は、職業というだけでなく、いまやぼくの存在のかなりの部分を占めている。格闘家がいつでも格闘のことを考えているのと同じでね。だから、ぼくの個人的な興味と医師としての興味はニヤリーイコールなんだよ。あらためて聞くが、どう? 不満とかはないかな」

「不満は……たぶん、あるわね。正直。いろいろと」
「それはいい傾向だ。最初にここに来たあなたの言葉をまだ憶えているよ。『欲しいものが見つからなくて不安だ』と言ったんだ」
「そうだったかしら」
「そうだよ。つまり、不満の発生は不安の解消なんだ。変化の方向性としては悪くない。それで、いまはなにが不満なのかな。もっとリッチにでもなりたくなった?」
「収入はいまのレベルが継続できればいいの。そういう物質的なものじゃないと思うわ」
模範解答的な答えを返してやった。泉藤の表情は不満げだ。ちいさく鼻をならし、わざとらしく長い脚を組んだ。

「金持ちが持っているのは物質ばかりとは限らないよ。ある種の精神的な優位性も持っている。現在、人類は、大きく分けて3つの階層に分断されているんだ。黙ってても暮らせる金持ち、それなりに裕福な中間層、貧乏人の3つにね。このうち、貧乏人は今日食べて遊ぶことで頭がいっぱいで、残る中間層と金持ちが互いに反目し合っている。だからあなたが金持ちに敵愾心を抱いているとしたら、それは世界的な状況のひとつの表れなのだとも言える。恥じることではない」
「大きく出たわね。でも、生活に不自由は感じてないし、仕事も順調よ。いくら稼げば富裕層の仲間入りができるのかは知らないけれど、不可能じゃないと思うわ」

「それはどうかな? たとえば、あなたは格好を気にするだろう」
「あたりまえでしょう。人に見られてるんだから」
「ところが、本当の金持ちは気にしない。あらかわ大橋のたもとにあるでっかいカジノ、内緒だけれど、アレを経営してる会社の社長令嬢はときどきジャージで診察を受けに来る。そこのショッピングモールで980円で売ってるやつだそうだ。友達が着ているのを見て気に入ったらしい。履いてるパンプスは、検索したら30万くらいするものだったがね」
「嘘よ」
「こんな嘘をついてどうなる。彼女いわく、正装とオフのふたつしかないんだそうだよ。ぼくたちのように、オンとオフのあいだに長いグレーゾーンがあったりはしない。完全に分かれている。オフのときは、ブランドショップで買った9万8000円の服だろうと、980円で売ってるシャツだろうと関係ない。気にいるか気にいらないかだけなんだ。あなたもぼくも、貧乏人ではないが金持ちでもない。意識がそうなっているんだ。だから、持てざる虚構に対しての反目が発生する。物質じゃないんだよ」

「じゃあ、どうすればいいのかしら」
「真のリッチになりたければ、低所得外国人でもつかまえてきてお手伝いさんに雇うところから自分を訓練しないとだめだろうね。そうやって、人間を区別してはじめて金持ちの意識は醸成される」
「主婦が売りものの人間がそんなことはできないわ」
「料理番組の発信をやめて、企業と組んでテーブルクロスや皿を売ってるカリスマ主婦はいくらでもいるよ。人間を雇うと思うからいけないんだ。ファンタジーに出てくる下級の妖精どもと契約したと思えばいい。あなたはよくマンションの下層階に住む人間を区別するじゃないか。根っこは同じだよ」
「それとこれとは話が別でしょ」
憤慨してみせた。泉藤は気にしない。精神科医であるこの男に、カリスマ主婦のペルソナは通用しないのだった。

「そうかな。ぼくは、自分で望んだ意識改革の入り口まであなたは来ていると思うんだけれど。でも、意識の枠を壊さないかぎり、二律背反する不安と不満を同時に解消することは難しいだろうね」
そう言って、泉藤は指の上で万年筆を回した。高学歴の精神科医にも、高級そうな万年筆にもそぐわない、貧乏臭い仕草だった。

たしかに、枠は壊さなければならないだろう。
そのためにここに来たのだから。

2007.05.10
第37話「カピバラはクリティカルヒットを出す(5)」山出さくら

欲望とは他人の欲望、という言葉があるそうだ。最初にクリニックを訪れたとき泉藤が言った。

20世紀の開始と同時に生まれた高名な医師の主張らしい。なにかを欲する心というものは、自分自身の中にあらかじめ存在しているのではなく、他人から影響を受けてはじめて発生する。他人が欲しくないものは欲しくならない。人間とは、そういうものなのだという。

泉藤と出会ってからかれこれ2年近くの時が経つ。彼の存在を知らなかった頃、おそらく自分は平穏な日々を過ごしていた。高級マンションの最上階に住み、夫は真面目で高給取り、息子は一流私立に通っていた。不動産会社の広告に出てくるような家庭だった。苦労の末、やっと手に入れることができた生活に肩の力が抜けていた。

もしかしたら、あのときの自分は充足に安住していたのかもしれないし、充足していることを自覚するのが嫌だったのかもしれない。なんでもいいから、とにかく、欲しいものを見つけたかった。いくら水を飲んでも喉の渇きが癒えないときの感覚に似たものが、体の奥底で脈動していた。だから、5歳も若い気鋭の精神科医の元を訪れ、相談をした。「欲しいものが見つからなくて不安だ」と。泉藤は治療を施した。そして、不満が芽生えた。いまは、できてしまった不満を不満に感じている。

泉藤が言った。
「不満の解消にはもうひとつ方法がある」
言葉を発することはせず、首を傾けることで返答した。泉藤がつづける。

「チップを脳に埋め込めばいい。その名も幸せチップ。先進国から鬱病を一掃した革命的クスリだ」
「チップは薬じゃないでしょう」
「それは一面的な見方だ。化学物質で脳の受容体を刺激して電流の流れを制御するか、脳に直接電流を流すかの違いでしかないよ。むしろ、内臓に負担をかけない分だけチップのほうがいいと現在では言われている。これを使えば、ボタン一発でいつでも幸せになれる。実は鬱病とはまったく関係なくて、いつでもどこでも誰でもハッピーになれる画期的な機械なんだが、あいにく日本では、裁判所の許可がないと脳に埋め込めないことに法律で決まっている」
「それが本当の幸せじゃないからでしょう。そんなものでは、人間の心は幸せにならないわ」

「たいへんに感情的だ。だが、あなたの言葉はある意味真理をついている。直観が真理を見抜くいい例かもしれない」
「これでもわたしもいろいろ考えているのよ。あなたほど頭はよくないけれど」
「そのようだね」
ふわふわの椅子の横にあるちいさなテーブルに泉藤は万年筆を置いた。かたん、と硬質な音がして、高い天井に吸い込まれていった。室内をただようアロマの中に、なぜか自分の汗のにおいを感じた。不快ではないが、真理や論理とは程遠いにおいだった。

「むかしむかしの偉大な学者によれば、心っていうのは言葉でできていることになっている。幸せも同じ。言葉が構成要素だ。そして言葉は、もともと、なにもないところから人間が捏造した虚構にすぎない。つまり、幸せを感じる心というものも、人間がつくりだした虚構の集合体にすぎないわけだ」
「それはそれで詭弁みたく聞こえるわ」
「詭弁じゃない。発達心理学でも証明されていることだよ。だけどまあ、これは20世紀までの話なんだ。最近は、幸せを感じたときに人間の脳のどの場所にどういう電流が流れるかがだいたいわかってきたからね。幸せじゃなくてもいい、悲しみでも喜びでもいい。とにかく、脳のある部位への電気刺激によって、人間は機械的に喜怒哀楽を感じてしまう」

「ニセモノの幸せでしょ」
「待ってくれ。結論を出すのはまだ早い。これからがおもしろいんだ」
そう言って、泉藤はくちびるを舌で潤した。それなりに整った口の端を、奇妙なほど赤い舌が這う。
「人の幸せは脳への電気刺激で満たされてしまうものだ。ここまではOK。揺るがない事実だ。ところが、人によって、幸せや悲しみを感じているときに思い浮かべる言葉は異なるんだよ。ある刺激によって人間は幸せになる。そして、そのとき想起されている言葉は個人によって違うんだ。それこそ、心が脳から解き放たれている理由でもある。脳に埋め込まれたチップは、動物としての人間を幸せに導けるが、人間が自分自身で捏造した象徴界における人間像の幸せを満たすことはできない。わかるかな。これこそが、人間が人間である証なんだ。なんて人間は複雑でインチキまみれで素晴らしいんだろう。だから、この時代になってもぼくら精神科医は仕事を失わない」

泉藤はいつも難解な理論を口にする。彼の言っていることは半分くらいしかわからない。大学までは出たものの、それほど高級な教育をしてくれるところへ行ったわけではないし、演劇ばかりやって学業に打ち込んでいなかった人間が理解するのは難しい。

彼の言葉は、山出さくらという器の容積を大きくしてくれたのではないかと思うことがある。偉人たちの発言の受け売りにすぎないそうだが。借り物でも言葉そのものの重みは変わらない。見晴らしのいい最上階の家とよくできた夫と申し分のない成績の息子。あの頃の自分は、たったそれだけのものでいっぱいいっぱいになってしまうちっぽけな存在だった。

だけれど、北海道の片田舎の高校で誓い合ったことだけは忘れていない。いまはなにをしているかも知らないたったひとりの親友と、バカみたいに広いだけでなにもない空の下、ふたりで約束をした。かならずなにものかになろうと。

幸せは掴んだ。高級マンションのてっぺんで安息を手に入れた。
だけれど、あのとき目指した“なにか”にはなれていなかった。

嘘つきだ、勝手だと陰口を叩く人間がいることも知っている。だけれどそれは違うのだ。子供だったあのときたてた神聖なる誓いに正直なだけなのだ。祖母の遺言をかたくなに守っているだけなのだ。言葉が人間をつくるというのなら、高校時代に通り抜けたそれらの言葉がいまの自分の核を構成しているのだろう。むかしの自分自身を人々が簡単に裏切っていることのほうが信じられない。ペルソナはいくら嘘をついてもかぶりなおせばいい。だけれど、たったひとつの心は嘘をつけないはずだ。

だから、いまは、すこしも、満たされていない。
欲しいものは、山ほどある。

2007.05.11
あるブログ(2)
■ブログ「ソノヰキ、ワタルヤワタラヌヤ」
■2045年8月22日のエントリ

 私は10代のころから「「公僕」」に憧れていた。日本のために働きたいと思っていた。そして高校生のころは、そのための王道は、政治家でも企業人でもなく、行政官だと信じて疑わなかった。
 そんな私が、厚生省、いまの医療保健省に入省したのは1994年のことだった。ところが、このタイミングは最悪だった。当時は平成不況のまっただなかで、状況は悪くなる一方。入省初年度には大地震とテロが起き、世相もどんどん暗くなっていった。そしてそんな不調の原因はすべて中央官庁に求められ、マスコミ挙げてのネガティブ・キャンペーンが繰り広げられた。私は官僚というだけで、親戚や友人から、尊敬どころか白い目で見られたものだ。
 そう、いま思えば、私の官僚としての人生は最悪のスタートを切っていた。そして、それは官庁を離れるまで変わらなかった。
 30代の初めに第一次中央省庁再編があり、私の所属は厚生労働省の外局の社会保険庁になった。年金問題が騒がれ始めたころで、またもや友人や親戚から叩かれた。私が年金制度を破綻させたわけではないのに……。国家破産の日程表を作っているようで、仕事も面白くなかった(そういえば、私の世代が公的年金をもらえなくなることは、どう計算しても当時から明らかだった。私は民間の年金保険に入ったが、その保険会社ものち外資に吸収され、基準通貨の変更のため約束の半額ほどしか支払っていない)。いま振り返れば、このときすでに見切りをつけるべきだったのかもしれない。実際に優秀な同期は、大学ベンチャーに潜りこんだり、コンサルを立ち上げたりしていた。しかし、私は公務員に誇りをもち続けていた。

 42歳で結婚した。相手は15歳年下のキャリア官僚。同時に勤務先が、経済産業省外局の特許庁に変わった。当時の日本では、医療行為がようやく特許として認められ、特許庁は専門家を多数必要としていた。確実に崩壊する年金制度よりも、何倍もやりがいのある仕事だった。ようやくいい仕事に就けたと思ったが、今度は数年と経たないうちに特許庁の独立行政法人化の話が出てきた。さらに数年すると、話はいつのまにか民営化、そしてNPO化になった。2010年代後半には、知的財産権の管理は、特許も商標権も著作権もそのほかもろもろも、すべて一括して非営利国際組織に委ねるべきだ、というのが世界的な世論だったからだ。
 いまでは常識だが、そのような改革はまったく日本のためにならない。知財を「オープン」にして勝利するのは、腐るほど知財をもっているアメリカとEU、逆に新興経済大国であるインドと中国くらいで、日本のような中途半端な国がもっとも害を被る。特許庁はそう言って抵抗したのだが、世間は耳を貸さなかった。それどころか、「抵抗勢力」ということで非難さえ受けた。このとき私は責任ある部署にいたので、新聞で名指しで叩かれもした。私は歯を食いしばりながら、日本の財産をアメリカ人や中国人の食い物にしてしまうシステムを、仕事として作り続けた。
 '22年の第二次中央省庁再編では、経済産業省そのものが解体されてしまい、特許庁はジュネーブに本部がある非営利組織に吸収された。私は「公僕」ではなくなった。そして、ほぼ同時に妻が去った。
 離婚の原因は、子供ができないこと、というより、私が子供ができるように治療を受けないことにあった。治療は簡単だったが、特許で独占され、きわめて高額だった。支払えない金額ではなかったが、費用のほとんどは、医者でも病院でも治療器具でもなく、器具を動かすソフトウェアに支払われ、しかも支払先の企業には倫理的問題があった。職業柄もあって、私はそんな治療を受けるのに前向きになれなかった。しかし、40歳になる妻は許してくれなかった。55歳を迎え、私はもはや「公僕」でないだけでなく、家族も失ってしまった。私は呆然とした。
 ところが皮肉なことに、仕事のほうは好転し始めた。私はいつのまにか、日本という小さな国の行政官ではなく、グローバルな市場を相手にし、ユーロで給与をもらう「医療知財産権コンサルタント」になっていた。
 誘われるままにアラブ系の法律事務所に移籍すると、収入は数倍、いや10倍以上になった。人間のあらゆる行為が財産権で守られ、再生医療と延命医療が爆発的に進歩し、最新の医療のためならばいくらでも金を払うひとがいる状況で、仕事はつぎつぎに舞い込んできた。外国語には自信がなかったが、ありがたいことに、'30年代は自動翻訳の利用がビジネスの信頼を得た時代だった。それから10年間、私は、独り身の身軽さを活かして狂ったように働いた。世界中を飛び回り、友人を作り、資産を蓄えた。ドバイに移住し、ニュージーランドに別荘をもった。私の人生でもっとも忙しかった、そしてもっとも成功した10年だ。

 しかし、70代を迎えたとき、私はふと日本に帰る気になった。なにがきっかけだったのか、いまはよく思い出せない。なにか、日本についての情けないニュースだったことは確かだ。それは、沖縄州では富裕層の8割が中国人で、日本人は彼らの家事労働者として雇われているというニュースだったかもしれないし、あるいは、京都市が財政再建のために文化遺産の命名権を販売し、清水寺が「スターバックス清水寺」に、金閣寺が「HSBC金閣寺」になったという記事かもしれない。いずれにせよ、そういう不名誉な話はたくさんある。そのひとつが、私の無意識に引っかかった。
 そのときに私は思い出したのだ。私はもともと、そんな情けない日本をなんとかするために、人生を始めたのだと。

2007.05.11
第38話「カピバラはクリティカルヒットを出す(6)」山出さくら

「言葉をつくりだした人間は心の捏造に成功した。残念なことに、現在の科学ではボタン一発で心は幸せになってくれない。それがここまでの話だ」
赤羽にある泉藤メンタルクリニックでのことだ。診療室の中はグリーンの色調で満たされ、静かだ。壁一枚隔てたところにあるアジア街の喧噪は聞こえてこない。泉藤はつづけた。

「ところで、幸せな家庭に必要なものってなんだと思う? 幸せな結婚生活でもいい」
「家庭は円満よ」
「円満だからといって幸せとは限らない。前者と後者は両立するものだ」
「愛……と、言わせたいのかしら?」
「愛も関係ない。精神分析ではね。無意識のレベルでは、いかなる愛も自己愛の変形にすぎないと考えるからね」
精神科医の表情から感情は読み取れなかった。確かな言語が裏打ちする自信だけがそこにある。こういうとき、ふと彼が優秀な医師であることを実感する。対話者としておもしろく、議論の相手として手強く、医師として頼りになる。強敵だ。

「さっぱりわからないわ」
ゆっくりと首をふり、降参の仕草をしてみることにした。泉藤は微笑する。
「むかしの人間はね、科学技術がどんどん発達すれば、人間そっくりのセックスドールができると思っていた。エロスの中の肉欲の部分はセックスドールが解消してくれるようになるんだと。実際、アキバ萌え街の近くにある風俗店に行けば、人間の代わりに精巧なドールが相手をしてくれるところがある。セックスのシミュレーションくらいだったらいまの不完全なAIでもできるから。だけれどそれは、どちらかというと趣味の問題でね。現実はもっとずっと冷徹だ。肉欲の解消にドールなんていらなかった。こっちのほうも、脳に埋め込んだチップのスイッチ一発で解決できてしまう」
「嫌な話ね」

「だけれどこのスイッチも動物としての人間を満足させているにすぎない。心の性欲を満たしてくれはしない。生理的な要求なんてものは加齢によって衰えていくものだ。最終的には、後天的につくられた性に対する欲望だけが人間に残る。いまでも、わざわざ仮想空間でバーチャルセックスをする人たちがいる。なぜだと思う? コミュニケーションをするためだよ。相手をもてなして、欲望を相互確認し合っているんだ。結婚も同じだ。結婚は、老人になったときに一番身近で誰とコミュニケーションをとるかの選択だとも言える。結婚することによって、人は、互いにコミュニケーションの相手になることを保証し合う。だから、夫婦間コミュニケーションのない夫婦は契約破綻して熟年離婚する。ドールが流行らない理由も同じだ。精巧にできたドールは、セックスという行為はできるが、セックスに付随するコミュニケーションはできない。いくらシナリオやソフトをドールにダウンロードしても、完璧なAIがなければそれは本当のコミュニケーションに感じられない。そうである以上、ドールは、妄想の補助道具であり、どれだけ脳内で妄想ができるかという個人の能力に帰結する。完全な妄想ができるなら、携帯デバイスのエロ画像と右手で性欲は解消できてしまう。現に中学生はいまでもそうやってオナニーしているからね。つまり、心の幸せというのは——」

なおもまくしたてようとしたとき、泉藤の胸元で音楽が鳴った。近所のコーヒーショップが流している宣伝用ソングだ。海を渡ってやってきたおいしい豆を飲もうよ飲もうよと3人の子供が合唱している。大音量である。一瞬肩をすくめ、胸ポケットから泉藤は携帯デバイスを引っぱり出す。この陽気な音楽が彼の着信音のようだった。

「もしもし……え? なんだ。待てよ。おい、この番号にはかけるなと言ってるじゃないか」

泉藤らしくない粗野な声だ。こんなしゃべりかたで応対していたらひとりも患者はつかない。いままで見たことのない一面だった。雲の上にいる神さまに紐に引かれたように泉藤は立ちあがり、足早にとなりの部屋へ行ってしまった。中途半端に開いたドアの隙間から興奮気味の声が漏れてくる。
「——見失った? なんで。それが仕事なんだろうに。PSPカードが急に使えなくなった、と。橋を通るにもいちいちクレジットカード番号を聞かれる? 登録したらメルマガが一分あたり10通届くようになった? あたりまえだろうが。それが南関東なんだよ。いったいなにをしているんだ……いや、そうじゃなくて……しかたがない。場所検索をしてやる。できるんだよ。担当医師は。そういう権限があるの。ただし一度だけだぞ。それ以上だと、プログラムの誤作動ってことにできないからな。南関東か東京首都のどちらかにいればわかるはずだ。なに? 川? 川だって土地には変わりないだろうが。誰かが管轄してるはずだ。海まで流れていってたらわからんがな。切るぞ。わかったら連絡する。そうだ。わかったら、だ」

泉藤が戻ってきた。
質問するのもどうかと思っていたので黙って見つめていると、精神科医は、椅子に座るのではなく背もたれの部分に腰をあずけた。そのまま、浮気がばれた男のように弁解をはじめる。

「たとえば10人のチームがあったとする。重要な患者の行動を監視するのに9人、そうでもない患者を監視するのに1人、それぞれ人員を割くとする。このとき、そうでもない患者のほうには、10人の中の何番めに優秀な奴をあてるかという、いまのはそういう話なんだ。あなただったらどうする」
「一番上じゃないでしょうし、2番めか3番めかしら」
「そうするのが普通だよな。でも、一番下を使っちまったんだよなあ」
泉藤は深いため息をついた。

「それは、まるで、失敗したがっているように思えるわね」
「そういう奴もいるということだよ。誰もが本心から成功したいと思っているわけじゃないんだ。失敗して罰せられることを目的に犯罪を犯す自罰パラノイアなんてのもあるくらいでね……いや、今回の件には関係ないんだが。だいたい、ツーマンセルの相手が事務所から動けないぼくってのが根本的にまちがってる」
「マンセル? むかしいたF1ドライバーの?」
「あなたは変なことに詳しいな。こっちの業界の専門用語だよ。気にしなくていい」
「なんでも知っておきたいの。医学の言葉は難しくてわからないけれど。いざっていうときに恥をかかないように」
「見上げたこころがけだね。もっともぼくは、借り物の知識を100も200も装飾するよりは、ひとつの学問を深く極めたほうが人間として賞味期限が長くなると思うけどね。さて、時間もないことだしセックスでもしようか」

さんざん言語の虚構性だのコミュニケーションの重要性だのと御託を並べておいて、この男はいつもこれだ。もしかすると、こうした会話が、この男にとっての歪んだ前戯なのかもしれない。すくなくとも、夫の下手な愛撫よりは肉体の芯を熱くさせることはたしかだった。

泉藤円は、女性を食いものにしているつもりか、それともヒマなカリスマ主婦に知的興奮と慰めを与えているつもりか。あるいは実はなにも考えていないのか。言葉はもともと空虚なものだという。ならば、そのほとんどが言葉で構成されたこの男もまた空虚だということになる。体内に溜まった液体を吐き出してしまえば、この男の中にはなにも残らないのかもしれない。泉藤が近づいてきた。首筋に吐息を感じた。ゼラニウムの吐息だった。

そっと目を閉じる。すべてが暗闇になる。
いまはまだ身を委ねておくことにしよう。この男によって大きく成長した器が、男の存在を飲み込んでしまうそのときまで。

2007.05.27
4thターンまでのかんたんなあらすじ。

2045年、11月のある日。世界には「天才的な数学者が開発した、ありとあらゆる暗号を解読してしまうというプログラムが、この日にばら撒かれる」といううわさが飛び交っていた。もし、噂が本当だとすると世界は大混乱に陥ることになる。プライベートな個人情報から金融資産の管理、企業のシステムから公的機関のデータベースまで。あらゆるセキュリティが崩壊し、世界の秘密が白日のもとにさらされることになるからだ。このうわさに激しく動揺する人もいれば、まったくのデマと完全に無視できる人もいた。しかし多くの人間は、心のどこかでこのうわさのことを気にとめながらも、いつもと変わらない自分たちの日常を営んでいた。

この日、南関東州かわぐちの町でひとりの少年と少女が出会う。少年の名は小野寺笑男。少女の名は海神れい。あるカリスマ主婦と精神科医の不倫をネタにして、ネット掲示板上のカーニヴァルを起こそうとしていた笑男は、街の監視カメラに干渉する不思議な少女の存在に気がつき、彼女と出会ったのである。れいは数学者の兄に会おうとして、街に出ていた。彼女は笑男に彼女のライフサポート犬を残して、再び研究所への小さな旅を開始する。そうしたれいの周囲には、不思議な外国人の姿があった。

匿名掲示板を舞台に情報を操作して、人々の反応を楽しむ青年。天才数学者と病気の妹。高齢者が集うケアハウスで、恋敵を殺害しようとする老人。みずからの欲望をかなえるために世界の混乱を期待する主婦とその愛人。事件の鍵を握る元高級官僚の老人。流暢な日本語を操る怪しい外人。かわぐちに集ったさまざな人の人生が、この日に起こるという巨大な「カーニヴァル」を目指して交錯して行く。しかし街はまだ、平静をたもっていた。

2007.05.28
第39話「working pure(1)」君島フランツィスカ史帆

人民は搾取されている。

——といったのは父だ。元はどっかの国のえらい人の言葉っぽいんだけど誰かは知らない。もちろん父も知らなかった。どこかで聞きかじった借り物の知識を披露しただけらしい。

どちらかといえばウチは貧乏の部類に入るんだと思う。いまはバイトの最中だ。父はケガをして休職中で、このバイトは家計を助けるため。母はいない。一見、美談っぽいけれど本人はたまったもんじゃない。

バイト先はソウルケアハウスかわぐちである。作業は簡単なものばかり。いまの世の中、掃除だっておおまかなところはロボットがやってしまうし、タイルは勝手に光と反応して臭いを消すし、窓に“桟”なんかついてない。ドラマの中にだけ存在するババアが指でほこりをとったりする場所は存在しないのだ。ただ、こまごまとしたことを片付けているとヒマな老人が突然話しかけてきたりして、ウザイから無視したりすると減給されるので油断ならないのもたしかだった。

「フランツィちゃん」

ほら、呼ばれちゃった。ソウルケアハウスかわぐちは、アジア・アフリカ系の外国人ばかりで日本人はすくない。だからここではフランツィスカと呼ばれていた。外人にはそっちのほうが呼びやすいらしい。母親がドイツ人といっても、小さい頃に死んでいて、ドイツ語なんてこれっぽっちもしゃべれないのだけれど。ちなみに、どうやら名家らしい母方の祖父母は音信不通だ。

「タツノさん、どうしたの」
ここでは相手を名前で呼ぶのが基本だ。所員は全員、スカウティング・グラスと呼ばれる眼鏡型デバイスを装着している。所内のライフログデバイスが収集したプロフィールやステータスは、人物の像と重なるように字幕みたいに表示される。これのおかげで、名前をまちがえないですむし配膳や投薬が正しい相手に届くって寸法なのだ。バイトに見える情報はたいしたものではないが、ケアワーカーの資格があれば、病歴や脈拍まで見えたりするらしい。進学校や進学塾では教師が使っていたりもする。

しゃべりかけてきたのは通いの婆さんだった。川口に独居していて、息子一家は現在沖縄州にいるらしい。3割ほど空気の抜けた風船に丸々としたお盆を乗っけたような外見をしていた。しなびた風船の体が、風もないのに落ちつきなく揺れている。思い出した。そういえば、1回だけ話したことがあった。

「こわいわねえ」
タツノさんは言った。わかんねーよ、と思ったけれど、業務スマイルでやりすごす。
「なにが怖いの?」
「ほらセキュリティの危機っていうのがニュースで言われてるでしょ。プライバシーがなくなっちゃうって。悪い業者に悪用されちゃうんだって」
「はいはいはい。それ、聞いたことあるよ」
「こわいわねえ」
とりあえずうなずいておいた。タツノさんはつづける。
「それでね。拡散したプライバシー情報を消してくれるところがあるんだって。30万円かかるって。これって、高いのかしら?」
「はあ?」
「だから30万円。高いのかしら。安いのかしら」

だんだん事情が読めてきた。そういう輩がいるという話を所内報で見たおぼえがある。ソウルケアハウス周囲に集まる老人のライフログ情報をかき集め、独居老人を割り出して訪問する悪質な業者がいるらしい。ライフログ発表会で、自分の経歴をほんのちょっぴり華麗に仕立ててしまった老人は、嘘がばれるとひどい目に遭うと業者に脅される。それを防ぐには30万円かかると言われているわけだ。たしか所内報には、老人に相談されたときの対処方法も書いてあった。なんだったっけ。

「それ、新手の詐欺だって絶対」
「親切な人だったのよ。いまだけサービスだって。セキュリティの危機が起きてからだともっとかかるっていうの」
「いやだから詐欺——」
「息子は仕事がいそがしくて話はできないし。こわいわねえ」

30万なら忙しい息子も確実に聞くと思ったけれど言葉を飲み込んだ。老人は、話を聞いてほしいだけで、答えを求めているわけではないのだ。だいたい、怪しい男を家に迎え入れて話を聞く時点でどっかおかしいし。そうだった。そうだった。マニュアルに書いてあった。1/4も人生を生きていないバイトに答えなんか要求しないって。わかってるさ。

「本当にこわいわねえ」
タツノさんはまだ言っている。話しかける相手が、いつの間にか、廊下を通りかかった別の老人に変わっていた。おーい。話しかけといてこっちはガン無視かよ。なんだ。あたしは懺悔を聞く牧師か。

そのとき、友人からショートメッセージが来た。やっべ。サービスを切ってなかった。あとで主任に怒られるかも。でも受信しちゃったんだからしょうがない。携帯デバイスを開く。
>いまモールのとこにいんだけど、シホ、現金売り見た?
なんだそりゃ。返答を入力。送り返した。
>現金売ってんだよ、現ナマだよ現ナマ。夕方になったら電子マネーとか使えなくなんだって。いま交換しとくとすっげー得なんだってさ!
あたま痛。友人ながらつける薬なしだ。返信する。
>見ない。興味なし
>そう言うなよ。ノリ悪ーよ。シホ、一緒に買わない?
>買わない。おまえも買うな。絶対だ
>どこにいんのよ。位置検切っててわかんねーよ
>いま、家。勉強中

携帯デバイスを閉じた。タツノさんは、10メートル先でまた違う人に相談している。やれやれだ。

ショートメッセージで友人に送った言葉も、嘘だといえば嘘になるんだろう。本当はバイトをしているのに書いた返事は勉強中。それは、タツノさんがライフログ発表会でついたちいさな嘘と変わらなかった。貧相なアパートメントの位置を高校の同級生に探られるのも嫌だし、親の代わりに家計を支えているのも知られたくない。ファストフードやブティックならともかく、ソウルケアハウスで働いているなんてありえないし。

あーあ。世の中はバカばっかだ。
マジウザイ。

2007.05.29
第40話「working pure(2)」君島フランツィスカ史帆

物心がついたときの最初の記憶は、機械油と金属が溶け合う不思議なにおいだった。

父の仕事はバイク便だ。彼の休職は業務中の骨折が原因だった。バイク便というのは、時間指定を受けた荷物をバイクを使って先方まで送り届ける仕事である。時間指定がゆるいものは安価な自動配送ルートに乗るから、バイク便の受け持ちは制限時間のキツい荷物だけだ。川口から川崎まで30分とか、ありえない指定もある。細くて車高が高く急加速可能なエタノールエンジンバイクで、ライダーたちは道路をすりぬけていく。

父は言う。むかしは道に煎餅がよく落ちていて危なかったが最近は減って安全になった、と。煎餅ってなんだか知ってる? ペチャンコに潰れた空き缶のことだ。ハンドルを切ったときに前輪が乗ると、スタビライザーとか関係なく問答無用で転倒してしまうそうだ。あるいはこうも言った。客を見つけたタクシーの急制動をマシンが教えてくれるので事故が減ったとか。ライダースーツの素材革命で、むかしより冬の寒さがだいぶ楽になったとか。

ないない。正直ないよ、それ。楽になんかなってない。ぜったいなんかに騙されてる。
だけれど父は聞かない。タツノさんと同じだ。

バイク便に社会保障はない。ライダーひとりひとりが企業と契約する業者という扱いだからだ。賃金は、走った分しか貰えない。骨折したら無給状態である。父はいつも不満を漏らしている。そんなに待遇が悪くてキツいなら辞めればいいのに、別の職に就くという選択肢はないらしい。「サーキットでも骨折するし、人も死ぬ」とか言うのだ。それ、おかしくない? あんた、レースしてるんじゃないでしょうが。だいたい骨折してるんだから違う仕事を探せよ。体を直したらつづけるとか言って、日がな一日バイクをメンテしたりすんな。

自分の父親ながら、ワン・オブ・バカズでうんざりだった。取り柄といったら人がいいところくらいしかない。欧州からはるばるやってきたあげく貧乏人と結婚し苦労した上に早死にしてしまった母親のほうはバカ・オブ・ザ・バカで、これはこれで希少価値があるんじゃないかと思う。だけれど、父と、そのDNAを半分受け継いだ娘である自分は、世の中にうじゃうじゃいるバカの中のひとりでしかなかった。

父に、将来の展望とかはないのだと思う。最近は、「バイク便は、ただ目の前にある道を走るだけだ」とか、哲学的なんだか投げやりなんだかわからない境地に達した言葉を吐いたりしている。「いいか、史帆。世の中は、拾う神あらば捨てる神ありだ」とか。いや違うって。それ、ぜんぜん負けっぱなしだし! 21世紀も半ばだというのに、なんでバカにつける薬が発明されてないんだろう。

そんな男の娘に、将来の道などというものが見えないのも当然だった。高校を卒業したら家は出ていきたいし、この境遇から脱出するには学歴をつけるしかないのはわかっている。だけれど、タダで大学に行けるほど頭はよくない。だいたい、いちばん時給が良かったのはショッピングモールのフードコート店員だったのに、わざわざケアハウスとかを選んでいる自分はマジウザイ。ありえない。一度死んで生まれ直したほうがいい。なにいい子ちゃんぶってんだよ。ソウルケアハウスに集まる老人たちは、それなりに働いてきて、それなりに貯蓄をして、あとは墓場に行くまで心の幸せを保てばいいって連中なんだよ。ライフログ抹消で30万詐欺られても、そんなのはへっちゃらなのだ。明日のごはんの心配をしている人間とは違う。バイトでこんな選択をすること自体が、人間の器の限界ってやつなのかもしれない。あーあ。

肩を落として廊下を進んでいると、ハナ先生の部屋から出てくるご近所さんを発見した。スカウティング・グラスに表示された名前は小野寺明。領家に息子夫婦と住んでいる。赤字で書いてあるのは「パワーアシストスーツを装着しているので転倒に注意」。はいはい。わかりましたよ……っていうか、近所の小野寺? って、あの小野寺か。把握した。

小野寺老人は、こっちの顔と胸のIDを見て思案顔をしている。IDには、老人でも識別可能な大きな文字で「きみじま」と書いてあった。

「もしかして、君島さんのところの……」
老人が言った。了解のしるしにうなずいてみせる。
「そうだよ。オノデラさん」
「なるほどそうか。大きくなったねえ」
小野寺老人の表情が柔らぎ、目の焦点がぼやけた。目の前にいる人物ではなく、その背後にある歴史と記憶を見る目つきだった。老境に入った人間はよくこんな顔をする。いま身につけているのはバイト用のピンクの介護スーツで、けっこうかわいかったりするのだけれど、全然見ていないのだろう。ちなみに、髪の色は母親譲りの褐色で、瞳の色はペール・グレーとペール・ブルーの中間だ。黒髪が流行ったときはなんだかなあと思ったものの、いまはまた脱色系に移りつつあってそれなりに気に入っている。

また小野寺老人が言った。「たしか名前は……」
「シホだよ。史帆」
「そうだ。史帆さん。働いてるんだ。えらいね」
「べつにえらくなんてないよ」
「そんなことない。ウチの孫とは大違いだ」

孫というのは、おそらく彼のことだ。名前はええと、そうだ、エミオ。笑男といった。小学校の2年上で、集団登校の班長をしていた。あの頃は、慣れない朝ごはんづくりで登校が遅れがちだった。いつも迎えに来てくれたのを憶えている。6年も前のことなのでもはや顔ははっきりとしていないが、繊細そうな人だった。たぶん。彼の顔が記憶にないことそのものになぜか胸がちょっぴり痛くなった。なんでだ?

残念ながら、スカウティング・グラスは6年前の記憶を映し出してくれたりはしない。
まあ、どうでもいいか。そういうの、めんどくさいし。

2007.05.30
第41話「working pure(3)」君島フランツィスカ史帆

「ウチの孫はギートなんぞやって困ったものだ」
小野寺老人は言った。

「そのギートって、よく聞くけど、実際のところはなにやってんの?」
「見た目は、そうだな。ただのゲームだな」
「それも知ってんだけどさ。ゲームはゲームでしょ? 仕事なんじゃないの?」
「いや……」
老人は困ったような顔で左右を見回した。廊下にいるのはふたりきりだ。ライフログ発表会会場からまばらな拍手と笑い声が聞こえてくる。老人の背後の壁には、大きなゴシック体で「ソウルケア強化月間。お年寄りの悩みを聞いてあげましょう!」と書いてある。この文字は、スカウティング・グラスをかけていないと読めない。

「世の中にはな、コンピュータがやるより人間がやったほうがうまくいくし結果的に安く済む仕事っていうのがあるんだよ。人の好みとか、物事がこの次にどうなるだろうという判断とかね。そういう仕事をゲームに見せかけてやらせるのがゲームプレイ・ワーキングでな、ギートはそれをやってるんだよ」
「それ、けっこうすごくない。コンピュータにもできないんでしょ?」
「いや、史帆ちゃん。ゲームってのは本来そういうものじゃないんだよ。金になるとか、社会に役立つとかじゃないんだ。もっとこう……わたしの時代は、楽しむためだけにやっていたんだがねえ」
老人の最後の言葉は、昔を懐古するため息混じりだった。

「オノデラさんの怒りポイント、そっちなんだ」
「なにが、かな?」
「真面目に仕事をしないのを怒ってるんじゃなくて、ゲームを仕事にしてるのを怒ってるんでしょ。なんだかおもしろいね」
「そういえばそうだな」
顔を見合わせた。ふたりで笑った。薄グリーンの壁が笑い声を吸いとっていった。

笑男は笑男でビミョウな人生を歩み出しているようだった。彼らしいと言えば、らしいかも、と思った。子供の頃、ほんのすこし擦れ違っただけの人だが、奇妙な親近感がある。そうだった。思い出した。彼が毎朝迎えに来た理由! そうだそうだ。あるとき、家の前の通路に、丸くて白い物体が2個、ころんと転がっていたのだった。

いまも住んでいるそのアパートメントは40年前の最新型で、むかしはついていたらしいセキュリティは機能していない。犯罪者も野生動物も入り放題。ハトも飛び放題フンもし放題。荒川の河川敷で拾ってきたらしき葦の切れっぱしも持ち込み放題。通学路に出現したハトの巣を、笑男は、毎朝見にきていた。

青葉の腐ったような独特のにおいがして父には不評だったが、ちゃんと掃除をするからと言って許してもらった。隣に住んでいた寂しがりの婆さんも、ときおりエサをやっていたようだ。2週間くらいして、ふわふわの毛が生えた子バトが生まれた。残念ながら生まれる瞬間は見れなかった。親バトの下にある物体の色がヘンだ、と思ったらそれが雛だったのだ。薄紫色の親バトと違って、黄金色をしたふわふわの毛の下からピンクの地肌が透けて見えていた。ちいさくてかわいかった。ところが、2、3日もしないうちに、ハトたちは突然いなくなってしまったのだった。

子バト消失の原因を探ったのが小学6年生の笑男だった。

なんでも、隣のビルについていた監視カメラの映像に内緒でアクセスしたらしい。記録から、ハトの雛はカラスにやられたことがわかった。カラスを見たのはそのときがはじめてだ。不吉なほど黒く大きな鳥だった。東京首都州からエサを探して飛んできたのである。南関東州はゴミの管理がしっかりしていて、カラスはあまりいないのに。ファッキン東京め。雛が食べられてしまえば巣はいらない。親バトがいなくなったのもそのせいだ。強いものが弱いものを搾取するのは鳥の世界も人間の世界も同じだと父は言った。なぐさめにもなんにもならなかった。

小学校のトイレからパクってきたデッキブラシを使って、白いフンの跡を泣きながら掃除した。たぶん、笑男も一緒に泣いていたと思う。年上の男の子が泣く姿が新鮮だった。デッキブラシを学校に返しに行ったとき、持ち出したのがバレて大目玉をくらったっけ。学校の備品にはICタグとかいうのがついていて、行き先を追跡されていたらしかった。

いまになって思うと、他人のビルに設置してある監視カメラを操作できた彼のことだから、もしかして、ICタグのこともわかっていたのかもしれない。理解していてわざと、先生に怒られたのかもしれない。あの説教は、たしかに、悲しい物語に前向きのエンドマークをつけ足してくれた。その彼がギートをしているというのはうなずける。好きなことならとことん追求するけれど、学校の勉強はあまりできそうでもない人だった。いまとなってはどうでもいいことだけれど。ずっと忘れていたくらいだから、彼だって記憶の彼方へ整理済みだろう。

セキュリティの危機とかいうものに、ギートの彼はどうするんだろう。

巷では危機なんて言ってるけど、それなりに社会が混乱して、日本から遠いどこかの国のひとつやふたつでテロや紛争なんかが起きたり、個人の秘密が暴露されて、ふたまたをかけていた恋愛関係が壊れたり不倫の夫婦が離婚したり預金残高とかクレジットの請求とかが狂ったり、その中で特別はしっこい何人かが一生遊んで暮らせるお金を合法的に掠め取ったり、そんな程度なのだろう。もしかしたら、ソウルケアハウスでバイトをしていることも友人にばれるかもしれない。でも、正直、どーでもいい。

なくなったお金はきっと補償されるし、補償した会社は保険会社に請求するし、保険会社はマイナス効果を保険金にすでに織り込み済みだしで、特段どうということにもならないはずだ。はしっこくない君島家は、セキュリティの危機が起きてもやっぱり貧乏で、娘はバイトで父はバイクをいじっている。プライバシーがなくなった人たちも、自分を再構成して生きていく。

つまらないな。このまま暮らしてたって、どうせいつかカラスがやってきて食べられちゃうのだ。
いっそのこと、なにもかも壊れちゃえ。

2007.05.31
第42話「好き好き大好きハナさん(5)」小野寺明

小野寺明若い者はいい。ハナ先生の執務室に入っていく史帆の後ろ姿を見ながら、そう思った。

10代の頃、40になったら自分は死ぬのだと思っていた。40代になったら70まで生きようと思った。70を過ぎれば、あの世の門くらいは視界に入ってくるものだと。だけれど科学は凄いものだ。抗老化技術の発達のおかげで75になったいまもぴんぴんしている。人生の終わりは見えない。それが幸せかどうかはわからないが。

抗老化技術が間に合わなくて死んでしまった世代のほうが幸福だったのではないかと思うことがある。妻に先立たれたときも思った。もちろん、ひとりになって、息子夫婦の家に呼ばれただけでも十分幸せな部類に入ることは承知している。孤独を抱える老人はたくさんいる。そんなことはわかっているのだ。

日中、家にいるのは仕事のない自分とギートの孫だけである。孫の笑男は部屋に閉じ籠もりきりで、別々にメシを食う。息子も嫁ももうひとりの孫も、勤めに出ていて家にはいない。やることがないので、日がな一日、旧世紀に流行したレトロゲームをプレイしている。ゲームとともに育った自分はゲームとともに老いるのだ。笑男にゲームを教えたのも自分で、そのせいでギートになったのかもしれない。すこし、責任を感じる。

坂を登るときに階段を選択したり、歩きにくい人込みの中をわざと進んだり、ちょっとした摂理に対抗したくなることがある。寿命もまた摂理だ。抗老化技術によって老いを抑えた人間は、神の基本計画を越えてしまった。その代わり、人間は、みずからがつくりだした新たな摂理には従順だ。20世紀が規則によって快楽を囲い込み文化を発展させる時代だったとすると、21世紀は快楽を解放して文化を発展させる時代だと言う学者もいる。人工的な快楽という摂理に、人は対抗しようとしない。歩きづらい道は歩かないし、座りにくい椅子には座らない。着にくい服も着ない。まずいものは食べない。そんなことをわざわざしなくても、人はそれなりに幸福で健康で文化的に暮らしていける。克己心と呼ばれたものたちは、20世紀という夢の中にしか存在しない。歴史のテキストと老人たちの記憶の中にしかないのだった。

むかしはたしか、人は、国家と戦っていたと思う。

正確には社会を構成する大人たちと若者は戦っていた。大人たちがつくった理不尽なルールに抗っていた。たしかに、自分たちの世代には敵があったはずだ。いまはどうだろう。国家の枠組みは事実上解体されて久しい。大人を通り越した自分は社会を操ってはいないし、社会を構成している息子の世代も子供たちの敵になっているようには見えない。そこには、優しく快楽で、無意識のレベルで人の行動を左右する環境工学だけがある。

敵という確固たる存在がない中、それでも、人は戦っている。そうだ。人は戦っているのだ。どんなときも。撤退戦だって戦いだ。だけれど、その敵はなんなのだ。古い小説に出てきた透明人間みたいなものなのか。ギートの笑男はカメラ映像を見て、それゆえになにかを探そうとしているのか。発表会で皆が見ているライフログ映像の中にだったらそれはあるのか。

ソウルケアハウスに集まる人々の興味は過去にある。それは、ライフログというバーチャルな映像の中にしか存在しないものだ。歳をとり、目の前の情景が薄ぼんやりとしていくに従って記憶の中にある情景は鮮明になっていく。風景を見ても、脳に蘇るのは過去の記憶の再生ばかり。あのとき体験した驚き、喜び、悲しみはいまでも新鮮だ。目の前にある川口の人工的な風景は、そうした感情を揺り動かしてはくれない。

ライフログ発表会に出ずに、自分も丸田と一緒に散歩に行けばよかったのかもしれない。不意に思った。丸田蔵人は不思議な男だ。ソウルケアハウスに来て、はじめて友人と言える存在だ。

老人といっても、ソウルケアハウスに集まる男女は元気いっぱいだ。恋の鞘当てなどは日常茶飯事。揉め事もよく起きる。だけれど、若かったときと同様にふるまうには、積みあげてきたものが大きすぎる。野生動物が威嚇しあうように、これまでの人生で獲得したものたちを誇示し合い、比べ合って、やっと安心して心の交流をはじめることができる。それには、長いながい時間が必要だ。抗老化技術によって寿命は延びたが、本当に心を通じ合わせるには、死ぬまでの数十年では短すぎるかもしれない。老人たちはそれほど臆病で、用心深かった。

でも、丸田は違うようだ。彼は飾るところがない。彼も彼なりに人生を積みあげてきただろうに、それらを見せることはない。あくまでも、いまを見ている。

ハウス内の検索デバイスで検索すれば、街に出ていったあの男をつかまえられるかもしれない。会ったからといってどうにかなるわけでもなかろうが、追いかけるのが自然な気がした。そういえば、あのときもそうだった。後に妻となった女性が海外で事故に遭遇したときのことだ。仕事を投げ出して駆けつけた。そうするのが当然だと思ったからだ。当時、彼女にはもっと親しい男友達がいたが、男は仕事で動けなかった。それが命運を分けた。

用を足したら発表会会場に戻るつもりだったが、やめた。発表会を見て、家に帰って、スーパーマリオのタイムアタックをいまさら0.1秒刻んでも意味はない。妙に気が急いた。

いまならまだ、いまを生きているあの男に、追いつけるかもしれない。

2007.06.01
第43話「セキュリティの静止する日(6)」海神結

海神結芝川の橋を越えると、そこはもう研究施設の敷地内だった。

広がるのは人工的な景色だ。歩いてきたマンションエリアも、研究所も、流れる川さえも、浅瀬を泳ぐ魚も本物とは限らない。着ぐるみのネズミが海賊船のミニチュアに乗ってやってきたって違和感はない。高層マンションと研究所の境は、そんなことを感じさせる奇妙な空間だった。

20メートルほど離れたところにある駅の出入り口にはちょっとした人だかりができている。IDをぶら下げた男が、駅から出てくる人に向かって15:00の講演は中止だと叫んでいた。そういえば、研究所と同じ敷地にある会場で今日は市民集会が開かれると聞いた気がする。

あしかわライナーは、マンションの敷地を貫き東から西へと走る交通システムだ。敷地内にある駅を降りても、住民のIDがなければ、周囲に広がる土地へ足を踏み入れることはできない。駅のホームから駅の出入り口までは、巨大なマンション棟をすり抜けるスカイウォークを使う。駅から南へは行けない。歩けば100メートルもない距離なのに、乗客は荒川を見ることができないのだ。アクアスクエア西駅から荒川の河川敷へ行くには、スカイウォークを抜けたあとで、20万平方メートルはある広大な敷地を迂回する必要がある。となりの駅まで行って、ホテルとカジノの中間地点から出ている渡し船に乗るのが、すぐそばの河川敷へ行くのに実はもっとも早いのだった。

川のそばの一角は論文を発表してからずっと工事中だ。「ご迷惑かけます」の札がかかり、作業をやっているようにも見えない空間がコーンで塞がれている。一見、中にはなにもない。だが、研究所にある赤外線カメラで映してみたら、装甲車みたいなごつい車が映っていた。光学迷彩だ。研究所の屋上から見下すと、川面で乱反射する光の変化に迷彩処理が追いつかなくて、うっすらと輪郭が見えた。

研究所の表門には、その他にもガラス部分を装甲で覆った灰色のバンが停車している。出入りするのは防弾スーツを身につけた警官だ。二重三重の構えというわけである。警察だか防衛軍だかそれとも企業だか知らないが、どこかの機関が研究所を監視している。突入のときを待っているのか、あるいは守ってくれているのかは判断できない。

ヘルメットのせいでどこを見つめているのかわからない警官に手を振り、研究所の門をくぐった。警官は微動だにしなかった。研究所の警備員はにこやかに挨拶した。

表の騒々しさとは対称的に、所内はがらんとしている。いざというときのことを考えて、研究所が棲み家になりかけてる人間の他は最低限の研究員しか出勤していない。見た目は、これから世紀のアルゴリズムが公開される場所とは思えない。もっとも、公開するのがアルゴリズムである以上、どこで公開しても同じだ。それが研究室にあるサーバであろうと、街行く人が持っている携帯デバイスであろうと。

 

海神結

ひとけのない通路を抜け、談話室についた。不機嫌な顔をした男が、長い脚を組んで椅子に座っていた。小野寺俊男だ。ひとつ歳は上だが、身分は自分の助手ということになっている。俊男は言った。

「こんなときに散歩とは気楽なもんだな」
「昼食を食べてきた。外の連中があわただしいな。なにかあったか」
「ラボスクエアで講演予定のおっさんが事故ったんだよ。いまどき車で事故だ。驚いたね。ところでおまえ、なにを食ってきた」
「ゲソの串焼きだ」
「……またオープン主義者か」
俊男は顔をしかめた。嫌そうな顔だった。米の上に生魚を乗せた食べものをはじめて食えと詰めよられた欧米人でもここまで嫌そうな顔はしないと思った。

「悪い連中じゃない。きみは嫌いのようだが」
「考えかたの違いだ。平行線だよ。昼にゲソを食う人間とは構造的に親しくなれないんだ。わざわざおまえの分も昼飯を用意してやったというのに」
「悪かった。なんだ?」
「ホーギーだ。冷蔵庫にローストビーフを見つけたもんでね」
「チーズ抜きだろうな」
「無論、入れてない」
「ならば食べよう。好物だ」
長身を折り曲げるようにして俊男は立ち上がった。コーヒーメーカーにポットをセットし、冷蔵庫を開ける。流れるような手つきだ。すぐにコーヒーメーカーから蒸気がたちのぼった。談話室に深煎りの豆の香りがただよった。

「ところで言いたいことがある」手を動かしながら俊男は言う。
「なんだ」
「今日来ることになっている古渡という男、どうしてもおれは信用がならない」
「信用は関係ない。たとえ彼が新たなバベルの塔を建設しようとしたってかまわないだろう。わたしたちと彼は、互いの目的を達成するための手段がたまたま一致していたにすぎないのだから」
「バベルねえ」俊男は首を振る。窓ガラスの液晶を通して、荒川脇にそびえる高層マンション群が見えた。「もう、千とか万のレベルで世界中に建っちゃってるように見えるけどな。このうえ1個増えたところでどうにもならんだろうに。おれが神さまだったら、とうにあきらめてる」
「そうかもな」

彼の言葉のとおりだった。すでに世界は分断されていた。聖書には、バベルの塔を見て神は人の言語をばらばらにしたと書いてある。その後3500年の歳月が経過し、人類は無数のバベルの塔を建設するに至った。そして、自分と気の合う仲間だけのバベルだけを整備し、発展させ、閉じ籠もり、別の人間が運営するバベルには興味を持っていない。いまさら神が世界を再結合してくれる見込みは薄い。ならば、結合するのは人間の役目だろう。

昼食の準備に、白衣で手を拭いた。
「洗えよ」
「高機能性繊維で10秒手を拭くと、30秒間真水で洗ったのと同じ殺菌効果がある。白衣は便利だぞ」
「おまえは初等教育からやりなおしたほうがいい。ほら、食え」
小野寺俊男が用意したのは見事なホーギーだ。スライスしたロールパンに、トマト、レタス、タマネギ、ローストビーフがはさまっている。味付けはバジルと塩胡椒。かぶりついた。しゃくっとした繊維質の歯応えとともに、鮮烈なバジルの香りが鼻に抜けた。

「最近、このあたりにやきそばの巡回屋台が来るのを知ってるか?」
「知ってるよ」
「あれはけっこう儲かるらしい。これだけうまければ、ラボが潰れてもサンドイッチ屋台で食っていけるぞ」
「よしてくれ」
俊男は肩をすくめた。

2007.06.04
第44話「セキュリティの静止する日(7)」海神結

海神結談話室に男が入ってきた。
ぼさぼさ髪の男だ。痩けた頬に不精髭が目立った。白衣を脱いだら荒川河川敷にいるホームレスと区別はつかない。もしかすると、栄養状態そのものはホームレスのほうがいいかもしれなかった。

「コーヒー、1杯いただきます」
0.5度ほど頭を傾け、男はコーヒーメーカーに向かった。大学を出たばかりの若い研究員だった。廊下のどん詰まりになった部分を寝ぐらにしている。
「どんなかんじ?」
俊男がたずねる。
「いま、つめのところなんで……終わったら寝るっす」

男は盛大なあくびをしながら出ていった。後ろ姿を見ながら言った。
「ほら、意外と便利なんだよ」
「なにがだ?」
「彼も白衣だっただろう。昼も夜も着っぱなしなのに汚れてない。寒い日はくるまると暖かいらしいし」
「やかましい」

「所長は?」
「今朝方、知多半島に脱出したよ。妹の息子が高熱を出したそうだ。半島の先っぽだから、もしかしたら電話も通じないかもとメールに書いてあった。甥の高熱に駆けつけるとはたいした親族愛だよ」
「知多か……あそこはなにがうまかったかな」
「海老だな。海老煎餅なんかもいける」
「じゃあ、あとでメールしておこう。部下へのお土産は海老煎にしろと」
俊男はくすりと笑った。

研究施設といっても、このラボは、薬品も使わないし巨大な測定器もない単なる知の集合施設だった。人が来てめずらしく思うのはサーバ・ルームにコンピュータの実機が置いてあることくらいである。もともと、不遇をかこっていた先々代の所長のために企業体とNPOが金を出しあってつくったものだ。先々代の所長が引退したいま、存在理由があるわけでもない。アメリカが圧力を加えている問題に、ポストの横滑りでやってきた窓際企業人がなにをできるわけでもなかった。

ホーギーを食べ終え、コーヒーを飲んだ。俊男は、若い研究員が残していった使用済みポッドの後片付けをしている。面積の割には薄っぺらい後ろ姿に向けて言った。
「そういえば、今朝、ひさしぶりに父親から電話があったんだ」
「いい親じゃないか」俊男が応える。手は止めない。
「ニュースで名前を見たらしい」
「心配してくれてるんだろ」
「そういうんじゃないんだよ。開口一番こうきた。おまえの研究が成果を出すと、プライバシーがなくなるって本当か? ってね。どうやらまた浮気してるらしい。浮気が原因で母と離婚したのに凝りない人だ」
「それはそれは……なんというか、たいした世の中になったものだな」

「しかたない。日本はそういう国だから」カップに満ちた黒色の液体をすすった。「たとえば、このコーヒーだが、17世紀のイギリスにはコーヒーハウスというものがあった。人はコーヒーを飲みにそこに集まって情報交換をし、より効率的なシステムを考案していった。わたしたちが研究している数学の発展も、株式市場も、保険市場も、みなコーヒーハウスからはじまったことだ」
「知ってるよ」
「つまり、数学も株式も保険も、17世紀後半では草の根文化だったってことだ。そうした文化の流れを直接継承する欧米の人間は、日本人と違って旧来のシステムへの信頼度が高い。なにかがまちがっていたら、皆で議論してまたつくりなおせばいいと思えるからだよ。だけれど、17世紀に後進国だった国はだめだ。それらの文化は輸入したもので、自分たちで考えたものではないから」
「ネットとコンピュータが発展したとき、日本はもう先進国だったはずだぞ。コンピュータによる文化の革命は、日本人もゼロから組み上げるのにひと役買ったはずだ」

「そのとおり。わたしたちは自分で誤りを正すことができるはずなんだ。見えない柵によって無意識のうちに行動が制限されてしまっているこの分断状態について、それが本当にいいのか悪いのかもう一度考えてみることができる。携帯デバイスという1杯のコーヒーで、誰もがこの議論に参加できる」
「議論になんかならんと思うがな」
「言葉を戦わせるだけが議論ではないよ。行動し、その行動が記録されたライフログを見たり見られたりするのだって、いまや立派な議論だ」

ふたりの携帯デバイスがピンと音を鳴らした。俊男は眉をひそめる。
「噂をすれば、だ。来ちまった」
今日は古渡一郎が来ることになっていた。俊男が携帯デバイスを引っぱりだす。
「3階、小野寺です」
「1階、警備担当統轄です」いつもの合成ボイスではない。30代ほどの男の声だ。「お忙しいところもうしわけありません。かわぐち署のかたがお越しになっています。州警本部には問い合わせ済みです。まちがいありません」
ふたりは顔を見合わせた。

「警察? 警察がなんの用? いや、用はあるのかもしれないけれどいま来るってのはなんだ。いや、なんですか?」
「護送中の逃亡犯が施設内に侵入したそうです。お通ししますか? まだ捜査令状がありませんので、拒否することは可能です。その場合、本社に応援を頼むことになりますので、ご指示ください」
「ちょっと待て。逃亡犯ってなんだ」
「存じません」
携帯デバイス越しの警備員の声は冷静だ。

「ごめん。3分待ってくれ。こっちで対応を決めるから」
「了解です。3分後にまた連絡させていただきます」
通話が終わった携帯デバイスを俊男は操作した。談話室の壁紙兼スクリーンがネット端末のディスプレイになる。俊男はニュースフラッシュを表示し、検索。実行。
「こいつか!」
昨夜未明、交通事故を起こした五十嵐貴男という男が護送中に逃亡していた。となりの会場で講演を開く予定になっていた男だった。

「どうする?」
「わたしたちに後ろ暗いところはない」
「外に装甲車が停まってるってのに、警察はなに考えてるんだ」
「“見えるほう”の装甲車の連中とは話はついているんじゃないかな。問題は見えないほうだが、だからといって犯罪者を追跡する警察を邪魔するわけにもいかないだろう。わたしたちは給料を貰って研究をしている善良な一般市民なのだから」
「言ってろ」
また、ピン、という音がした。

「お忙しいところもうしわけありません」
「なんだよ!」
警備担当統轄は厳粛な声で言った。
「1階受付に古渡一郎さんがお見えです」

2007.06.05
第45話「セキュリティの静止する日(8)」海神結

海神結1階に降りていくと、入り口のところで警備員と警官が押し問答をしていた。濃紺の防弾チョッキを身につけた壮年の警官の背後にアメリカンフットボールの選手と同じ体格の若手が5人、スクラムを組んで立っている。彼らの胸には、かわぐち101からかわぐち105まで、白いゴシック体でプリントがしてあった。対する警備員は3人。装備では負けてないが体格はだいぶ劣っている。白クマの群れに立ち向かうペンギンのようだった。

その様子を脇で眺めていた古渡がこちらに気づいた。近づいてくる。
「なぜ警察がいるんだ」
古渡は吐き捨てた。怒っているような口調だ。彼の怒りの矛先を向けられても対処のしようがない。横を見ると俊男も困っている。さあ、と手を広げてみせた。警備員と警官は言い合いをつづけている。聞いていると、犯罪者が逃げ込んで、凶器を持ってるかもしれないから一時的に施設を空け渡せということらしい。責任者らしき壮年の警官が怒鳴った。
「民間人は施設内から出て行ってもらう」

「なに!」
声をあげたのは古渡だ。警官は、なんだこの爺さんはという顔で古渡を眺めた。もう一度言った。
「ここは危険なんだ。生命の危険がある。許可のない民間人は出ていってもらう」
「おまえら、なんの権限があって——」
古渡の言葉を、俊男が強引に奪い取る。
「避難勧告とか避難命令が出れば荷物をまとめて出ていきますよ。おれたちは善良な市民ですからね。その前に、施設立ち入りの令状をお願いします」
背後に立つ警官たちの隙間から、壮年の警官はちらりと表の装甲車を見やった。

「とにかくここは危険なんだ」
「令状、ないんですね?」
「いますぐ許可をもらうことだってできるんだぞ。そうしたら強制執行だ」
「すみません。あなたたちが仕事であるようにこっちも仕事なものですから。施設を簡単に空け渡すわけにはいかないんです。令状をもらってきてくだされば、強制執行でもなんでも受け入れますよ」
「本当に危険なんだ」
「その危険から市民を守るのがおまえたちの仕事だろうに」
あさっての方向に向けて古渡がつぶやいた。警官は、頭の上に黒いもじゃもじゃを浮かべた。

「とにかく、施設内には入らせてもらうぞ」
「それはどうぞ。あとは施設の警備担当と相談してください」
俊男の言葉に、控えていた警備統轄が歩み出た。
「所内立ち入りには、1グループにつき1名、我々が同行させていただきます」
「かまわん。監視デバイスの情報をもらうからな」
「それにも令状が必要です。さいたま総合セキュリティ・サービスは、顧客のプライバシーの保護のためのすべての権利を行使します」
「なにかあったらどうするんだ!」
「法律の枠内で処理します」
「だいたい、おたくら、民間の警備会社でしょ? なんの権利があって犯罪者を捕まえるの?」
「私有地に不法侵入され、財産と生命の危険に晒された一市民の権利です」
警備統轄の言葉にはゆらぎがない。これではどちらが警官だかわからなかった。思わず、口許がゆるんだ。俊男が肘でこづいてくる。

「なに笑ってんだよ」
「この構図がおかしくてね」
「すこしもおかしくないだろうが」
「悪いことをやった男がひとり、施設に紛れ込んだ。まわりは装甲車だらけ。常識的に考えれば、ひとりの男など一瞬で逮捕できる数の人間が領家周辺には集っている。施設に勤めるわたしたちだって、もちろん男は早く捕まえてほしい。だけれど、皆自分たちだけの都合を優先して、他の人間の協力はしない。仕事の邪魔をするなと文句を言うだけだ。男は、のうのうと施設の中を逃げ回る。これは、いま、世の中で起きていることの縮図と言えないか」
「社会なんてものはなにもできやせんのだよ。群れる他人に期待するだけ無駄だ」
古渡が会話に割り込んできた。彼は、70過ぎとは思えぬ鋭い瞳で警官たちの動きを睨みつけている。

この状況における古渡一郎という男の役目はなんなのだろう。ふとそう思った。なにかの鍵となる人物なのか。それとも、状況に介入してきて、金を出す代わりにぶちぶち文句をもらす人間の役なのか。本人に聞いてみようかとも思ったけれど、横目で見ると、俊男が首を横に振っている。それは聞くな、ということらしい。彼も同じことを考えていたようだ。
「ところで、いまの縮図に例えると、おまえが逃亡犯役ってことになるぞ」
「そうかもしれないな。是非、犯罪者殿には逃げ切ってほしいね」
「無理だろうな。ライフログによる位置検索と監視カメラ。ひょっとすると、家でネットを見てる弟だって、いま頃逃亡犯の居所をピンポイントで掴んでるかもしれない。ここまで逃げてきたのだって奇跡だよ」

「例のギートをしているという弟か」
「そう。むかしから監視カメラを覗き見するのが趣味な奴でね。所内のは見られないとしても、ここにはたくさんカメラがある」
俊男は周囲を見回した。高層マンションを囲む塀に沿って、数十メートルおきにカメラが設置してある。透明な塀は、ところどころ半透明となり、カメラが撮った像を映し出している。あなたは監視されていますよ、ということを無言のうちにアピールしているのだった。
「見て、弟くんはどうするんだ?」
「さっぱりわからない。あいつは本当はやればできるんだが。なにを考えているんだか。子供の頃のIQテスト、あいつのほうがおれより高かったのに」
「それはなかなかだな」

「警察との話はついたんだろう。さっさと行くぞ」
古渡が言った。
「やれやれ。誰がここの主だかわからんな」
ちいさな声で俊男がぼやいた。古渡には聞こえていない。警備統轄と警官たちはグループ分けについて協議をつづけている。午後の陽射しが強い。警官たちの足元で影が濃かった。寝不足の研究員と逃亡犯とコーヒーと、セキュリティの危機をもたらすアルゴリズムが待つ研究所内へ、ふたりの若者とひとりの老人は入っていった。

2007.06.06
第46話「12万人の怒れる名無し(8)」小野寺笑男

小野寺笑男薄暗い8畳間で、8面のディスプレイがぼうっと光を放っていた。
領家にある古い一軒家だ。家にいるのは、ひとりの人間と1匹の犬、そして、ネットに繋がった無数の機械たち。人間の家族は外出中でいない。みな、自分のことで忙しいのだ。籠もっているのはヒマ人だけである。部屋の中は、食べ終わったインスタントやきそばのにおいで満ちている。

ひとつのディスプレイが、赤羽の街を歩く海神れいの姿を映し出していた。日付は10月27日。1ヵ月前の土曜日である。赤羽アジア街に設置されている街頭監視カメラの映像だった。どうやら、少女は、悪名高い精神科医の元へ定期的に通っているらしかった。いやちょっと待て。もともと悪名がついてわけではなかった。ちいさな傷を膨らませた結果、尾ひれがついて悪の医者になっただけだ。以前は、それなりに優秀な医師という噂だった……はずだ。

こんがらがってきた。噂を流した本人でも、もはやなにが嘘でなにが本当だかわからない。ネットはおそろしい。とにかく、問題はれいだ。彼女の周囲のことをここで整理してみることにする。

いち。海神れいは、おそらくなにがしかの病気で精神科医の元を訪れている。に。少女は、なぜか今日に限って監視カメラに映らない。さん。少女は、兄に大事な届けものをするのだと言っていた。よん。ライフサポート犬が突然走り出し、離れるはずのない主人の元から逃げ去った。その犬は、いま、ビー玉の瞳を輝かせながら映像に見入っている。画面の中の少女を本物だと認識しているのか、少女の映像なのだとちゃんと理解しているかはわからない。

カメラの不調もライフサポート犬の乱調も普通ならありえないことだ。このふたつはなにか因果関係があるのかもしれなかった。どこかの誰かが、少女の周辺の電子機器に妨害を加えているか、妨害するものを少女本人が持ち歩いているかのどちらかだろう。

あらかわ大橋付近で道を聞いてきたガイジンの大男も謎だ。これが、そのご。カタコトでしゃべっていたのに、本当は日本語が流暢なようだ。なにかがおかしい。大男とのトラブルが原因で、待っていると約束した橋のたもとから少女は逃げ出した可能性もある。まあでも、れいと大男が一緒にいないのは確実だった。右隅のモニターが大男の映像を継続して追っている。通話を済ませたあと、男はショッピングモールに入ろうとし、入店を拒否されて、いまは荒川沿いのホテル方面へと歩いている。不気味な男だ。なにを考えているかわからない。この男より早くれいの居場所をつかまねばならなかった。

電子のベルが鳴った。ちいさな音だ。視線をずらすと、ニュースを流しているもうひとつの画面に赤字で文字が表示されていた。
「わう?」
ななほしが首をかしげた。
「問題ない。ただのニュースだよ」
左手でななほしの首をなでつつ、ニュースをクリックする。

川口全域に犯罪者注意報が出たようだった。死亡事故を起こした男が護送中に逃亡し、川口近辺に潜伏中らしい。いまどきめずらしいニュースだ。その犯人は逃げ切れるとでも思っているのだろうか。バカだな。南関東州で、PSPカードなしでなにかをやるのは至難の技だし、かといって、PSPカードを持っていれば簡単に場所を特定されてしまう。それとも、逃亡犯のその男は、外国資本のものすごい警備サービスと契約していて、いざというときは銃撃戦をしてでも顧客を守るという契約になっていたりするのだろうか。それは熱い。掲示板では、もうすでに、何分で捕まるかトトカルチョが始まっていた。さすがだ。ヒマ人ども。尊敬に値する。参加、参加、と。

たしかれいは、犯罪者データベースに登録した人間はななほしが検知すると言っていたはずだ。その犬は、少女と別れ別れになってここでモニターを見ている。ほんのわずかな可能性だが、危ないかもしれない。世の中は危険がいっぱいだ。むかしむかし、すべての国民に背番号がついたら、人は国家に管理されて大変な世の中になると言われていたという。だけれど実際に背番号世界が実現してみたら、国家や警察にそんな余裕はなかったし、人々は、犯罪者を野放しにして警察はなにをやっているのだという大合唱している。たしかに警察は足りてない。

いざ事件に巻き込まれたら、警察を呼ぶ前に、PSPカードで加入している警備サービスに連絡したほうがよっぽど早く現場に到着する。警察の連中は、彼らが捜査したい事件だけを好き勝手に追う。やってくると面倒な連中だがいざというときあまり頼りにはならない存在だった。いやもちろん、社会のためにはなっているのだろうけれど。

だが、護送犯がトンズラしたとなれば、警察も本気を出すだろう。こういうときは警察の動きを見るに限る。当然、警察の動きを逐一チェックして公開しているヒマ人も世の中にいる。そのヒマ人のことも警察はチェックしていて、その警察もヒマ人はチェックしている。ウロボロス的な循環構造だった。

ネットの情報によれば、パトカーや自転車警官は領家に集中しはじめているらしい。おいおい。近所じゃないか。カメラ映像をザッピングさせる。高層マンションについている監視カメラが研究所を捉えた。兄が勤めている場所だ。門のところで、完全武装の警官隊と警備員が押し問答をしている。ビンゴ! 掲示板ではまだ誰もこの情報を追えていない。先んずれば人を制す、だ。

所内からふたりの男が出てきた。ひとりは兄だ。あまり家に帰ってこないと思っていたら、こんなところで事件に巻き込まれているとは。もうひとりは知らない顔だ。優しそうな、それでいて緊張感の溢れる表情をした男だった。白衣を着ている。違う。思い出した。高層マンションの敷地に入れてくれた親切な男だった。

映像を見て、ななほしがひと声鳴いた。
「おまえもわかるのか? これはいいかんじだ。オラもワクワクしてきたぞっと……って古いね」
「わん」
50年以上前のアニメを知っているのか知らないのか、ななほしは、おもむろに返事をよこした。

2007.06.07
第47話「12万人の怒れる名無し(9)」小野寺笑男

小野寺笑男偶然手に入れたカメラ映像がすべてのはじまりだった。

掲示板上では、患者に暴言を吐いた精神科医が最初にいて、みなで寄ってたかって過去の悪業を暴いていったことになっている。が、本当は順番が逆だ。暴言を吐いた医者の身辺を洗ったわけではない。医者のカメラ映像を入手したから、彼が患者に吐いたという暴言をわざわざブログから発掘したのだった。

秘密の映像を持っていることは掲示板に書いていない。あるんじゃないかという噂の種を撒いただけだ。尾ひれをつけてあることないことを書き込んだら、ある派とないよ派で論争がはじまった。ときには、ないよ派になって自作自演で論争を煽ったりもした。

匿名掲示板に話題が広まってから、精神科医は、ビルのカメラ映像を公開しなくなった。あのときは透明だった液晶ガラスはずっと不透明化したままだ。ライフログ削除サービス会社に依頼して、自分の過去の記録を削除したとも聞く。ネットが教えてくれた。

遅い。遅いよ。遅すぎる。

戦いは、最初の銃声が戦場で鳴り響くはるか前に終了している。ネットにトピックを書き込んだときにはすべての証拠は揃っていた。
戦いの犬を解き放つのが戦争開始の合図だった時代は2000年前に終わっているのだ。ことが起きてから対策をとっても手遅れだ。機械化された犬たちは何ヵ月も前からネットを徘徊し、精力的に情報を収集している。

もともと、ネットは刺激で満ちているものだ。たとえばハメ撮り画像などというものは世界にあふれていて、検索エンジンにヒットした画像を見ているだけで一生過ごせるくらいである。いまや、わざわざ探す人すらいない。流出画像でないと興奮しない特殊な趣味の人もいるという話だけれど、多くはそうではない。カメラワークはなってないか固定だし、ライティングはダメダメだし、ときには音声も入っていなくて、手持ちカメラだったら最低なことにガタガタと画面がぶれている。流出した他人の秘密ということで、中学生くらいのときは興奮したものだが、いくつも見ていると飽きてくる。死体画像と同じだ。同じタダで見るなら、見せるための演出が入ったアダルト映像のほうがよっぽどいい。

50年くらい前、放送メディアというのは、政府から許認可を得た放送局というのが独占し、10個ほどしかないサイトで番組を流していたらしい。いまは違う。ネットは、すくなくとも誰かひとりに独占されているわけではない。強い奴も弱い奴も金持ちも貧乏もいる。すばらしいものと、金のなる木と、犬の糞と便所の落書きが同じ場所にある。人は、みずからの意思で、それらを取捨選択するか、PSPカードのお勧めに頼るかしなければならない。

だから、カーニヴァルの燃料はなんでもよかった。previous75にけしかけられたとき、そこに、カメラ画像があったというだけのことだった。
以前、「心が痛まないのか」と書かれたことがある。「そんなことをして正義の味方を気どっているのか」とも書かれた。カーニヴァルの対象となった人間の友人らしかった。どこにいるかわからない名無しに向けて発言していた。見当違いもはなはだしい、と思った。

いままでも、人の悪い面だけをほじくり返していたわけではない。落ちるはずがない駅のホームに泥酔して転落した男がいた。彼を助けた名も無い英雄を燃料にカーニヴァルを起こしたこともある。いなくなった飼い猫を皆で追跡したこともある。

秘密の情事の映像も、人命救助の英雄も、どちらもカーニヴァルのための燃料にすぎない。区別はない。善悪もない。燃えさえすればなんでもいい。社会正義など関係ないのだ。このカーニヴァルも、ネットに流れる八百万のトピックのひとつにすぎないのだから。見たい者は熱中するし、興味のない者は無視をする。ネットは、見る者を映す鏡のようなものだ。燃料になりたくなければ、情事の映像など残さなければいい。いいことなどしなければいい。家に籠もって、ディスプレイを眺めていれば安全だ。

兄の研究所に侵入したという逃亡犯を探すかたわら、掲示板をチェックした。カリスマ主婦がクリニックに入って小一時間が経過しようとしている。飽きはじめている人間もいるようだ。トピックの流れが鈍化していた。研究所内のカメラにはアクセスできない。研究所の外にあるカメラで中を探らねばならない。ガイジンの大男は、モールの脇でなにか買いものをしている。なんだありゃ。現金か。現金なんてなにに使うんだ? まったくわからない。ブロックノイズを映している監視カメラは見つからない。カメラに映らない少女は、まだ“映っていない”。ななほしは、黙って、10月27日の海神れいを見つめている。

そろそろ、火をつける時間が来た。

言葉がすべてである掲示板では燃えさかることそのものが重要だ。野に放たれた犬どもがみずからの身体を火に投げ入れ、燃料と化してなにもない場所を燃やしつづける。ここからが腕の見せどころだ。尋常ではない手段に訴えかけねばならない。法的にも危険な橋を渡ることになる。

これまで、ずっと隠しつづけてきた映像を、今日、このタイミングで公開する。それも、録画ではいけない。ライブ映像のふりをする。赤羽アジア街の監視カメラに侵入して映像をすり換えるのだ。あとで録画だとバレてもかまわない。いまこの瞬間、ライブ映像だと皆が思うことが重要だ。それが、カーニヴァルへ参加しているというヒマ人どもの一体感を盛り上げる。この一瞬のために、何ヵ月も用意してきた。

掲示板に書き込んだ。

 >現地調査員です。赤羽に到着しました!

2007.06.08
第48話「12万人の怒れる名無し(10)」小野寺笑男

小野寺笑男 >現地調査員です。赤羽に到着しました!

嘘情報を書き込んだ。さっそくレスが返ってきた。

 >うわ。おれも行くよ!
 >おれも行きてー。20分でどこでも行ける弾道ロケットとかねーのかな
 >中国がどこでもドア開発したってニュース見たことあるよ。藤子プロと著作権で揉めて、まだ公開できないんだって
 >それ、ほんとにこの世界の中国だろうな

トピックがふたたび加速をはじめた。いい調子だ。これからクリニックに向かうことを書き込み、掲示板を見守る。
本当のところ、精神科医とカリスマ主婦がいまなにをしているのかはわからなかった。まともに診察をしているのかもしれないしセックスしているのかもしれない。仲良くババ抜きでもしているのかもしれない。まったく関係ない。このタイミングで同じ場所に閉じこもったのが運のつきだ。

世の中は、プライバシーと犯罪のバーター取引をしているのだ。他人の犯罪は監視したいが、自分の密会や汚職の映像を誰かに見られたら身の破滅である。みな、そんなことはわかっている。人に見られたら困ることを記録に残してしまうのは、そもそもその人物の人生の重みがその程度のものだということだろう。あるいは、みずから破滅することを望んでいる人というのが、世の中にはけっこういるのかもしれない。

高層マンションに設置されたカメラは研究所の窓を追っている。監視カメラ映像は、民家の窓ガラスを映すとき映像にモザイクがかかるようになっているが他のソフトで回避が可能だ。ばっちり見えている。逃走犯の姿らしきものはない。警察隊はすでに中に入ってしまった。ふたりの屈強な男が門を固めている。画面の下に、カメラに連動したフラッシュニュースが表示された。

 数学者の海神結(わだつみゆう)氏、画期的暗号解読のアルゴリズムを本日18時発表。
 内閣官房長官は「セキュリティに不安はない」と表明。

海神? そうか、わだつみって読むのか。めずらしい名前だろうに、ここでも海神なのか。ニュースをクリック。学者らしき男の写真が映った。「わん」ななほしが鳴いた。

ちょっと待て。考えた。こんな名前が川口にいくつもあるはずがない。海神はユニークであるはずだ。それに、この顔はついさっき見た。兄の横に立っていた男じゃないか。なにやらこんがらがってきた。いや、べつにこんがらがってない。キーワードは海神だ。すべて繋がった。後頭部にスパークが散った。今日起きたバラバラのできごとが、すべて形となり、たったひとつの塊に集約していく。思考が速すぎて言葉が追いつかない。眩暈がした。そうだ。あのとき親切だった男がそうだったのだ。あの男が、セキュリティの危機の主謀者であり、兄の同僚であり、なおかつ、現在行方知れずの海神れいが大事な荷物を届けるトコロの兄さまでもあった。日本語を話せないふりをしたガイジンの大男のことも理解できる。海神結の関係者だ。監視カメラにれいが映らないこともセキュリティの危機に端を発していると考えれば矛盾がない。

これはおもしろい。本当におもしろい。神さまも味なことをやってくれる。奥歯を噛んだ。ぎりりと音がした。

薄々はわかっていたのだった。なんの役にも立たないトピックをネットで炎上させいっときの興奮を共有していた自分も、本当は、世界の歯車のひとつだということを。この世の中は、なんとなく生きていけるしけっこう悪くない。生きることに興味がなくても、家でゲームをしていれば不自由なく生活できる。世界には金持ちも貧乏人もいるけれど、あえて見ようとしなければそれらの不平等が視界に入ることはない。ネットだけのことじゃない。道を歩いてたって同じだ。高層マンションの住人は、出口からスカイウォークを歩いてショッピングモールの入り口まで直接やってくる。外の空間とは区切られている。地域住民は、そんなマンション住人の姿を見ることがない。世界は分断されて、安全で、そこそこ幸せだ。

だけれど、そんな自分もまた、ひとりの名無しとして、大きな流れの中でなにかの役目を負っていることには違いないのだった。工学によって見えなくなっただけで、世界という大きな何物かは、けして無くなってしまったわけではない。セキュリティの危機によって、いまこの瞬間、世界はただひとつの方向に動こうとしている。
セキュリティの危機と川口のカーニヴァルは、本来関係ないものだ。繋げて考えるほうがおかしい。分断された状態で雑然とブラウン運動する名も無き人々は、セキュリティの危機を怖がっても、自分と直接関係ある物語だとは思わない。

誰が教えてくれたわけでもない。どこに書いてあるわけでもない。幾千幾万の検索ワードを入力しても、結果は見つからない。平和な日常生活を送っている人間にはわからない。previous75と名乗った個人だか連中も、まさか、依頼したネットジャンキーのギートが真実に気づくとは考えてないはずだ。それが正しい。普通は気づかない。でも、わかった。言葉で他人を動かしてきた自分には、光学迷彩で不可視状態になったすべてを繋ぐ細い糸みたいなものがたしかに見えた。川口のカーニヴァルは、セキュリティの危機を演出する物語の1エピソードだ。どこかの誰かがそれを利用しようとしている。どんな役目なのかまではわからないが、世界を揺るがす大きくてクソったれな物語に、自分は、否応なく加担せざるを得ない状況になっているのだ。

心がざわめいた。

血液が沸騰するほどムカついて、首筋と背筋がちりちりした。爪がてのひらに食い込んで痛かった。画面の文字がゆらゆらと揺れた。吐き気がした。もはや高揚はなかった。戦わなければならない。全身全霊をもって。指から発する言葉に己の全存在をかけて。もし、人生に全力をつくすときがあるとすれば、それはいまであるのに違いない。

世界の中心にいる人間は、世界の中心でしかできない戦いをするがいいだろう。誰も知らないネットの片隅で、名無しは名無しのケンカをやらせてもらう。もともと自分は名も無き存在だ。はじめからそうだったし、いまもそうだし、これからもそうだろう。それでかまわない。まったく問題ない。気に食わないのは、歯車を、大きな物語の一部へ組み込もうとする奴等の思惑だ。気に入らない。まったく気にいらない。こっちはこっちで、自由に回らせてもらう。

左手の甲に生あたたかい感触があった。下を向くと、ちいさな舌でななほしが手を舐めていた。ざらついた感触がこそばゆい。ディスプレイの光を反射した黒い瞳がきらめいている。もしかしたら、この犬は、犬なりに心配してくれているのかもしれない。そう思った。

「だいじょうぶ。ぼくは、まだ、だいじょうぶだ」

精神科医とカリスマ主婦の映像を用意する。この映像は、匿名掲示板に集う名無したちに衝撃をもたらし、心に地震と津波を引き起こす。噴きあがった感情の群れたちは、インドネシアだかどこかにある火山の噴煙と同じように空に巻きあがり、しばらくその場にとどまったあと風に吹かれて散っていくのだ。噴火をニュースで知る者は多いが、煙の粒子のひとつが長い時間をかけて大気中をただよい、誰も気にとめないどこかの土地にひっそりと舞い落ちるそのときを知る者はいない。だから、このムカつきはしまっておこう。静かに怒りながら、世界中に張りめぐらされたネットワークの末端に幾千幾万と接続する、怒れる名無しの一粒となろう。

そして、カーニヴァルの開催を告げるエンターキーを、そっと、押しこんだ。

2007.06.25
5thターンまでのぶっちゃけなあらすじ

時は西暦2045年。

世界は核の炎に包まれることはなく、このあいだの「週刊アスキー」のミーティングで決まったところによると、アフリカ大陸とかに原発がガンガン建設されたりして、Google Earthで見るとグリッド状に原発が何十基も並んでいたりして、まああとでこのあたりは東さんが書いてくれるでしょうが、人類もいろんな意味でヤバくなってきたなあ的な様相を呈しています。

そんな中、ある数学者が、画期的な暗号解読理論を発表したことがきっかけとなり、コンピュータに制御された社会は終わりだからぼくは地球を目指すねとか、わたしの預金が心配とか、実はこの世界は宇宙船だったんだよとか、いや暗号解読くらいじゃ世の中はどうにもなんねーよバカとか、監視カメラの暗号が解けたらアイドルのハメ撮り見放題! とか、それより腹減ったからやきそば食おうとか、2ゲットズサーとか、世界はいつもと同じようにスパゲッティ状に絡まっていました。

理論を発表した数学者がいる川口の街には、光学迷彩を装備した武装警官と松平アナが常駐して歴史が動くそのときに備え、腹に一物を隠した老人がやってきて、あるいは日本語に堪能なくせにエセ外国人風にしゃべる白人男性がうろつき、上昇志向の強いカリスマ主婦は著名な精神科医の下を訪れ、ギートの青年はそれを監視カメラで追いかけ、一方青年のお爺さんはお爺さんで友人だと思っている男に命を狙われている最中で、そんなお爺さんと会話しているのはギートの青年との思い出を大切にしている少女です。

こんなふうに、それなりに緊迫した状況とはまったく関係なく、海神れいちゃんの冒険はつづきます。

(あらすじだけではようわからんから最初から読むという人は、ここをクリックしてください)

2007.06.25
第49話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(5)」海神れい

●つづきから
 さいしょから

海神れいハシモト・ヒロカと名乗る村人と別れ、枯れた草とコンテナが形成する迷宮を進んだ。しかしあの女、一村人のくせにフルネームがあるとは生意気だ。もしかしたら、重要なキャラクターなのかもしれない。おぼえておこう。そう思った。

迷宮の道は狭かった。カーキ色に枯れた葦は、ところどころ背丈ほどもあって視界を遮っている。葦の向こうにあるのがたぶん荒川で、対岸に高層マンション群が建ち並んでいる。そのさらに向こう側にあるのが青い空だ。空の下で兄さまがお届けものを待っている方角から、ときおり、綿毛だか羽毛だかわからないものが冷たい風に乗って飛んできた。

いやいや、ここは地下迷宮だった。
自分はすぐこの世界の“設定”を忘れそうになる。悪い癖だ。気を取り直して進んだ。

不思議な踊りを踊る村人がいたコンテナからすこし離れたところに、円形状に草を刈った空間が広がっていた。中心部に白い丸テーブルがあり、ふたりの男が向かい合って座っている。ひとりは、歳はそれなりに若そうなのだけれど、村人というよりは魔法使いっぽいしわを眉間に寄せている。前に見たことのある彫像にそっくりだ。あれはなんというのだっけ。右ひじを左のひざに乗せているあれだ。格好を真似してみたら、そりゃあそんなふうに無理矢理体をねじって座っていたら顔もしかめるだろうみたいなかんじだったあれだ。男は、とにかくそんな顔をしていた。もうひとりは、やけに陽気な笑顔で、小刻みに体をゆすっている。通知表の「落ちつきがありません」欄にチェックを入れられるタイプだった。

白い丸テーブルの上に置いてあるのはたったひとつ。銀色の小さな箱だった。ロボットが出てくるアニメの悪役の秘密基地に設置されている自爆スイッチみたいな箱である。真ん中に、丸くて赤いボタンがこれみよがしにひとつついている。ふたりの男は、そのスイッチを囲んで、しかめっつらをしたり笑ったり、世界の破滅をもたらすボタンをどちらが押すか決めかねているようなかんじで見つめ合っているのだった。

そろそろと足を進める。剣の先が枯れた下生えにひっかかって、がさりと音がした。
彫像風のしかめっつら男がこちらに気づいた。

「ねえ。そこの剣士っぽいきみ……そう。きみだ。ひとつ、お願いがあるんだが……」
死にそうな声だった。そういうのは聞いたことがないので想像なのだけれど、飲まず食わずでずっと砂漠を旅してきた人が「み、みず」と言うときに出しそうな声色である。
「なんだ?」
油断せずに答える。
「きみ、このボタンを押してくれないだろうか?」
無茶苦茶怪しい。剣の柄を握りしめた。
「世界を破滅させるボタンだったりしないだろうな」
「情報世界を沈没させるのはわたしの役目じゃない。他の奴がやってるよ。このボタンはもっとずっと私的なものなんだ」
「なんでわたしなのだ? 目の前に座っている人間に押してもらえばよいだろう」

「それは無理だね」質問に答えたのはずっと笑っていたもうひとり男だ。「このスイッチには指紋認証システムがついてるんだ。だから、生身の人間じゃないと押せないんだね」
「つまりおまえは人間じゃないのか? まもの?」
下段に剣を構える。シャキーンと電子音が鳴り響いた。
「いや、ぼくは魔物じゃないよ」
男はいかにもつくりものっぽい笑みを浮かべる。
「嘘くさいぞ」

「まあ、たしかに、生身というわけでもないんだが……」
言いながら、男は両手で頭を持ちあげる。首と胴体が離れた。首のない胴体はやっぱり落ちつきなく動き、胴体のない頭はにこやかに笑っている。両者を繋ぐものはなにもない。離れた首と胴体のあいだから、しかめっつら男の陰気な目が見えた。
「わ!」
「この体はロボットなんだ。本当の体は他の場所にあって、遠隔操作しているんだよ」

そういえば、兄さまに聞いたことがあった。世の中には自由に動けない人がいて、代わりにロボットの体を使っていることがあるという。
「それは悪いことを言った。ごめんなさい」
剣を左手に持ちかえた。ぺこりんと頭を下げる。
「いや、ぼくはべつにきみが思ってるような病気じゃないからあやまらなくていいよ」
「どういうことだ?」
「この体は趣味みたいなもんだ。まあ、肉体的に必要じゃないだけで、精神的に必要なんだから広義には病になるのかもしれないけど、残念ながらぼくが加入してるPSPだと保険は下りないな」
「体の代わりに使ってるんじゃないのか?」
「ちゃんと体はある。操作してるのはゲームパッドだよ。むかしは脳に繋いでた人もいるけどね。神経にデバイスを直接繋ぐと、そのデバイスを動かす回路が脳に増えちゃうんだ。脳っていうのはそういうフレキシブルなものでさ、脳の容量は限られてるから、身体の他の部分を動かす回路が圧迫されるんだ。ずっと前、それで社会問題になったんだよ。手足を失った人はいまでも神経接続するそうだけどね」

なんだかよくわからない。さすがは謎の地下迷宮だった。

2007.06.26
第50話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(6)」海神れい

海神れい「すまないが……そろそろ……ボタンを押してくれないだろうか」

切れ切れの声がした。いまにも死にそう、というか、正直なところゾンビでももうすこし元気なんじゃないか、みたいな声だった。振り向くと、白い丸テーブルに、陰鬱な顔をした男が頬杖をついていた。

男が押せと主張しているボタンが、世界破滅のスイッチではないとまだ証明されたわけではない。悪い連中ではないように見えるが、悪人が見たまま悪人だったらそもそも子供が犯罪に巻き込まれたりはしない、と学校で習ったし。剣を構えるのもなんなので、ぺらぺらの盾に隠れるようにして言ってみた。

「おまえも生身じゃないのか?」
男が答える。「いや、わたしは生身だよ」
「なら自分で押せばいい」
「もちろんわたしはボタンを自分で押せる。もともとはそうだった。そのために医者はこのスイッチをわたしにくれたんだからね。だけれど、わたしは、わたしが人間でいるために、自分の指でボタンを押さないと決めたんだ」
男は微笑した。弱々しい笑みだった。
「なんで、ボタンを押すと人間じゃなくなるんだ?」
「それはたいへんに難しい問題だ」

ここは、荒川にある中州——じゃなかった地下迷宮だった。きれいに草が刈りとられた広場に椅子とテーブルがあり、ふたりの男が座っている。近くの木にはカメラが取り付けてあって、テーブルを囲む男たちにレンズを向けている。カメラと反対側の草むらにあるのは立て看板だ。ちょうどフレームに収まるようなかんじで置いてある看板には「誰かこのボタンを押しに来てください」と書いてあった。カメラ映像がネット経由で配信されているとすると、この男たちは誰彼かまわず、ボタンを押してくれるよう要請していることになる。ますます世界破滅ボタンっぽくもあるし、いくらなんでも違うだろうという気もした。しかし、地下迷宮にカメラとは不粋なものをつけるな。雰囲気がだいなしだ。ぷんぷん。

「やや、首がはまらなくなったぞ」
ロボット男がつぶやいた。男は、取り外した頭をテーブルに置いた。そうして、おじぎをするように体を傾かせ、テーブル上の顔に首を近づける。どうやら、首の切断面が顔の視界に入るようにしているようだ。
「むむ。うまく見えないな。手伝ってくれ」
しかめっつら男は黙ってカメラを指さした。ロボット男の体はふらふらと木のほうへ歩いていって、高い位置にあるレンズに向けて首の切断面を向けている。どうやら、ロボットの操縦者は、ロボットの顔についている目だけではなく、カメラ映像も同じように見られるらしい。

「ああ、切り欠きがおかしくなってるな。このあいだから緩んでると思ったら」
「しじゅう外して遊んでいるからだ」
「みんな驚くからおもしろいんだよ」
しかめっつら男はそれには応えず、深い息を吐いた。ロボット男の声は体から聞こえてきている。それなのに、テーブルの上の顔が声と連動して口パクしていて気色悪かった。彼は言った。
「それで、ボタンなんだが、できれば押してやってくれないかな」
「ほんとに世界破滅ボタンじゃないんだろうな?」
「この子に説明していいか?」
しかめっつら男は生(?)首に向かってOKのサインを出した。

「そのテーブルにあるのは幸せスイッチっていうんだ」
「幸せスイッチ?」
「世の中には、ただ普通に暮らしてるだけでネガティブな……つまり、仕事したくねーとか、生まれてきてすみませんとか、空気吸うのめんどくせーとか、そういうふうに考えちゃう人がいるんだよ。脳の回路がそうなっちゃってるから、これはどうしようもないことでね。でも、うわ死にてー、とか思ったとき、『いやそんなことはない。ぼくは幸せだ!』と考える脳の場所をダイレクトに刺激する方法が開発されたんだ。それがこのスイッチってわけ。このボタンを押すと、あいつの頭の中にほんのちいさな電流が流れる。それで問題は一発解決。世界は薔薇色。やる気も出る。太宰だって、このスイッチがあったら死ななかっただろうよ。だから、犯罪とか世界の破滅は関係ない」
言いながら、ロボット男の体はごそごそ、口はパクパクやっている。

「そんなに便利なものをなぜ自分で押さないんだ?」
「便利だからだよ。お嬢さん」しかめっつら男が答えた。「人間の幸せなんてものは、実は脳を流れる電流にすぎない。ボタン一発でわたしは陰鬱な気分から解放され、いつでも幸せな気分になれる。もちろんやる気も復活して社会復帰もできる。だけれどそれで本当にいいのか、とわたしは考えたんだ。そんなに簡単に幸せを手に入れていいものなのかと。鬱な気分になってボタンを連打していたら、それこそ、動物と一緒なんじゃないか。だから、わたしはわたしにルールを課した。どれほど気分が沈もうとこのボタンは自分の指では押さない。誰かに押してもらう。鬱な気分でいるときにとるそのコミュニケーションこそがわたしが人間である証なんだ」
男の言うことはよくわからなかった。なんだかやけに難しい。だけれどそこがちょっとだけおもしろくて、すこしだけ兄さまと似ていた。

「そういうわけなんだ。押してくれるかな?」
「いいぞ」
白いテーブルの中心できらきらと光る銀色の箱の中央の真っ赤なボタンを、ひとさし指でぎゅうっと押しこんだ。カチリ、と冷たい音がした。

2007.06.27
第51話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(7)」海神れい

海神れい「ひゃっほう!」
しかめっつら男が雄叫びをあげた。

真っ赤なボタンを押した次の瞬間のことだ。男は一挙動で丸テーブルの上に跳び乗り、前に歩いているように見えるのに体が動かないという謎のステップを踏みだした。「フーッ!」またわめく。逆光で顔は見えない。ロボット男は遠くだ。盾に隠れて、踊る男を見守った。

しかめっつら男の足が銀色の箱を蹴とばす。放物線を描いて草むらに消えた。ロボット男の首を足の甲に乗っけた。蹴りあげる。生首が宙を舞う。くるくると縦回転し、首は盾と剣のあいだに落ちてきた。「わ!」なんとか落とさず受け止める。意外に重い。小玉のスイカくらいある。生首は苦い薬を飲んだときの顔だ。やれやれ、と、体のほうから声が聞こえた。

「世界のみんな、幸せかい! オラ、みんなに元気を分けてもらってサイコーに幸せだ!」

大音声で叫んだしかめっつら男は、そのまま背中を下にしてテーブルの上でコマのように回転する。ウインドミルとかいう踊りの技だ。同級生の男子が得意技にしている。体育の時間に跳び箱の上でやっていつも先生に怒られていたっけ。ここには叱ってくれる先生はいない。兄さまも、ななほしも、ななほしを探しに行ってくれたオノデラ・エミオもいない。頼りになるのは、村人にもらったゆうしゃの剣だけだ。盾の後ろ側で見ていると、しかめっつら男がテーブルを跳び降りた。
「Hey,you!」
指さされた。
「な、なんだ?」
「ニーヴンを読んだことがあるかい」
「知らないぞ」
「彼の小説に、電極を頭に刺して快楽中毒になるワイヤー・ヘッドって病気が出てくる。それがこのおれだ。がははははは。人はゴミだ。悩みなんかない。Gracias.Adios amigos!」

駆けていってしまった。ものすごいスピードだった。
「無駄無駄無駄無駄無駄。ふぅーじこちゃ〜ん!」
ドップラー効果がかかった意味不明の絶叫が聞こえた。日本人初の100メートル9.5秒台も夢ではない。背の高い葦に後ろ姿が消える。ボタンを押してから、あっと言う間のできごとだ。なんだか、凶悪犯罪者を世に放ってしまった気分だった。

「ボタンを押したことを後悔してる顔だね」
ロボット男の体が歩いてきた。首を渡した。男は、伝説の幽鬼デュラハーンのように小脇に抱える。
「もちろん後悔しているぞ」
「心配いらないよ。2〜3時間もすればまた落ち込んで戻ってくるから」
「そうなのか?」
「いつものことなんだ」
男の脇で、生首がウインクした。体はそのまま草むらへ歩いていき、銀色の箱を拾いあげる。

「うほっ。これは衝撃映像だな」
「どうした?」
「いや、こっちの話」
「そういう話しかたはよくないと学校の先生が言っていたぞ? なにを見つけたのだ」
「ああ……それは悪いことをした。ここのリアルとは関係ないことなんだよ。ぼく本人の体は部屋に座ってモニター画面を見ているもんでね。そのモニターのひとつに、世界というわけでもないが川口の衝撃映像が映ったってわけ。なんとあのカリスマ主婦が赤羽の精神科医とセク——」胸のスピーカーからごほんごほんと咳き込む音が聞こえた。「……ロスしてたもんだから」

「セクロス、ってなんだ。ラクロスの親戚か?」
ロボット男の生首は遠くを見つめている。体は落ちつきなく動いている。
「うん。まあ、そういう運動があるんだよ」
「どういうことをするのだ」
「ジェットコースターとかと同じで、身長120センチ以下はやっちゃいけないことになってる」
「残念だな」
「まあね。きみができないということには、いろいろと残念な人もいるだろうね。主に犯罪者とか。ぼくはあんまり関係ないけど」
「世の中は奥が深いな」
うんうんとうなずいてみた。ロボットの脇で、生首もひょこひょこと動いている。

「ところで、ぼくの背中側、つまり赤羽側の岸にいる連中はきみの知り合いかい?」
男が言った。体はこちらを向いたまま、生首が後ろを向いていた。背伸びして目を凝らしてみた。なにも見えなかった。荒川の堤防には11月の風が吹いているのみだ。
「なんにも見えないぞ」
「そっか。肉眼じゃ無理か。なんか迷彩かけてるっぽいし。NGOとかじゃなさそうなんだよな。ぼくらじゃなくて、どうやらきみのことを監視してるようなんだけど……」
「めいさい?」
「エルブンクロークみたいなもんだよ」
「おまえは、見えないものが見えるのか?」
「そうなんだ。この体もけっこう便利なんだよ。これで座ったままトイレまで済ませられたら完璧なんだけどね。大をする方法はいまだ開発されてない」
「いろいろとフクザツだな」
「そうなんだ。ここにいる連中はみんな複雑だ」ロボット男が言った。「まあ、ぼくらと同じく、きみにもいろいろと複雑な事情がありそうだけどね」

体と同じ向きに持ち直した生首の瞳が、かしょんと音をたてて、赤から黒のレンズへと切り替わった。

2007.06.28
アフリカでまた電力テロ
■さきたまヘッドライン
■2045年11月25日午前3時21分

ラゴスで連続テロ、30人以上が死亡

 ナイジェリアのラゴスで、24日午後(日本時間25日未明)、連続テロが起き、30人以上が死亡した。
 24日午後5時05分(日本時間25日午前1時05分)、イコイ島にあるグランドハイアットホテルのロビーで爆発物を身につけた男が自爆し、14人が死亡した。同ホテルではOSEEC(サハラ電力輸出国機構)の次官級会議が開かれており、スーダンの電力エネルギー省副大臣が死亡したほか、ナイジェリアの国会議員1人も死亡した。
 同21分には、ヴィクトリア島にあるシェブロン=ジュメイラのアフリカ支社に化石燃料車が突っ込んで自爆し、同社幹部を含む20人が死亡した。32分にはラゴス大学でも停車中の車が爆発、通りかかった3人の学生が死亡した。同大学では、午後6時より、カーボンナノチューブ・フライホイール蓄電で知られる復星清水重工の会長が講演を行う予定だった。
 同日午後6時00分(日本時間25日午前2時00分)、アフリカの環境原理主義組織「ファリゾ」(FALISO)が、稼働中の行動パッケージツーリスモサーバーに侵入し、犯行声明を発信した。ファリゾは「一神教からの解放と持続する社会のためのアフリカ戦線」の略称で、カーライルPMCインベストメントの格付ではA++のテロ組織。声明では、25日に日本の数学者グループが新しい暗号アルゴリズムを公開することに言及し、「ネットワークの安全性が証明されるまでは、事故を起こす可能性のあるすべての輸出電力用原発を停止すべきであり、そのためには手段を選ばない」としている。
 3つの爆破の環境映像と一部の被害者の身体記録は、オープン・ライフログとして公開されている。レイティングはPG‐17++。アクセスにはWSIS8/IEEE4021.11互換のログデバイスが必要。接続先はp.lagos.gov.ng/resources/openlifelogs/451125。

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「vitabu saba」さんの投稿。
順位1。最適度8.12。正確度6.13。
アクセス数2032。「参考になる」1002/「参考にならない」223。
日本時間2045年11月25日午前6時12分更新。

 またアフリカでテロが起きた。日本ではあまり注目を浴びていないようだが、テロの舞台となったラゴスは、実はいま世界でもっとも勢いのある都市である。郊外には100階建てのマンションがにょきにょき建ち、ラグーンはどんどん埋め立てられている。電気代はただ同然なので、交通機関はすべて無料で、夜中でも街全体に灯りがついている。ビジネスセンターであるヴィクトリア島をドームで覆い、島全体にエアコンをかけるという荒唐無稽な計画も進んでいる。ラゴス都市圏の人口は2500万人を超え、いまやカイロを抜いてアフリカ最大の規模だ。
 その経済を支えているのが、OSEECに流れ込む巨額の電力マネーである。2010年代に大電力貯蔵技術が実用化され、電力がかつての石油のように船で運んだり備蓄したりできるようになると、先進国は発電所を国外に求め始めた。炭素排出権の高騰で火力発電所の新設は難しくなっていたし、原発増設には市民の抵抗がある。それになにより、先進国は地価も人件費も高く、発電コストそのものが高い。というわけで、ヨーロッパや日本では新しい発電所が作られなくなった。中国やインドのような大型成長国も、無理して新しい発電所を作るより、必要な電気は国外から買い、別の産業に投資を回したほうがいいと考えるようになった。
 そこで国際電力市場で新たな供給国として台頭したのが、当時は最貧国だったサハラ砂漠南縁諸国である。砂漠の住人は少ない。産業もないし資源もない。原発を造っても文句は出そうにない。というか、多少は死者が出て文句も出るかもしれないが、それでもいまの極貧状態よりはましだろうと、政治家とそこに群がったビジネスマンは考えた。ひどい話だが、そのような経済状況だったのだから仕方がない。うまいぐあいに、この地域はウランの産地でもある。
 というわけで、2027年に、西アフリカの大国で、当時産油国からの脱皮を図っていたナイジェリアが世話役となり、スーダン、チャド、マリ、ニジェールがまとまって、「南サハラ原子力開発機構」、のちの「サハラ電力輸出国機構」(OSEEC)が発足した。それから20年、加盟国は10ヵ国に増え、いまではOSEEC全体で400基以上の原子炉が稼働し、世界の電力の20%を生産している(輸出用電力で見れば70%を占める)。チャドやスーダンは、最貧国から富裕国へ変身を遂げた。ナイジェリアの湾岸には、フライホイール蓄電船が何百隻と泊まっている。スーダンからマリにかけて、数千キロにわたり、事故リスク軽減のためたがいに一定の間隔を保って並ぶ原子力発電所の群れは、壮観と言えば壮観だ。
 公平に見て、OSEECの戦略は正しかったと言える。もし産電国への道を選ばなかったら、ほとんどの国はまだ貧困に喘ぎ、部族紛争に苦しめられていたことだろう。この20年間で、アフリカのイメージは大きく変わった。
 しかし、いいことずくめというわけにはいかない。急速な富の流入は、OSEEC各国でさまざまな矛盾を生んだ。福祉政策の充実が労働者のモラル低下を引き起こしている側面もある。実際に電力産業は、ヨーロッパやアラブ、中国資本にいまも支配されており、アフリカ資本は育っていない。資金源の充実で部族紛争が深刻になったところもある。なかでも最近問題になっているのが、今回のテロの背景にもなった、反キリスト教、反イスラム教系の環境原理主義の台頭だ。
 アフリカの産電国は確かに潤っているが、倫理的に見ると危ういものでもある。かつての産油国は資源を売っていたが、産電国は実は資源ではなくリスクを売っている。先進国が産電国に高額の対価を払っているのは、産電国が、彼らが抱えたくない原発事故や放射性廃棄物のリスクを引き受けてくれるからだ。実際にOSEEC諸国では(現地以外ではあまり報道されないが)、20年で10件以上の重大事故が起き、300人以上の死者を出している。世界最大の原発密集地であるこの地域で、もし前世紀のチェルノブイリ級の事故が起きたら、連鎖反応が起きて手がつけられないという意見もある。かりに事故が起きないとしても、急ピッチの原子炉開発と放射能廃棄物の杜撰な処理は、環境に深刻な影響を及ぼし始めている。そのくせ、先進国は自国に火力発電所すら造らない。
 豊かな生活を手にし、自信を身につけたアフリカの市民のあいだでは、いま急速にこの状態への不満が高まっている。犯行声明を出した組織のサイトには、アフリカの電力産業は「ヨーロッパ=アジア文明による、アフリカの大地の数百年にわたる搾取の頂点」であり、「人身売買や強姦にも等しい人道的犯罪」だと記されている。この不満が解消されないかぎり、似たようなテロは続くことだろう。彼らが貧しいあいだは、なんとかごまかせたかもしれない。しかし、もはや金を渡すだけでは、彼らの不満は収まらないのだ。
 温暖化はますます加速している。環境対策にもエネルギーがいる。燃料電池は電気の固まりだ。電力消費は急増しており、その需要に応えるためには原子力しか有効な手段がない。そして人類は、そのリスクをアフリカに押しつけている。それこそが、21世紀後半の人類社会を脅かす最大のリスクかもしれない。

2007.06.28
第52話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(8)」丸田蔵人

丸田蔵人切り株の上に、血液をレモン水でどこまでも薄めたようなキーマンティーと、焼いたゲソの切れっ端が置いてあった。

ゲソを噛んだ口にキーマンを含む。海くさいのだか山くさいのだか判断できない玄妙な香りが口腔に広がった。そもそも良い葉なのか悪い葉なのかもよくわからない。コンビニで売っている紅茶より薄い匂いであることだけはたしかだった。
「合わないな」
つぶやいた。目の前に座っているヒゲのオープン主義者がこたえる。
「そうかな。敢えてこう考えてみるのはどうだ。ゲソをキーマンで食うことこそ、日本独自の文化ってやつなんじゃないかと。なにしろキーマンの大部分を消費するイギリス人はイカを食わないっていうからね」
「おまえさんはいつもそんな与太話をしているのか」
「いや、これはさっき人から聞いた話」

中州に到着してからかなりの時間が経過しようとしていた。オープン主義者のボートに乗って荒川を渡ろうとしたところ、荒川警備隊とかいう連中に追いかけられ、彼らの根城である中州に上陸することを余儀なくされたのだ。同乗していた少女はどこかへ行ってしまって、まだ帰ってきていない。しかたがないので、ヒゲのオープン主義者に誘われるままオープンエアのティータイムを過ごしている。テーブルは切り株で、椅子はうんうんと唸る得体の知れない立方体だ。ヒゲ男が言った。

「女の子、帰ってこないな。お孫さん、だったっけ?」
「違う。子供は嫌いだと言っただろう」
「そうか。おれは嫌いじゃないけどな。いまの年配者には嫌いな人が多いみたいだね。あんたたちが子作りに励まなかったから、日本の人口はじゃかすか減っちゃったのかもしれないよ」
「余計なお世話だ!」

色とりどりのコンテナのあいだから男が姿を現したのはそのときだ。
「Are you happy? I'm happy!」
甲高い声で男が叫ぶ。彼は後ろ向きに歩いていた。ムーンウォークというやつだ。この目で見るのは30年ぶりくらいのことだった。男がつづけた。
「おはよう諸君! 素敵な陽気だな! 鳥よ! 雲よ! 磐城平よ! 嗚呼、川はなんて素敵に流れているのであろうか。断定推量うひょひょひょひょ。おうい、荒川警備隊さーん! お捜しの逃亡者はここだよう!」
「呼ぶなバカ!」
「そいつは失礼。がははははは」
なんだかとてつもなくうるさいのがやってきたようだ。男は空中に向かって話しつづける。

「いまなら川も歩けそうな気がするよ。キタキタキタキタ。うんうん。同じ中国四千年の文明を受け継ぐ烈海王にできてぼくにできないってことはないよな!」
「よかったな。歩いてこい」
ヒゲ男が返答する。
「オッケー! がってんしょうちのすけ!」
男はそのまま走っていった。しばらくして、川のほうでぼちゃんと盛大な音がした。

「……なんだあれは?」
「ハッピーなんだよ、あいつは。よく飼い犬や猫にチップ入れたりするだろ。でもって、ボタンを押すと、撫でてくれって寄ってきてくれるようになる。原理はあれと同じなんだ」
「あんなのを放置して問題は起きないのか」
「いいんだ。2〜3時間のことだから」
なにごともないという表情でヒゲ男が答える。キーマンをひとくちすすった。水が冷たくてステキーと叫ぶ声が彼方から聞こえてきた。どうやら溺れてはいないようだった。すると、ハッピー男が後ろ向きに歩いてきた方向に人影が見えた。少女と見知らぬ男だ。男には首がない。玩具の剣とまな板を装備した少女が、首を小脇に抱えた男に連れられていた。キーマンを飲みほし、ヒゲ男に言った。
「話に聞いてるほどここは悪くないな……まあ、変な連中もいるようだが」
「だろ?」
ヒゲ男は口の端に笑みをへばりつかせた。

少女が近づいてくる。それに合わせて立ちあがろうとしたとき、ポケットの中で携帯デバイスが鳴った。電話ではない。公開しているPSP番号が誰かの位置検索対象になったことを知らせるアラーム音である。めずらしいこともあるものだった。
「お、尋ね人だね」
「この歳でそんなのがあるものか。おおかた施設のお知らせなんかだろうよ」
デバイスを引っぱり出す。メッセージが表示されていた。

——小野寺明さんがあなたを捜しています。

背筋を電撃が貫いた。戦慄は表情に出たかもしれない。
「爺さんも意外と隅におけないねえ。もしかして、両想い?」
ヒゲのオープン主義者の声が遠く聞こえる。この男が考えている関係とはだいぶ事情が異なるが、たしかに、両想いであることには違いない。奴がおれを捜しているからには。しかしなぜ小野寺がおれを。奴を殺そうとしていることは、誰にも言っていないし書きとめてもいないのに、なぜ奴が……。

デバイスを握る手に汗がにじみはじめた。つるつるとすべってデバイスを落としそうだ。河原の風も、冬の陽光も、キーマンティーの香りももう感じない。ボタンを押す。指が震えて2度押した。時刻が表示された。残り時間はあまりなかった。

本当はわかっていたのだ。今日という日、ハナさんとの障害となる小野寺を殺すと勢いこんで起きたものの、時間が経過するにつれて気力が薄れていったことに。ここで座って茶を飲んでいたのは己の弱さの表れだ。出会ったばかりの少女を待つという名目のもと、殺害計画実行を先延ばしにしていたのだった。ハプニングが起きたのだからしかたがないと思いこもうとしていた。自分の人生はいつもそうだった。そうやって実行を延ばし延ばしにして、とうとう70を越えてしまった。わかっているのだ。すべてわかっている。この人生は、選択をしなかった人生だ。いままでいくらでもチャンスはあった。だけれど、失敗することも成功することもどちらも怖かった。いまもためらっている。殺害が怖いのではない。そんなものはどうでもいい。可能性を喪うことが怖いのだ。小野寺明を亡き者にすれば、彼を殺さなかった未来はなくなる。それがとてつもなく怖い。

だけれど。
きっと、神さまは、今日このとき、最後のチャンスをくれたのだろう。

先延ばしにしたら、それは失敗を選んだのと同じことだと気づくのに70年以上もかかってしまった。今回ばかりは実行しなければならない。小野寺を亡き者とし、ハナさんに告白する。それしかない。なにをためらっている。失敗してもいいではないか。もう、オッズはそれほど高くない。もともと未来など、そう豊饒たるものでもないはずだ。残りの人生を刑務所で過ごすことになったからといってなんなのだ。親しい友人もいない。遠出もしない。食事の時間も決められている。自治という名の共同生活のルールを押しつけてくるソウルケアハウスは刑務所と一緒だ。

「そろそろ行くかい? 彼女の大冒険も終わったようだし、荒川警備隊もいなくなったようだし」
ヒゲのオープン主義者が言った。
切り株に手をかけ、立ちあがる。震えは収まっている。できるかぎりの笑顔を返した。
「世話になった。ゲソはまずかったが紅茶はうまかった」

2007.06.29
第53話「working pure(4)」君島フランツィスカ史帆

君島フランツィスカ史帆ハナ先生の執務室は、ソウルケアハウスかわぐち内の一等地にあった。いちばん長い時間、自然の光が射し込んでくるよう設計されている場所だ。やわらかな光に包まれ、先生はいつも年寄りの話を聞いている。こっちは、お茶を替えたりテーブルを拭いたり、本当だったらロボットがやってるはずなのにまだ実現していない雑用全般をこなしている。まあ、バイトだし。

次の来訪者に合わせて椅子の高さを調整していると、座席の隅に四角くて薄べったい物体を見つけた。カードケースだろうか。年寄りというものは、よくわからない札状のものを収納する容器を持っている。携帯デバイスひとつで済むのに、なぜか同じ機能の複数のカードを持っていないと不安らしい。さすがに現金用財布ってこともないだろうけれど。スカウティング・グラスにはなにも情報は表示されていなかった。

「なんすか? これ」
ハナ先生がカードケースを受け取った。開いて、しげしげと中を見ている。覗きこもうとしたら目の前でぴしゃりと閉じられた。執務室全体に漂うウッドノートの香りが鼻の先で勢いよく散った。

「これは小野寺さんのね。忘れものしたみたい」
「あ、はい。じゃあ、連絡して取りに来てもらいまーす」
「連絡はいいから。届けてあげて」
「はい、りょうか……はいい?」
「君島さんが届けてあげるの。まだ小野寺さんは遠くには行ってないでしょう」
「そりゃやれと言われりゃやるけど……いいんですか? 仕事」
「これがソウルケアの仕事です」
ハナ先生はきっぱりと言った。デスクから取り出した封筒にカードケースを入れ、封をする。カードケースの中身を見せる気はないらしい。けちだ。ふくれてやった。封筒を差し出しながら、先生は小首をかしげて笑う。いい歳をしてるはずなのに、この女性の笑顔は若くてかわいい。頭もいいし、信頼されてるし、ちょっとだけジェラシーが湧いた。

「もし、君島さんが学校を卒業してこの仕事に就くつもりだったらおぼえておいたほうがいい。忘れものをわざわざ人間が届けてあげるという行為は経済原則には合ってない。行為そのものにもあまり意味はない。でも、これは本当に重要なことなの。そうしてあげようと思った心を届けるのね。そこがソウルケアの鍵」
なんだか禅問答みたいになってきた。バイトのマニュアルにはそんなことちっとも書いてなかったのに。
「この執務室で相談を受けるとき、わざわざ君島さんにお茶をいれてもらってるのも同じことね。お茶という物質に意味はない。わざわざお茶をいれてあげるんですよという心を提供するのね。それが、ここにいる人たちがもっとも求めていることだから」
「……はあ」
「これがわかれば、君島さんの業務用スマイルも本物になるかもね」
うわやべ、バレてた。ハナ先生はあなどれねー。

ソウルケアハウスの制服の上に学校規定のカーディガンをはおって施設の外に出た。なんだかドラマに出てくるナースさんみたいで格好いい。空調が完備された施設内と違って、外はちょっぴり寒かった。無闇やたらと多い水と一緒に荒川を下ってきた風が、これでもかと吹きつけてくる。
バイト中に制服で外出するというのは新鮮な体験だった。人が座っている動力付きカートの付き添いをするのは資格がいるし、雑用は雑用でけっこう多いし、ソウルケアハウスの外に出ることはほとんどない。っていうか、クラスメイトにこの制服姿を見られたらどうするんだろう。絶体絶命じゃんかよ。

もちろん、PSPカードを追跡されているので寄り道とかはできない。小学校のときもそうだった。位置情報を親に追跡されていて寄り道できない子が多かった。自分ときたらバカな親は日がな一日バイクで駆けずりまわっていて、こっちの位置情報を検索してる余裕などはない。史帆ちゃんと遊ぶと不良になるとか言われて、無性にムカついたこともあったっけ。

小野寺さんは荒川堤防上を移動中だ。位置検索したのだから気づきそうなものだが、猫まっしぐらでどこかへ向かっている。歩いている先にあるのはスーパー堤防沿いの高層マンションで、たしか通り抜けはできなかったはずである。河川敷の公園にでも行くつもりなのだろうか。入園料、取られたら嫌だな。経費で落としてくれるかな。

あらかわ大橋のたもとまで来ると、道端に黒くてでっかい塊が落ちていた。どうやらうずくまっている人間のようである。顔を見たら、肌の色が白い。白人だ。思わず頭上を見た。空中にはなにも書いてなかった。そりゃそうだ。ここはソウルケアハウスの中ではないのだから。スカウティング・グラスをかけているからといって誰も彼も頭の上にライフログ情報が表示されるわけではない。

近くには、途方に暮れた表情で、橋の監視員が突っ立っている。うわ。まずいな。外国語の通訳とかさせられるかな。そんなの機械にまかせとけばいいのに。外国から来た労働者にまちがわれませんように! 頭の中で念じつつ、次の1歩を踏み出した。

2007.06.29
夢の宇宙飛行
Touristik Union International Japan presents
夢の宇宙旅行、軌道エレベータで雲の向こうへ! 4泊5日

モルジブ・イメージ エレベータに乗り宇宙へ! それはまさに夢物語です。2020年代に最後の観光シャトルが飛び立って四半世紀、高コストと高環境負荷のため中止されていた宇宙旅行が、まったく新しいテクノロジーのもとで甦りました。

 出発に特別の訓練は必要ありません。モルディブの美しい浜辺を満喫したあとは、着のみ着のままの軽装で、赤道直下の人工島ツィオルコフスキーへ。管理局の説明を聞き、簡単な医療検査を受けたあと、いよいよエレベータに乗り込みます。エレベータの乗車時間はわずか2時間! ぐんぐん小さくなる地球を眼下に、最高速度秒速20キロで3万6000キロ上空のクラーク・ステーションまで駆け上がる、極上の時間が待っています。気候によっては、ヒマラヤ山脈やアフリカ大地溝帯、インド洋上空のサイクロンなどのパノラマもご覧になれます。

 クラーク・ステーションでの滞在はゆったりと3日間。ゲスト用の居住空間には0.5Gの人工重力が作られ、快適な休暇をお過ごしいただけます。最大の楽しみは、ステーション中心部での無重量遊泳経験と、地上では想像もできない全天の星空でしょう。10月までは、近傍で建設中の巨大な太陽光発電衛星も、見逃せないスペクタクルを提供してくれます。そのほか滞在中は、研究棟を見学したり、宇宙飛行士の講義を受けたり、宇宙食を味わったりと、豊富なオプショナル・ツアーをご用意しています。

 ステーション滞在のすべての瞬間が、宇宙への憧れを満たす、かけがえのない思い出になることでしょう。

 オプションでモルディブ滞在を延長することもできます。

■費用■
旅行代金
2,020,000円〜4,870,000円
※体重80kg以上の方には付加料金が課せられます
設定期間
2045年9月1日〜11月30日
■日程表■
日 程
行 程
1日目
【午前〜午後】
東京(成田/関空/中部)発(午前発) → マレ・フルレ空港(午後着[時差−4])
※便によってはコロンボまたはバンコク経由となります
係員が空港にお迎えにあがります
車でジュマイラ・インターナショナル・マレへ
【夕〜夜】
フリータイム
■昼食(機内食)、夕食 ■マレ泊
2日目
【午前】
係員がホテルにお迎えにあがります
マレ・フルレ空港(9:30発) → アルツターノフ空港(10:40着)
【午後】
昼食後、ツィオルコフスキー・インド洋軌道エレベータセンターへ
医療検査、ブリーフィング(係員付添)
ツィオルコフスキー・センター(17:00発) → クラーク・ステーション(14:00着[時差−5])
【午後〜夜】
フリータイム
オプショナル・ツアーをお楽しみください
【夜】
宇宙飛行士とのディナー
■朝食、昼食、夕食
■クラーク・ステーション泊
3日目
【終日】
フリータイム
オプショナル・ツアーをお楽しみください
■朝食、昼食、夕食
■クラーク・ステーション泊
4日目
【早朝】
医療検査
クラーク・ステーション(6:00発) → ツィオルコフスキー・センター(13:00着[時差+5])
係員がセンターにお迎えにあがります
【午後】
センター見学、記念撮影
アルツターノフ空港(16:40発) → マレ・フルレ空港(17:50着)
車でジュマイラ・インターナショナル・マレへ
【夕〜夜】
フリータイム
南国の最後の夜をお楽しみください
■朝食、昼食、夕食
■マレ泊
5日目
【午前〜夜】
係員がホテルにお迎えにあがります
マレ・フルレ空港(午前発) → 成田空港(夜着[時差+4])
※便によってはコロンボまたはバンコク経由となります
【午後】
センター見学、記念撮影
アルツターノフ空港(16:40発) → マレ・フルレ空港(17:50着)
車でジュマイラ・インターナショナル・マレへ
【夕〜夜】
フリータイム
南国の最後の夜をお楽しみください
■朝食、昼食(機内食)
■利用者の声■
【ツアー参加者限定、有益度60以上、1週間以内更新のみ表示】
1226:「みんな冷静になれ」さん(30代前半、男性)
2045/11/18 12:26
★☆☆☆☆
 去年10月の参加者。
 おれのときは100万円台だったのに、とんでもない金額になってるな! はっきり言っとくけど、これ高すぎ。だいたい静止軌道からじゃ地球って大きく見えないんだよ。それに見える面がいつも同じ。しかも大部分はインド洋。日本なんて絶対見れないんだぜ(おれのときは、ブリーフィングでこれを聞いて怒り出したやつがいた)。ただの青い玉なんて、2〜3度見れば十分だから。昔のスペースシャトルの低軌道宇宙観光とは、ぜんぜん違うんだよ。
 だいたいこの「クラーク・ステーション」って、電力メジャーの金儲け用に作られた基地で、科学者なんてろくに乗ってないんだよ。だから見学も名ばかり。まあ、無重力遊泳はおもしろかったけど、それに何百万も払ってもねえ……。結局、おれが感銘を受けたのは、当時建設中だった太陽光発電プラントだけ。直径1キロのアンテナがずらずら並んでいるのは、さすがにすごかった。でも、いまはそれもない。それじゃ見るもんないよ。3日間、退屈するだけだと思うよ。
 そもそもみんな、宇宙に行って何がしたい? まあ、そう書いてるおれが行っちゃったから説得力ないわけだけど、かなり高いツアーだし、マスコミに煽られる前に冷静になったほうがいいよ。月や火星に行けるわけじゃないんだぜ。静止軌道なんて、ただの空っぽな空間。みんな旅行会社に騙されてるね。
1229:「りっか」さん(10代後半、女性)
2045/11/19 04:15
★★★★★
 8月に彼と一緒に行ってきました。手配は彼がぜんぶやってくれたんで、いまこのページを見て、うわーこんな高かったんだーって、びっくりです。彼に、ありがとって言わないと!
 だめだって書いてるひともいるけど、わたしは大満足でした。地球ってきれい! すごい! 写真みたい! 本当にあっという間に小さくなるんで、映画みたいです。ステーションの宇宙飛行士さんも親切だったし、ディナーもおいしくて(なんとフレンチ!)、無重力も楽しかったです。現地係員のひともしっかりしていて、いろいろ教えてくれて勉強になりました。最高でした! また行きたいです!
 あと、ひとつウラワザ書いときます。上には下着とかタオルとかデバイスとか揃えてあるから、と言われて、エレベータには一切の手荷物を持ち込めないことになってます。でも、化粧品ぐらいもってきたいですよね。そんなときは、現地係員ではなく、エレベータのスタッフに交渉するといいです。痩せたお客さんばかりだと、見逃してくれることがあるみたいです。わたしは下着もちこみました〜。
1236:「沈黙のフライバイ」さん(50代前半、男性)
2045/11/23 09:01
★★☆☆☆
 小生は、クラアクとノジリを尊崇する、30年来の宇宙マニアである。2023年、ヴァアジン・ギャラクティクが個人旅行から撤退。2025年、中国月基地で事故。2032年、米国が火星基地計画を放棄——今世紀前半は宇宙に冷淡な時代だった。宇宙はいまや、便利な監視所や中継所として以外、人間社会にとって何の意味ももっていない。しかし、小生は、宇宙開発の再開を一貫して信じてきた。
 捨てるあれば拾う神あり。国がやらねば民がやる。2041年10月、ついにインド洋で軌道エレヴェエタが完成したとの報を受けて小生は狂喜した。個人旅行も再開されるとの報を聞き、職を変え、貯金を取り崩し、金策に奔走して、去る6月22日に、ついに念願の宇宙空間に足を踏み入れた。
 踏み入れた……はずなのだが、どうも腑に落ちない。確かに小生は宇宙にいた、静止軌道にいた、青い地球を見て滂沱の涙を流した。——しかし、地上帰還後も、不発感、嫌らしく言えば《残尿感》が残る。
 ツィオルコフスキイ港を満たす南国の甘い空気、軽薄な客、幼稚なアナウンス、女性に媚びた曲線的デザインのエレヴェエタ、子供だましの貸出用望遠鏡、ステイションのあらゆる所に貼付されている電力会社のロゴと双方向広告、Tシャツで出迎える自称「宇宙飛行士」——。相応しくない。すべてが相応しくない。半年分の収入を投じて、小生が獲得したのは、半世紀前のできのわるいアニメを見ているかのような、薄っぺらな記憶だけだった。宇宙とは、こんなものだっただろうか。
 無論、不満の原因は軌道エレヴェエタの運営体制にあるのであり、旅行会社にあるのではない。畢竟、これは小生の極私的感想でしかない。行きたいひとは行けばよかろう。そこには小生の求めた宇宙がないというだけだ。
 いま思えば、アルツタアノフの港に停泊した、アメリカ、中国、インド、三国海軍空母の雄姿を望めたことが、この旅の唯一の慰めだった。
2007.07.02
第54話「working pure(5)」君島フランツィスカ史帆

君島フランツィスカ史帆道端に落ちている黒くて大きな物体は人のようだった。白人の男性だ。両手で足首を抱えている。困った表情の監視員がそばに立っていた。気にせず通りすぎようかとも思ったが、ケアハウスの制服を着てガン無視も大人気ない気がしたので、聞いてみることにした。けして、ハナ先生の言葉が気になったとか、そんなわけではない。たぶん。

「どうしたの?」
監視員のおじさんがあごをしゃくった。
「この人、いきなり車道に走り出したんだよ。一歩まちがえば大惨事だよ。さいわい接触はしなかったみたいだけど、足をくじいたらしくてね。いったいどういう飛び出しかたをしたら、車との衝突コースなんかに行けるのか不思議でしょうがないよ」
「相手の車は?」
「それが、逃げちゃったんだよね。逃げられっこないのに」

川口と赤羽の街を繋ぐあらかわ大橋のたもとだった。歩道と隔てられた車道の上を、色とりどりの車たちがびゅんびゅんと走っている。フロントウインドウとボンネットで反射した陽光が、ガードレールに、超高速で回転する万華鏡模様を描き出していた。
以前、学校の授業で調べてみたことがある。20年くらい前までは、飛び出した子供だけでなく成人が車と衝突して死亡する事故なんてものが頻繁に起こっていたらしい。PSP情報と連動して自動車の運行が制御されたいまは滅多に発生しない。バイクのほうはまだだめだけど。バイクなくなんないかな。そうすれば、父もまともな仕事を探してくれるだろうに。

道端に座り込んでいる男の体は格闘家みたいだ。男は、ひねったらしい足を親の仇みたいな顔で睨みつけ、口の中でシーッとかブルとかホーリーとかホースとかシーッとかシーッとかつぶやいている。痛そうなんだかそうじゃないんだかよくわからない。よほどシーッが好きなんだろう。感情表現は世界共通かと思ったけれど、まだまだバリエーションがあるようだった。監視員がしゃがみこんだ。

「あんた、悪いこと言わないから救急車はやめといたほうがいいよ。旅行保険入ってるんでしょ? まずそこに電話しなよ。え? パック旅行じゃないの? もしかして旅行者保険とか入ってないの? はあ、ビジネスで東京に来た。じゃあ、そのビジネスの相手が入ってる保険で……電話できない理由がある。まいったな。PSPカードは? あ、そうか。壊れちゃってるんだったね。なんだ。それで相手は逃げちゃったんだ。もしかしたら、あんたを轢きそうになったことも気づいてないかもしれないよ」

白人の男と監視員は日本語でしゃべっている。状況はいくらか複雑らしい。そういえば父親も、事故ったというのにろくに病院へ行っていなかった。バイクより先に体をなおせよと言うのは簡単だ。だけれど、病院に治療費を払うか、ごはんを食べるか、どちらかを選ぶとしたらやっぱりごはんだろう。
監視員は立ちあがり、帽子を脱いでぱたぱたと扇いだ。聞いてみた。

「この人、PSPカード使えないの?」
「そうなんだ。さっきも有料歩道のところでひっかかっちゃってさ。文明の遅れた国から来た人はほんと困るよ」
「おじさん、それ、聞こえてるって」
「いいんだよ。本当のことだもの。ところであんた、どうしてもっていうなら救急車呼ぶけど、公共救急車を呼んでも1時間は来ないと思うよ。今日は例のセキュリティ絡みでてんてこまいらしいから。下手したら2時間。せめて東京首都州側でケガすればよかったのにねえ」

男は無言だ。
「……あたしが連れてってあげようか? 向こう側」
「悪いこと言わない。よしたほうがいいと思うよ」
「なんで」
「転んだところばっちりカメラに映ってるからねえ。こっちでケガしたのに州越えして救急車呼ぶとえらい額の請求が来るんだよ。本人が払えなかったり払わなかったりしたら、手を貸した人間にもね。保険効かないから高いよ。だからさ、外人さん、もし向こうに行くなら自力でがんばって! たいした距離じゃないし、這って行ってもこっち側の救急車より絶対早いよ!」

ぐがあ、とすごい音がした。男の叫び声だった。なんだかかわいそうだった。こう、なんというか、町に出てきて捕獲される野生のクマと同レベルで。この状況になにか役に立つものはないかと腰のポケットを探ってみた。出てきたのは、携帯デバイスと、ボールペン兼スタイラス、髪を留めるゴム、セロハンテープ。ボールペンじゃ猫の杖にもなりはしない。
「じゃあ、ひとっ走りして湿布とか持ってきてあげようか? あたしがバイトしてんのすぐそこだし。それならいいんでしょ? 監視員のおじさん」
「そいつはおれの仕事じゃない」

「その……ゴムと、テープをくれないか……」
白人の声がした。
「これ?」
白人がうなずく。
「いいよ。なんに使うの」
髪ゴムは使い古しだし、セロハンテープはケアハウスのものだ。渡してあげた。白人の男は、パンツの裾をゴムでまとめると、その上からセロハンテープを何重にも巻き出した。靴も靴下もパンツもはいたままぐるぐる巻きだ。ケアハウスで見たテーピングとは違う。そうやって、結局1本使いきってしまった。ICタグがついているのは容器で、セロハンテープを自体をいくら無駄遣いしても怒られないからいいけど。

「Thank you so much,pretty girl」
ガードレールを支えにして男が立ちあがる。そろそろと足踏みしている。顔をしかめた。足首は固定されているようだ。すげー。
「なんだ。歩けるのか。よかったな。向こう岸までがんばれよ」
「……船着き場はどこだ」
「船着き場? ここからだと歩くよ。ホテルかカジノか、その向こうだと公園にある。橋の向こう側まで歩いたほうが早いよ」
「仕事があるんだ」
「こんな日にあんたも大変だな」

「じゃあ、あたしが途中まで一緒に行ってあげるよ。方向同じだし」
監視員が振り向いた。白人男性は驚いている。その顔に、小野寺さんの位置が表示された半透明のマップが重なった。スカウティング・グラスによると小野寺さんは公園の船着き場方面へ移動中である。この男がどの船着き場へ目指すにしても方向は一緒だった。
「いいっていいって。カードが失くなったり壊れたりすると、再発行するまで不便だよね。ダイジョーブだよ。さ、行こ」

歩き出した。男に合わせ、できるだけゆっくりと。小野寺さんは超高速で逃げたりはしない。
南関東州でPSPカードが壊れたり紛失したりしたら、その人物は存在していないのと同じことだ。それは、とてもとても、心細いことだろう。ま、見ず知らずのこの男を手助けするのも、ハナ先生が言う心の問題ってやつのひとつなんじゃないかと思う。考えるのはめんどくさくてよくわからないけど。

頭、あんまりよくないし。

2007.07.03
第55話「12万人の怒れる名無し(11)」小野寺笑男

小野寺笑男モニター画面の中で、白人の大男が盛大にすっ転んだ。

あらかわ大橋の川口側だ。男をひっかけそうになった車の中では、土曜のショッピングに来たファミリーのパパが、後部座席から身を乗り出した子供にからあげを食べさせてもらっていた。前なんか見ちゃいない。男の体がバンパーまで3メートルの距離に近づいた瞬間、車のドップラレーダーが勝手に障害物を検知、タイヤの角度を変化させた。ロールしながら車は男を避ける。パパの喉にからあげが詰まった。胸を腕で何度も叩いている。ハンドルに手もかけてない。ママはとなりで耳までルージュを引いている。子供は大はしゃぎだ。車は走り去った。

白人の男が持っているPSPカードは機能を果たしていないようだった。位置情報を交通監視モニターに知らせもしないで信号無視をしたら、殺してくれと言っているのと同じだ。これは男のほうが悪い。

男は、道端で足首をつかんでうずくまっている。痛めたみたいだ。すぐに橋の監視員がやってきた。そのあと、ピンクの服を着た女の子が歩いてきて、3人でなにかしゃべっている。荒川沿いにあるソウルケアハウスの制服である。介護士には海外の人間が多い。この子の横顔も、外国人っぽい雰囲気をただよわせている。どこかで見た顔のような気もするが、思い出せなかった。

白人の男は、介護士の女の子からもらったセロハンテープで足首を固定している。靴とパンツの上から、土踏まずと足首を豪快にぐるぐる巻きだ。このやりかたは戦場の応急処置だった気がする。ネットで見た。こいつはますます怪しい。日本語がしゃべれないふりをして、暗号解読アルゴリズムの発明者の妹に接触しようとしたかと思えば、なぜか焦っているようで、軍隊のスキルを持っている男なのだ。

字幕で表示された文字からすると、男は船着き場を探しているようだった。
オーケー。先回りして調べてみることにする。人を騙そうとしても無駄だ、おっさん。こっちにはカメラとネットがある。ネットを馬鹿にするとひどいことになるぞ。

カリスマ主婦と精神科医の秘密映像を公開してから、匿名掲示板のほうは書き込みが加速して手がつけられない状態だった。こういうときは流れにさからわず観察しているのが上策だ。人は流れに乗ればいい、と言ったのは誰だったっけ。気になって検索してみたが、実在の人物はヒットしなかった。おかしいな。偉人の言葉だと思ったのだが。まあいい。水も魚も人も、一度なだれをうてば、行くしかない方向に行くものだ。驚け。そして走るがいい。ヒマ人ども。ネット上の文字と化して。

いつからこんなことをはじめたのだろう。ふと、そんなことを考えた。

ものごころがついた頃には監視カメラ映像とネットを見ていたような気もした。ずいぶんむかしのことなのでわからない。いくらなんでも小学生の時分に8面のモニターを駆使していたわけではないだろう。なにか嫌なことがあってカメラ映像を見だしたような気もするけれど忘れてしまった。なぜか、あらかわ大橋のふもとに映っていた介護士の女の子の顔が気になった。

カメラというのは、物理的なことはなにひとつしないものである。単にその場の映像を記録するだけだ。犯罪も善行も、どうでもいいことも、カメラは等しく記録する。

200年以上前のことになる。イギリスのえらいおっさんがパノプティコンとかいう刑務所を考案したそうだ。円形の建物の円周上に囚人たちの房が並んでいて、円の中心に看守の部屋がある刑務所だった。ちいさな窓から看守は囚人たちを監視していた。看守の姿は囚人たちには見えない。看守は監視しているかもしれないし、していないかもしれない。囚人たちは、看守の視線が気になって、規律どおりに行動するのだと言われた。
もちろん、薄給で働く看守たちは、囚人たちになにをしたわけでもない。逃亡されると上司に怒られるから塀際を念入りにチェックするくらいで、中でなにが起きようが気にしちゃいない。漫然と見ているだけだ。たぶんだけれど、なにもしてくれないと有名な神さまもそうだったんじゃないだろうか。看守と同じく、神さまも世界を見ているだけである。しかし、行動しないひきこもりの神さまが見てくれていることが、人々にとってはたぶん重要なのだった。

全世界にちりばめられたカメラの映像を見るというのは、つまり、世界をてのひらに乗せるということなのだと思う。そうやって人は安心する。カメラに見守られていない人間はゴミのように打ち捨てられるだけだ。どこかから飛んできた黒い死神にさらわれてもわからない。

気を取り直して、渡し船のサイトを検索した。時刻表を呼び出す。荒川の渡し船はカジノを出発したところだった。荒川沿いのカメラ映像を検索して映し出した。船腹に荒川警備隊とでっかく書かれた高速艇が、しぶきをあげてすっとんでいくのが映った。この寒空にご苦労なことだ。スーパー堤防上の道をひとりの老人が歩いている。なんだよ、ウチの爺さんじゃないか。この先は行き止まりだってのに。なにやってんだ。

渡し船の進行方向にあるカメラに映像を切り替えた。中州の様子が映った。オープン主義者たちが住むところだ。わけのわからない連中で、変な踊りをしたり、一日中テーブルの前で座っていたりする。完全公開のカメラが多い割には面白味がない場所だった。ななほしが吠えた。

「なんだよ。飲みもの?」
「わん」
黒い瞳がモニター画面をまっすぐ見つめている。オープン主義者の中州の映像である。ひとりの男が寒中水泳大会を決行中で、その横では3人の人間が小型のボートに乗り込もうとしている。ふたりが男、ひとりがちいさな女の子に見える。映像を拡大する。両手に、玩具の剣と円形の盾のようなものを持っている。海神れいだった。
「よしてくれ。なんでカメラに映ってんだよ……」
いくら捜しても見つからなかったはずだ。いままで、“映像が映らないカメラ”を探していたのだから。

視線を横にずらした。警官隊が入っていった兄の研究所に動きはなかった。犯人は見つかっていないようだ。警察ときたらすぐ現場に行きたがるが、いくら行っても無駄なことをそろそろ学習するべきだ。本当に犯罪者を捕まえたかったら、現場をうろついている警察官の半分をモニターの前に座らせて、日本全国を一日中監視させたほうがいい。そっちのほうが絶対犯罪は減る。やつらはなにもわかっちゃいない。

ショッピングモールの子供が集まる場所にガチャガチャが置いてある。PSPカードをピッとあてて、ハンドルをひねると、シリカエアロゲルに包まれた玩具が出てくるアレだ。事件はアレと同じなのだ。最後の2〜3個になったときに中を覗いてみればわかるが、ハンドルを回転させるずっと前に、すでになにが出てくるかは決まっている。中心の窪みにエアロゲル球体が落ちたときに決定するのだ。
つまり、事件現場でハンドルを回しているとき、すべてのことはすでに決定済みなのだ。現場はそれを追認しているにすぎない。日本中にちりばめられたカメラだけが、エアロゲル球体が穴に落ち込むその瞬間を捉えることができる。

「わん」
ななほしが鳴いた。
「もうちょっと待ってくれ。一段落したら、ご主人のところに連れてってやるから」

ああ、いそがしい!

2007.07.04
第56話「セキュリティの静止する日(9)」小野寺俊男

「では、せっかくだし、中の案内をしてもらおうか」

古渡が言った。研究所の1階だった。海神結は、案内はいいけれどそれはわたしの役目じゃないよという表情で立っていた。貧乏籤を引いて同行することになった警官は、しかたないから地獄の底までお供をするぜという顔だ。防弾チョッキの胸に大きく「かわぐち101」と書いてある。老人の言葉に答える人間は、自分以外にはいないようだった。

「中を見たってちっともおもしろくないですよ。メインのサーバ・ルームも、結局コンピュータが並んでるだけなんです。まあ、実物を見たことがない学生とかは驚いてくれますけど。古渡さんの世代だとむしろ馴染みの光景でしょう」
「ここは研究をしてるんじゃないのか。この男は、白衣を着ているだろうが」
結は黙っている。口を開く気はないらしい。しゃべるとなるといらないことまでべらべらしゃべるくせに、こういうときは羊よりも無口な男だった。
「わかりました。案内します。でも、つまらないですよ」
「わたしが決めることだ」
古渡は聞く耳を持たないようだ。しかたないので、古渡と結、警官101号の、バランスの悪い3人を引き連れ歩き出した。
「こちらへどうぞ」

廊下を進みながら携帯デバイスを操作し、川口の犯罪者注意報を見る。警官101号は周囲に厳しい視線を向けている。古渡と結はなにも気にしていないようだ。結果が出た。死亡事故を起こした男が逃亡中だった。つづいてニュースで死亡事故を検索。発見。どうやらとなりでやってる集会の講演者らしい。警官に画面を見せてみた。
「もしかして、この人?」
「お答えできません」
「あ、そう」
さすが口が固い。古渡が言った。

「犯罪者は埋め込みチップで管理してるんじゃないのか。警察はなにをやってるんだ」
「チップを埋め込むのは有罪が確定してからです」
「つまり、有罪は確定していないということだな」
「お、お答えできません」警官の顔に狼狽が浮かんだ。

古渡は口の中で文句のつづきを言っていた。せっかく見られないように来たのにとか、こんなことでは意味がないとかなんとか。わざと聞こえるようにしゃべっているのか、無意識のうちに漏れているのかは判断できない。いずれにせようっとうしいことはたしかだ。警官は聞こえていないふりをしている。結はもちろん聞いてない。
人に姿を見られるのが嫌なら、家でモニターでも見てればいいのにと思う。弟はそうしている。弟だったら、きっと、現場にのこのこやってくる人間をせせら笑うはずだ。家でできることは家でするべきだと。用もないのに出歩くから棒にぶち当たるのだと。ある意味弟は正しい。正しいからこそ、家の中から引っぱり出すことができないでいる。困ったことに。

だいたい、自分が古渡と応対しているのが不自然なのだ。それどころか、アルゴリズム発表後のネット記者会見の手配などもしている。本来なら秘書の仕事だ。研究の助手というのは、研究の助手であって、小うるさい老人の世話やマスコミの相手をすることではないというのに。老人や世間に対して説明することが必要だと考えてしまっていることそのものが、自分の研究者としての限界というやつなのかもしれないとも思う。結や弟は、行動がすべてであり、他人に説明なんかしなくてもいいと心の底から考えているはずだった。

「ここがサーバ・ルームです」
目的地についた。パネルに指紋認証しようとした手を警官が制し、壁に張りつく。開いた。誰もいなかった。部屋の中で3列に並ぶラックにサーバーが整然と並び、各マシンには冷却用のパイプと通信ケーブルが繋がれている。アルミ製の放熱板が、窓の外で反射光をふり撒いているのが見えた。古渡がつぶやいた。
「つまらんな。それに殺風景だ」
「だからおもしろくないと言ったでしょうが。ここでおもしろいことといったら研究者の頭の中くらいしかないですよ」
「ふん」
むかつくジジイだ。
「上に行きましょう」

エレベーターを目指し、廊下のどん詰まりまでやってきた。ランプを取り外した暗闇の中にハンモックが浮かびあがっていた。引っ越しでいらなくなったエアコンが窓に取り付けてある。エアコンのせいで窓は閉まらなくなっている。それどころか開け放しだ。吹き込む肌寒い風に、ハンモックが、獲物を待つ蜘蛛の巣みたいに揺れていた。

「ここはなんだ?」
古渡はすこし興奮した声だ。
「いや、ここは研究員の寝ぐらです。それだけのことです」
「こんなところで寝てるのか? いったいきみらはなんの研究を——」
「研究施設には宿泊設備が必須なんですよ。1週間前に申請しないと取れない部屋が会議棟にあったって意味はないんです。ところが、設計の段階でそういう要求が考慮されることは滅多にないものでして。グーグルでは50年も前に実現してることなんですけどね。しかたないから、こうやって自主的に廊下の隅を快適空間に変えてるんです」
「それでもこれはひどいだろうに」
「では、今度出資することがあったら、スターバックスと無料のキャンディーマシンを入れてください」

背後で足音がした。振り向いた。白衣を着たホームレス風の男だ。警官が身構える。古渡が眉をひそめる。結がちいさく手をあげた。
「研究者です。見てくれはああですけど、優秀な男です」

「あ、換気ですか。すみません。臭かったっすか」
「臭い?」
「シャワールームも遠いんですよ。それと、窓は開けてない。最初から開いていたよ」
「でも、ぼくは閉めましたよ。といっても、鍵はかかんないんですけど。ご覧のとおり、エアコンをはめてるもんで」
「じゃあ、窓を開けたのは?」
「さあ」
「セキュリティはどうなってます?」警官が聞いた。
「切ってあります。ほら、四隅にちいさな鏡があるでしょう。あれで光線を迂回してるんです。苦労しましたよ」

「こちら101号。侵入した痕跡を発見」
警官が無線で連絡をしている。
「ここはなっとらんな」
古渡がつぶやいた。そうかもしれない、と思った。古渡という男の意見に心の底からはじめて同意ができた。

2007.07.04
沖縄学年旅行(1)

2045年9月11日(月)

 うちの中等学校の学年旅行は2年生のときと5年生のときにある。自由参加だけど、参加するとボランティアの単位が1つつく。単位を取るためには、ライフログの日記エディタを使わないで、自分で日記を書かなきゃいけない。ということで、いまここに書いてます。今日は1日目。
 学年旅行の今年度の目的地は沖縄。参加者は例年より多くて、うちのクラスなんて半分以上が参加している。参加数が50人を超える学年旅行なんて、10年ぶりだと先生が驚いていた。
 うちの学年旅行は、現地集合で現地解散。わたしは、シイナたちと5人で飛行機で行った。男子のなかには、土曜日と日曜日を潰して船で着いていたグループもいて、早くも盛り上がってる。那覇空港のロビーで集合したあとは、みんなでバスに乗って、ひたすら観光、観光。
 首里城を散歩したり復元したナカグスクに登ったり普天間米軍基地資料館に行ったりといろいろ忙しかったのだけど、わたしの印象に残ったのは、観光地めぐりよりガイドさんの話。ガイドさんは28歳で、背の高いすてきな女性。琉装とスカウティング・グラスの立ち姿に、憧れてしまいました。
 ガイドさんは「ウチナーンチュ教育の第1世代」と自己紹介した。ウチナーンチュというのは、琉球語で沖縄人のこと。ガイドさんが小学校のとき、ようやく琉球語の教科書が作られるようになって、沖縄独自の歴史の教育も始まって、社会全体の意識が変わってきたらしい。今年は第二次世界大戦終戦100年で、先月はいろいろ記念行事があったみたい。南関東じゃニュースにもなってなかったけど……。バスのなかでは歴史や政治の話が多くて、退屈してた子も多かったけど、わたしはいいと思った。国のことを考えるのは大事だと思う。ガイドさんは琉球語もちょっとだけ喋ってくれて、文法は日本語に近いというけれど、なんかすごく海っぽい響きでロマンティックな気分になれました。
 宿泊は那覇市内のホテル。夕食の沖縄料理はおいしかった! みんなで枕を投げて午前3時ぐらいに……いえいえ、おとなしく消灯直後に寝ました(寝るはずです)。はい。

2045年9月12日(火)

 寝ぼけながら朝食を取って、午前9時には出発。バスは高速で本部半島へ。朝10時には美ら海水族館に到着。それから学年全員で見学。
 この水族館、むかしは巨大な水槽が売り物だったらしいんだけど、最近リニューアルされた。いまでは、沖縄周辺の海盆や海溝に沈んだロボットを動かし、現実の海底が見れるアトラクションが話題になっている。海洋生物マニアなわたしとしてはここは絶対に外せないので、友だちと別れひとりアトラクションに直行。イルカもマンタも無視して、30分並んで入った。
 いやあ、すごい! すごいです! カイロウドウケツとかやばい! リュウグウノツカイみたいなのも見えた! 人類は深海にもっと目を向けるべきだよー!
 というわけで満喫したんだけど、最後に急に油田の話が出てきて、国境付近のなんとかガス田とかいうところで、中国が30年前に放置したプラントの跡とか、そういうのをカメラで見せられる。せっかくいい気分だったのに、えーって感じ。あとでガイドさんに言ったら、「海底資源を採掘しているのは中国とアメリカばっかりで、沖縄にはそれを嫌っているひとが多いから」との答え。美ら海水族館は州立だし、リニューアルにもお金がかかったから、政治家の意見が入るのもしかたないんだって。うーん、わかるけど。わかるけど……でも、お客さんには外国のひともいるし、シイナのお母さんも中国人だし! 水族館にはあんな話は要らないんじゃないかな。
 お昼のあとは、班ごとに分かれて単位取得のための……じゃなかった、えっと、社会経験のための?課外体験授業の時間。わたしやシイナの班は、さらに北上してやんばる野生生物保護センターへ。センサーカメラを動かして絶滅危惧動物を見つけたり、サンゴ礁の白化メカニズムを勉強したり。10年前に絶滅したヤンバルクイナの剥製が、印象的でした。
 今日のホテルは名護。やんばるから名護は、タクシーでも30分ぐらいかかる。デバイスで呼んだ運転手さんは70歳くらいのおじいさん。このひとがちょっと困ったひとだった。いや、人間的にはいいひとだったんだけど。
 運転手さんが言うには、沖縄には米軍基地が多いんだけど、それはむかしからで、アメリカ人との生活には慣れてる。でも、ここ20年ぐらいで中国人がすごく増えていて、大きな問題になっているんだそうだ。
 沖縄は大陸に近く、交通も便利で、海もきれいだから、中国人やアジア人向けの高級別荘地がいっぱい作られている。本島はまだそうでもないけど、石垣島なんて、きれいな浜辺はほとんどプライベートビーチになっていて、住民はぜんぜん入れないんだそうだ。逆に、若い沖縄人のあいだでは、最近は子供を中国人向けの学校に通わせるのが流行っている。わたしは、まあ南関東もそうだしなとしか思わなかったけれど、運転手さんはそんな傾向が嫌いみたいで、途中からどんどん中国の悪口が出てきて、止まらなくなる。わたしは適当に相槌を打ちながらも、横に座ったシイナがいつ怒り出さないかと、心配でたまらなかった。
 ホテルに着いたら、シイナが泣き出してしまう。慰めてたら夕食に遅れて怒られる。ここは、提出のときはカットしたほうがいいかも。

2007.07.05
第57話「セキュリティの静止する日(10)」小野寺俊男

「ここはお茶も出ないのか」
部屋に入るなり、古渡一郎は談話室のソファに腰かけた。研究所の主のようなふるまいだった。研究員が寝ぐらにしていた廊下から談話室へとあがってきたところだ。この施設には、殺風景な研究室と会議室はあっても、スターバックスはなかった。おまけに今日は必要最小限の職員しか出社していない。

「コーヒーにしますか? それともお茶?」
「コーヒーをもらおうか」
「101号さんはなににします?」
「本官は必要ありません。どうぞ、そのお年寄りにあげてください」
「わたしに向かってそんな生意気な口をきくな!」
警官101号は気にしない。わずかに開けたドアの横で微動だにせず立っている。結は、窓際で外の風景を見ていた。

ふたつの携帯デバイスが同時に音を鳴らした。結はもちろん取らない。しかたがないので取ることにした。
「3階、小野寺です」
「1階、警備担当統轄です。群集が集まって中に入れろと騒いでいます」
「入れる? ……ちょっと待ってくれ。私有地に入れろもなにもないだろうが」
「それが、令状のない警察を入れたのになぜ支援者を入れないと」
「なんでそんなことまで知ってんだよ」
結が窓の液晶を操作した。窓ガラスに横方向の縞模様が表示される。外から中は見にくいが、中からは見えるパターンである。研究所のまわりに人が集まり出していた。ラボスクエアのほうから流れてきた人波のようだった。警官のほうを向いて言った。
「……あなたに文句言うわけじゃないんですけど、101号さん。情報公開もたいがいにしたほうがいいと思いますよ」
「恐縮です」

古渡がふんと鼻をならした。
「窓から写真を撮って顔検索をしてみればいいんだ」
「顔検索は違法です」
「それはタテマエの話だろう。市民集会に集まる有象無象どもは多かれ少なかれみな脛にキズを持っている。全員しょっぴけばいい。この日本もキレイになる」
無茶苦茶なジイさんだ。
「とにかく、中には入れないでください。お願いします」
「もちろんです。一応ご報告しておこうと思いまして。またなにかありましたら連絡します」
通話が切れた。コーヒーもできあがったようだ。できるだけぞんざいに、古渡の前に置いてやった。

「なんだってこう、今日に限ってしちめんどくさいことが起きるんだろうな」
「これくらいでいいのかもしれないよ」結が口の端に笑みを浮かべた。あまり表情の変わらない彼にしては最大限の感情表現だ。「いままで報道管制をしていた分、吹き出す感情も勢いがいいのだろう」
「だとしたって、なんの関係もない事件ばかり起こることはないだろうが」
「たとえば、戦争中の生活を想像してみればいい。歴史の教科書には、第二次大戦のとき国民の全員が槍を持って毎日訓練をしていたように書いてあるが、当時の資料を見るとそうでもない。敵が目前に迫っていた最前線以外はね。爆弾が落ちてきて隣人が死んでも、明日という日を人は生きていかねばならない。たとえ戦争中でも普通に生活していたんだ。泣きながら瓦礫を片付けたら、人はやっぱり、寝て、起きて、食べて、働いて、恋をしていた」
「戦争と一緒にすんなよ」
「情報戦も戦争のひとつだと思うが。この国はもう100年、戦争を経験していないからな。なにが戦いというものなのか、みなわからなくなっているのかもしれないよ」

結の言葉に、古渡が顔をあげる。意外そうな顔だった。
「どうしました? 当店ではコーヒーはこの銘柄しかないですよ」
「いや、きみらが終戦100年を知っているとは思わなかったものでな」
「いちおう、知識としては」
結の答えは短い。あとを補足した。
「そうそう。わざわざそのせいでアルゴリズムの公開を延期することになったんですからね。本当は夏にはもうできていたのに。まったくいい迷惑だ」
「なぜ公開日を合わせなかった? 終戦記念日のほうがいいだろうに」
「よくなんかないですよ。戦争に敗けた日を記念日にして何十年も祝ってたドMの国は日本くらいだって海外の記事に書いてありました」

「なっとらんな。きみら若い連中がそんなことだからこの国は沈没していくんだろう。今年は終戦100年めだというのに、街でもネットでもなんの反応もなかった。この国の人間は終戦というものを軽んじすぎている。終戦日の公開は意義のあることだったというのに。なんと愚かな選択をきみたちはしたんだ」
「ずっといい、と思う人たちが意外にいたからですよ。だから変えました。このアルゴリズムはいまある秩序を崩壊させるためのものじゃない。新たな秩序を構築するための第一歩なんです。むかしの記念日に合わせて、意図していない意味を付加するのはよくないと判断しました」
「わたしはどっちでもよかったんだがな」結がつぶやく。
「おまえはいつもそうだ」

古渡がなおも罵りの言葉を発しようとしたとき、携帯デバイスが鳴った。電話だ。引っぱり出すと、弟の笑男からだった。老人と話すのも疲れていたところだ。ちょうどいい。
「ちょっと失礼」通話ボタンを押した。「もしもし。おれだ。俊男だ」
「……笑男だけど」
「めずらしいな。おまえが電話かけてくるなんて」
「ちょっと用があって。手短に言うよ」
「ああ、そうしてくれると助かる。こっちもそれなりに取り込んでいるからな」

言いながら、ちらりと古渡に視線を向けた。粗末なソファにふんぞりかえり、すすったコーヒーのまずさに口の中で不平を漏らしている。公務員も研究者もむかしはもっと質が高かったとかなんとか言っているようだ。ああそうですか。はいはい。毒か薬かといったらまちがいなく毒になる男だ。だけれど、嫌なジジイにはまちがいないが、この老人くらい所長にも度胸が据わっていてくれたら、自分ももうすこし楽だろうにとも思った。笑男が言った。

「聞いたあと、声を出したり、体を動かしたりしないでよ、兄さん。きょろきょろしたりするのもよくないと思う。難しいと思うけどがんばって」
「なんだそりゃ」
「とにかく約束してよ」
「わかったよ。動かないし声も出さない、目も動かさない。これでいいだろ」
笑男がひと息ついた。背後に、笑男とは別の生物の吐息が聞こえた。
「その談話室、窓際に書棚みたいなのがあるよね。なにを入れてるのかまでは見えないけど。近くに海神さんが立ってるやつ」
「ああ、あるよ」

「書棚の後ろに、逃亡犯が隠れてる」
ふりむかないでいることに、最大限の努力を要した。

2007.07.05
沖縄学年旅行(2)

2045年9月13日(水)

 今日は自由行動の日。午後4時に、那覇の州立伝統工芸館前で集合。そのあと琉球舞踊を見学。それまでは完全に個人自由行動でいいよ、という日だった。
 わたしは同じ班のみんなで泳ぎに行くつもりだったんだけど、シイナは昨日のショックで沈んじゃってる。おまけに台風が近づいているみたいで、朝から曇り空。それでもわたしはビーチに未練があって、那覇で買い物すればいいじゃんと言って、みんなをバスに押し込んだ。途中きれいな海を通るから、シイナの気分も変わるかもと思ったのだ。
 でも、結局はそういうノリにはならず、ビーチエリアも過ぎてわたしもうんざりしてきたところで、ネットでしか見たことのない光景が目に入った。たすきをかけたり同じ服を着たりしているひとが、拳を振り上げて、なにか叫びながら歩いてる! きっとデモってやつだ! わたしは、衝動的に降車ボタンを押して、驚いてるシイナたちを置いてさっさと降りてしまった。物珍しいというのもあったんだけど、いま振り返るに、わたしはちょっとシイナに怒っていたんだと思う。ごめんね。
 とにかく、わたしは降りた。デバイスで確認したら、わたしが降りた場所は、州道1号、嘉手納ロータリーの近く。
 デモにはいろんなひとがいた。若いひともお年寄りもいて、平日なのに小学生もいた。中国語やほかのアジア系の言葉も聞こえてきた。一緒に15分ほど歩いていくと、嘉手納基地のゲートの前に出た。みんな道路に腰を下ろしたので、私も腰を下ろすと、隣のおばさんに話しかけられた。南関東から来た中学生だというと驚かれて、タコライスのお弁当をくれた。
 おばさんによると、嘉手納基地が3年後に「軍民共用空港」化するという計画があり、今日はそのターミナルの起工式。それで、賛成のひとも反対のひとも、両方集まっているとのこと。
 みんなが使える空港になるならいいじゃないですか、と訊くと、
「そうじゃないわねえ……。そりゃ歓迎するひとは多いけど、空港化は基地の永久化を意味するから、あくまでも返還を目指すべきだという意見も強いのよ。それとは別に、那覇空港は限界にきてるから、経済発展のためにオッケーというひともいるし、逆に那覇のほうを拡張したいから、嘉手納空港には反対というひともいる。日本本土の基地に影響が出るから反対というヤマトンチュもいる。アメリカと仲良くやりたいひともいる。反米を煽りたいひともいる。いろんなひとがいるの。野次馬もいるし」
 野次馬ですみません、と顔を赤くするわたしに向かって、おばさんは笑いながらいろんなことを教えてくれた。
 沖縄の政治は、親日派と親米派と親中派の三つ巴の争いになっていること。中国人にも親米派と反米派がいて、沖縄独立主義のひとが反米派の中国人に支援されたり、米軍が親米派の中国人と組んで基地反対運動を潰したり、それを批判する日本人がいたり、複雑だということ。ほかにもおばさんは、ハブ空港がどうとか、海洋資源がどうとか、いろいろ話してくれたけれど、難しくて覚えていない。

 事件が起きたのは、そうやって雑談をしていたときだった。あとでデバイスで確認したら、正確には午後1時32分。
 まず遠くのほうでボンという音が聞こえた。そこから拡がるように叫び声が大きくなって、まわりのひとも立ち上がったと思ったら、一斉にゲートに。おばさんとはすぐはぐれて、わたしはいつのまにかゲートの真正面に押し出されていた。目の前には鮮やかな黄色のジャケットを来た沖縄州警がバリケードを作っていて、そのうしろで弟の模型そのままのかたちをした装甲二足歩行車(そういう名前だよね?)が3体起動していた。二足歩行車の屋根に立った軍人が、拡声器でなにか言っている。たぶん中国語なんだけど、成績の悪いわたしにはわからない。しばらくすると、軍人に反論してかまわりのひとも一斉に叫びだして、上空にはヘリも飛んできて、投石、というか、みんなとにかくいろいろなものを投げだした。
 そこからさきはよく覚えていない。逃げだそうとしたんだけれど、人混みでまっすぐ走れない。デバイスを見ても「圏外」表示が出る。そのうち、ボトルやら弁当やらゴミやらがわたしの近くにも落ちてきて、左肩に激痛が走って、とりあえず荷物で頭を守ってしゃがんだら、目がしょぼしょぼし始めた。
 涙と咳と鼻水が止まらなくなって、道路に四つん這いになっていると、警官さんが後ろから抱え起こしてくれて、わたしの身元を確認したあと、マスクと薬をくれた。近くのバスに乗せられて、警察に連れてかれて……あとは、勝手で危険な行動について、ずっと説教されて、検査を受けて肩に湿布が貼られて(石があたったみたい)。そのうち先生が来てまた怒られて、親に電話させられてまたまた怒られて、ホテルに戻ってまたまたまた怒られた。自由行動だから自由に行動していただけで、巻き込まれたのはわたしのせいじゃないかも——と答えたら、これってうちの親が見たら保険会社に連絡するかも、みたいな勢いで怒鳴られた。おまえがわざわざ危ないところに行ったのはわかってる、ふざけんなって。
 ……はい。ごもっともです。でも、それはそれで、自然センター実習なんかよりもよほど社会経験になった気がしたけど……。とか言うと、また怒られるから、ここは削除しなきゃね。
 でも確かに、みんなに心配をかけたのは悪かったと思う。
 夕方は、ひとり部屋に謹慎になって、楽しみにしてた琉球舞踊は見られなかった。暇なんで検索すると、デモのニュースがたくさん見つかった。嘉手納新空港は州立ではなく民営で、建設工事は中国系とアラブ系の企業連合が落札した。かねてから沖縄の建設会社に任せなかったことへの反発があって、今日も沖縄人組織が工事車両に爆発物を投げたらしい(最初に聞いたボンという音だ)。けが人はなかったんだけど、デモに来ていた中国系の市民団体がそれに反発し、沖縄人とこぜりあいを起こし、最後には大混乱になって憲兵隊と州警が催涙弾で介入したとのこと。死者ゼロ、重軽傷者5人。なんのことはない、ただの内輪揉めだ。きっと南関東なら、アクセスが1万もないようなニュースなんだろうなあ。疲れがどっとでた。
 午後7時。夕食でみんなと合流すると、どっとまわりを囲まれた。なんでも、わたしが騒動に巻き込まれたことはデバイスの位置情報でわかっていて、でも肝心の通信はできなかったから(電波が混雑したせいだと思うけど、南関東ではありえないからよくわからない)、みんなすごく心配したらしい。あのとき先生が妙に早く到着したのは、車で近くまで来ていたからなんだって。むむー。みんな、ごめん!

 さっき、デバイスのライフサーチをかけてみたら、ガイドさんもおばさんもアドレスが記録されてなくて、びっくりした。南関東では、よほどのことがないかぎりデバイスの公開アドレス機能はオンにしておくけど、沖縄では常識が違うみたい。それとも世代の問題なのかしら。
 ガイドさんにもおばさんにも、もう連絡が取れないのかと思うと寂しくなった。両方とも名前も訊いてない。名前なんて、いつでもわかると思ってたから。もっと話をしておけばよかった。
 なんか、もう3時間も日記を書いてます。わたしって、もっとも熱心な旅行生かも。反省もしたよね? おやすみなさい。

2045年9月14日(木)

 旅行最後の日。
 朝食後、みんなでバスに乗って、斎場御獄と平和祈念公園を回って糸満で昼食。そのあと記念撮影をして、那覇空港で解散。ここは、あまり書くことはなかった。普通の観光旅行。
 行きと違って、明日は普通に学校があるから(なんで?って思うけど)、帰りはみんなだいたい同じ飛行機になる。羽田を使うひと、茨城を使うひと、横田を使うひとが分かれるくらい。でも、わたしは、空港で解散したあと、出発時間をわざと変更してひとりで市内に戻った。昨日は結局外に出れなかったので、もういちどゆっくり街を歩きたいと思ったのだ。
 1日目、みんなといたときは気が付かなかったけど、ひとりで歩くと、沖縄が、南関東とはぜんぜん違う社会なんだということが実感できる。ショップやレストランはローカルなものが多くて、棚の並びも違う。オルタナのサービスが進んでないので、デバイスを起動しても、どこになにがあるのかよくわからない。物価も安いけど、バイト代も安い。街のあちこちに銃をもった警官が立っていて、琉球語、日本語、それに英語と中国語を足した4ヵ国語表示でいろんな警告が貼ってある。国際通りには、地元の那覇市民と、郊外別荘地の住民である中国人やアジア人が、明らかに違う振る舞い、違うファッションで並んで歩いてる。みなみさいたまよりも、貧富の差が大きく、しかもだれの目にも見える。この4日間のことを思い出すと、きっとそれがこの州の最大の問題なんだろうな、という感じがする。
 わたしはいま、那覇でいちばん高いビルの、60階のホテルのロビーでこの日記を書いている。同じビルにはお父さんの会社の支社が入っていて、通りがかってそのことがわかったので試しにゲートをくぐってみたら、問題なく入れた。台風はどこへ行ったのか、今日は昨日と打って変わって晴天が開けていて、慶良間諸島がはっきり見える。昨日もこんな天気だったら、デモなんて行かなかったのに。
 ほか、いろいろ書きたいこともあったんだけど、頭も痛いんでもう止めます。単位取得用のレポートとしては、十分だと思うんだよね。それに、あらためて日記を読み返して気がついたんだけど、これ、貴重な中学最後の共学校の学年旅行だってのに、わたしってぜんぜんロマンスとか出会いとかやってなくない? というか、そもそも男子と話してなくない? いま思えばシイナは、わたしが深海に没頭してた水族館とか、デモに参加してた自由行動とかで、よろしくやってたんだろうなー。あたしってなんなんだろーっ? ここも提出のときはカット。
 あ、そうだ。最後に大発見。那覇ではまだ現金決済が生きてる! 弟へのおみやげとして、沖縄デザインの1000円札をゲットしました。れっきとした日本円なんだけど、肖像画がむかしの琉球王国の王様になっているやつ。これはきっと喜ぶぞ。

2007.07.06
第58話「セキュリティの静止する日(11)」小野寺俊男

通話を切った。

窓と書棚と海神結は左手後方にあった。右手前方にあるのがソファと古渡、右の真横の入り口に警官101号が立っている。結を見るために顔を動かすと嘘くさくなる。そんな気がした。携帯デバイスの画面表示をオフにする。真っ黒になった硬質ガラスを鏡代わりに書棚を映してみた。おかしなところは感じられない。結は、窓から外の群集を眺めている。書棚の影に意識は向いていないようだ。警官101号に右目でウインクしてみた。微動だにしない。音声を発して警告するわけにはいかなかった。

「なにをやっとるんだ」
古渡が反応した。
「弟からですよ。しょうがないやつなんです」
「そんなことを言ってるんじゃない。花粉でも飛んでいるのか」
「冬なのにおかしいですね。温暖化のせいかなあ。はっはっは」

思いついた。いい方法だ。通話を終えたばかりの携帯デバイスにメモ帳を呼び出す。まっさらの白い画面に、指先で文字をなぞる。逃亡犯が背後に……漢字が潰れて読めない。もっと簡単に書かないと。「犯人」「このヘヤ」「かくれて」ぎりぎり3単語書けた。なんとか警官に意図が伝わるといいが。

「おまえら、動くな!」

書棚の陰から男が飛び出してきたのはそのときだ。窓際の結に組みつき、背後から押さえ込んで首筋にナイフをあてた。この部屋に置いてあったパン切り包丁だ。ホーギーを切ったまましまっていなかった。失敗だ。波を打った金属片が結の首に食い込んでいる。切れ味の悪そうな刃だった。あれで首を切られたら、波打った切り口の生首ができるに違いない。

包丁を持つ筋肉質の腕に、電子タトゥーが彫ってあった。複雑な模様が、両腕の手首から半袖シャツに隠れる二の腕までを覆っている。アンチPSP知識人のトレードマークとして15年くらい前に流行したものだ。電子タトゥーの模様はありとあらゆるICチップの回路を模しており、そばにあるチップと干渉を起こしてPSPカードを読み取れなくする。犯罪者注意報で見たよりは知的で精悍そうな顔の男だった。顎に、うっすらと不精髭が生えていた。

警官101号が動いた。逃亡犯と結が一緒くたになったかたまりに向け銃を構える。逃亡犯が叫んだ。
「そこの警官、動くな! 連絡もするな。変に動いたら首がぱっくり行くぞ。そこに突っ立ってるおまえも動くなよ。デバイスと手は見える場所から動かすな。それからそこの爺さん——」
「爺さんと呼ぶな」
「やかましい。おまえも立て」
「老人を立たせるとはなにごとだ!」

誰も動けなくなってしまった。広くもなく狭くもない談話室に、沈黙と、どこかに電子機器の駆動音と、5人の男の呼吸音がこだまする。床のタイルに、窓ガラスの縞模様が投影されていた。

言ってみることにした。
「なあ、イガラシさん。あんた。どうして逃亡なんかしたんだ。逃げてもどうせ捕まる。人が死んだのは悲惨なことだけど、事故だったんだろう?」
逃亡者イガラシは包丁を握り直す。窓から射し込む光に、腕の電子タトゥーが虹色の反射光を散らした。
「逃げられないことくらい知ってる。PSPカードの管理をかいくぐってここに来ることに意味があった」
「でも、あんたが行きたかったのはとなりだろう。おれたちに関係ないだろうに」
「うるさい。PSPには問題があるんだ。我々は、言葉と行動でそれを社会に知らしめる義務がある」

「ひとつ聞いていいかな」
結がぼそりと言った。
「なんだ」
「この陽気にその格好で、寒くないのか」
イガラシの首筋が赤くなった。結の喉元に刃が余分に食い込んだ。

「むかしの社会は人と人が共感し協力して助け合っていたんだ。おまえたちは知らないか、知っていて気づかないふりをしているのかもしれないがな。いまここにあるのは、競争原理と、競争に負けた弱者の問題をすべて個人の心の問題として片づけようとする歪んだ社会だ。強者にとってはそっちのほうが効率がいいからな。その歪みの象徴がPSPだ。おまえはたしか海神結だろう。ならばおまえもわかっているはずだ。妹のために暗号を解読しようとしているおまえなら」

首に刃を当てられたまま、結がゆっくりとしゃべりだす。
「誰だかわからないが勘違いしてもらっては困る。べつにわたしは妹のためにやるんじゃない。あくまでもれいはこの社会がつくりだした結果であって、この社会をなんとかするための原因ではないよ。世界をふたたびシンプルにすることができれば、あるいは彼女の病気も治るかもしれない。だが、それもまた結果であって目的ではない」
「戯言を言うな」
「たしかに人に先んじてわたしは理論とアルゴリズムを編み出した。だけれど、人の頭から生まれるものであれば、いつかは誰かが生み出すものだ。ニュートンがいなければ他の誰かが万有引力を見出したろうし、アインシュタインがいなければ他の誰かが相対性理論を考えついた。量子力学は、ハイゼンベルクとシュレーディンガーが同時に思いついた。わたしの理論だって、わたしが発表しなければ、数年違いで誰かが思いついたことだ。わたしは2045年の必然なんだよ。それ以外じゃない」

警官101号の左手がじりじりと動いていた。逃亡犯は気づいていない。結が言った。
「ところで、101号さん。その構えているのはなんだ」
イガラシの視線が警官を貫く。警官の動きが止まった。
「む、無力化銃です」
「つまりそれはなんなのかな?」
「対象にワイヤーを接触させて高電圧の電流を流します。対象は無力化しますが、命に別状はありません」
「電流はちょっと困るな。ここは電子機器がたくさんあるから。壊れると、けっこうめんどうな補償問題になると思いますよ」

101号の銃口が揺れている。談話室に電子機器はないだろうと思ったが、結が負傷すると困るので訂正しない。携帯デバイスが鳴った。
「取るなよ! 取るなよ!」
「この音は警備担当統轄からのものだ。取らなければ、異変を察して飛んでくるぞ」
「いいから取るな」

結の右手がゆるやかに動いた。目標は窓の開閉ボタンだ。押した。液晶ガラスが傾く。窓は回転式だ。最上部がイガラシの頭頂を直撃した。腕がゆるむ。結はかがんだ。バランスを崩した男の体を肩に乗せるように押しやった。イガラシの体が、開いた窓の空間から外へと落ちていった。悲鳴は聞こえなかった。

すぐに窓に駆け寄った。警官101号も走ってくる。下を見た。イガラシの体は、地面から2メートルほどの空中に浮かんでいた。空中にへばりつきうごめいている。透明なほうの警察の車だった。
「ふん。運のいい男だ」
遅れて歩いてきた古渡がつぶやいた。透明なボックスを群集が取り囲んでいる。群集に埋もれてイガラシの姿が見えなくなった。101号が無線になにか叫びながら廊下に飛び出した。結は白衣についたほこりを払っている。

「ケガはないか?」
「どこにも」
「おまえ、わざと逃がしてやっただろう」
若き天才数学者は、答えず、窓の開閉ボタンを押した。

2007.07.06
あるブログ(3)
■ブログ「ソノヰキ、ワタルヤワタラヌヤ」
■2045年9月10日のエントリ

 仕事の下調べのために南関東の南埼玉市に行った。私は「みなみさいたま」とは決して書かない。市区町村の表記をすべてひらがなにするという南関東州の決定は、まったく愚かしい。朝鮮半島のように漢字を全廃するつもりなのか。歴史がその愚行に審判を下すに違いない。

 用事を済ませたあと、ふと思い立って、荒川大橋駅に直結したモール、Qシティあらかわに寄ってみた。Qシティの「Q」は、キューポラの「キュー」とのこと。大きく2棟に分かれていて、駅東口に直結して「カルティエA」が、さらに道路を挟んで東隣に「カルティエB」がある。駅南口には、国内最大のカジノ、ベネチアン東京カジノ&リゾートが拡がっている。Qシティとベネチアンは、あしかわライナーの軌道を大きく跨ぐ空中回廊で繋がっている。回廊は「フラヌール・アヴェニュー」と名づけられ、Qシティ内部の通路はすべて「パサージュ」と呼ばれている。

 設計者はヴァルター・ベンヤミンを好きだったのだろう。100年前に死んだこのドイツの評論家が、そのさらに100年前のパリに見いだした遊歩者(フラヌール)たちの空間は、200年の歳月を経て、地球の反対側で醜悪なショッピングモールに結実した。ベンヤミンはパサージュに匿名の都市空間を見いだしたかもしれないが、いまのモールはその正反対だ。南埼玉は環境計算機密度が世界一高い都市だが、モール内部はさらに強力に個人情報を収集している。Qシティクラスのモールだと、おそらく客全員の歩行履歴をデータベース化し、公開プロフィールとマッチングして環境広告のカスタマイズをしているはずだ。ゲートをくぐった瞬間、そのことはデバイスに通告されているはずだが、そんなものを読むやつはだれもいない。

 私はモールは大嫌いなので、ほとんどこういうところには来ない。しかし、こういう人工空間が老人にやさしいことは確かだ。空中回廊は高齢者に配慮したゆるやかな傾斜になっている。施設内に階段はほとんどない。高齢者・障害者用のカートがあちこちで巡回している。80に近い私でも、あまりストレスを感じないで、広大なモールの全体を見て回ることができる。

 しかし、それこそが罠なのだ。空中回廊の頂点でカートを止めて、流れを観察した。今日は日曜日なので客が多い。モールからカジノへ、ひっきりなしにひとが流れている。カジノには子供向けの施設やスパも併設されているから、若い家族が続々と吸い込まれていく。高齢者もそれに続く。

 彼らがみな富裕層とは限らない。むしろ大半は中間層かそれ以下だろう。幼い子供や老人は弱者だ。彼らが自由に行動できる空間はあまりない。モールはまさに、その彼らが安全で快適に過ごせる空間を提供している。そして、その快楽と安全の代償として、個人情報と欲望をとことんまで求める。そういう取引が、世界中でモールを肥らせ、それに付随した「複合アミューズメント・リゾート」を増殖させている。子供を遊ばせるためにやってきた若い家族、居場所がなく散歩に出た高齢者は、モールで個人情報を吸い上げられた挙げ句、いつのまにかカジノに誘導され、今度は小金もすっかり巻き上げられていく。低額スロットマシンのデザインは、モールから送られてきた個人情報に基づいてリアルタイムで最適化され、脳神経科学の限界までプレイヤーの射幸心を煽る。そしてその向こうには、そんな貧しい日本人が決して入ることのできない、たいていは存在すら知らない、ハイローラー向けのVIPスペースが拡がっている。それは、悲惨を通り越して、笑うしかない光景だ。

 とはいえ、この寄り道には意義があった。当初の予定にはなかったが、このモールとカジノは使えるかもしれない。

 ここはおもしろい場所だ。モールは家畜化した日本人の「阿呆船」だ。カジノは資本主義の欲望の象徴だ。モールに隣り合って、半世紀前、まだ南関東が南関東ではなかった時代に建てられた年代物の高層マンションが2棟、並んで朽ちかけている。カジノの隣の親水公園は、東京首都州と南関東州の管轄権争いで放置され、ホームレスの王国になっている。そして対岸には、オープン主義者のコミュニティがある。この土地には、計算万能主義の現代人が忘れてしまった、なにか別の力が宿っているのかもしれない。

2007.07.23
第59話「12万人の怒れる名無し(12)」小野寺笑男

小野寺笑男逃亡犯イガラシの体が3階の窓から飛び出した。縦方向に回転しながらイガラシは落下、なにもない空間に背中から激突する。地面から2メートルの高さだ。モニター画面に、カエルの轢死体みたいな姿勢で空中浮遊するイガラシが映っていた。

電子タトゥーが刻まれた腕でイガラシは後頭部をさすっている。どうやら生きているようだ。

研究所を取り囲んでいた群集がイガラシの周囲に集まった。人の群れは、2メートル×3メートル四方の空間に近づけないでいる。イガラシの体の下に透明な“なにか”があるのだ。右往左往する人がゴミのようだ。物体を囲む人々は無数の腕を伸ばし、イガラシを宙から引きずりおろす。体が人込みに消えた。警官は研究所の入り口付近から動けていない。

群集の足元の画像を拡大した。明るさ補正。電子タトゥーが匍匐前進しているのが見えた。警官は動きが鈍い。いまごろ入口で点呼などしている。脚のあいだを電子タトゥーが移動する。

一般人と違って、警察は、PSPカード情報だけでなく顔検索ソフトを使って監視カメラ映像から個人を特定することができる。逆に言うと、自分自身の目でモニターを見て、犯人を追跡することに慣れていない。警察とイガラシの追いかけっこはイガラシに分があるようだ。PSPカード読み取りに干渉するだけでなく、タトゥーの模様がアンチ顔検索になっているものもあると聞くし。そんなことまでしてこのイガラシという男がなにをしたかったのかはわからないが。

それより問題なのは、透明な物体でイガラシの体がバウンドしたということだった。おそらく、透明な空間を占めていたのは光学迷彩を施した警察車両だろう。生身の目なら光の加減によって見えなくもないが、監視カメラで警察の光学迷彩を捉えることはできない。記録する段階で映像が補正されているからだ。日本で出荷されるカメラにはすべてそのチップがついているという話である。透明なほうの警察が出張ってきているとなるとただごとではない。兄が勤める研究所は、思っているよりも重要な施設なのかもしれない。

イガラシは逃げ切ったようだ。あーあ。警察は追尾が下手だな。ななほしに視線を移すと、まったくだという風にうなずいた。理解しているのか偶然なのかわからないけれど。

匿名掲示板のほうでは、電凸投票が行われているまっさいちゅうだった。電凸とはすなわち「電話突撃」の略で、カーニヴァルの対象となった人物や場所に直接電話をかける行為を指す。いま協議されているのは、クリニックに電話して行為中の精神科医を邪魔するか否かについてだった。

掲示板の意見は、「もちろん邪魔してカリスマ主婦たんの貞操を守るよ派」「邪魔はするけどもうちょっと待ったほうがいいよ派」「武士の情けで見逃してあげようよ派」の3派に分かれてデッドヒートを繰り広げている。すぐに邪魔する派とちょっと待つ派が拮抗、だいぶ離されて武士の情け派が追いかけている状況である。もちろん、ネットに流れている映像ははるか昔に録画したものであり、精神科医とカリスマ主婦がいまなにをやっているのかはわからない。

掲示板の流れは早い。ざっと追いかけるだけで精一杯だ。ある書き込みが目に止まった。

 >この映像。光線の具合、おかしくね?
 >なにが
 >反射光と影がヘンだ。いまの季節はもっと右から来るんじゃ?
 >見てきたようなこと言うなよ

リアルタイム映像ではなく録画だと気づきはじめた者もいるらしい。はいはい。あんたは偉いよ。カーニヴァルに参加する気がないのなら黙ってROMってろっつーの。

また書き込みがあった。動画サイトにマッドビデオがアップされたようだ。ハウス・ミュージックのリズムに合わせて精神科医が腰を振っている映像だ。声はカリスマ主婦の献立番組から拾ってきたらしい。数十分でつくったとは思えないほどいい出来だった。マッドビデオ職人は仕事が早い。こういう映像をすぐさま作るヒマ人どもがいるところがネットのおそろしくなおかつ楽しいところだ。

以前、「ゲームプレイ・ワーキングがつくりだすネットは冷たい社会なのだ」という意見を読んだことがある。

日本中のヒマ人どもの労働力を吸いあげて単純知的生産行為をさせているのがゲームプレイ・ワーキングというものだ。むかしむかしのリアルな社会がそうだったように、労働者と資本がプログラムによって不可視状態で結びつけられたネットは、資本によってルールが変更したりしない近代以前の社会と同じ構造を持っているのだという。しかしながら、人はパンのみにて生きるにあらず。ネットが冷たければ冷たいほど、人はひとときのカオスを求めてカーニヴァルに集う。ただ言葉と映像を消費するためだけに存在するカーニヴァルはネットの必然なのだ。

映像へのアクセス数と掲示板の書きこみが相乗効果で伸びていく。見ているかprevious75。世の中なんてちょろいものだ。

踊れ踊れ、ヒマ人ども。カーニヴァルは、見るより、参加するほうがぜったいに楽しいよ。

2007.07.24
第60話「古本2045(3)」名も無い男

「ごくろうさん。日当だよ」古本屋は言った。「現金払いがいいのかな?」
「カード決済でいいです」
「助かるよ」

古本屋の携帯デバイスに向け、内側を表にして手首を差し出した。脈を取るときにさわる場所に十字形をした黒い物体が埋め込んである。チップ型のPSPカードだ。キリスト教系の慈善団体が発行しているものだった。体温だか鼓動だか筋電流だか、とにかくそんなものをエネルギー源として半永久的に動くと聞いている。

ホームレスなどということをしていると、意外と、現金よりもPSP決済のほうが役に立つものだ。現金の取引は人間の手を介す必要があるが、PSPカード決済なら自動引き落としで済むからだ。この埋め込み式カードは維持手数料もかからない。慈善団体に居場所を知られる不都合はあるが、他の団体が提供する公共サービスに比べれば制約はすくなかった。

むかしは、猫や象は、死期を悟ると人間が知らない場所に行ってひっそりと死ぬと言われたものだ。いまや、動物はおろか人間だって、人知れず死ぬことはできない。ホームレスに限った話ではない。人はかならず骸を他人に晒す。誰の世話にもならないことを選択した老人でも同じだ。そうした老人たちは、PSP情報が住居内の一点でまったく動かなくなり、自治会が部屋を訪ねて死んでいることが判明するという。

プライバシーとは、カメラがリアルタイムで部屋の中までは入ってこないことであり、どこにいるかを知られないことではない。それは買い物でも同じだ。デジタル情報の閲覧権を購入すれば著作権管理団体に個人情報が渡る。かつてのように、コンビニで、誰にも知られずエロ雑誌を買うことはできない。本があふれていた時代ははるかむかしに終わってしまったのだった。

「またなにかあったら頼むよ」
そう言って古本屋は去っていった。枯れた葦が揺れている。荒川の風が、大量の本があったという記憶を吹き飛ばしていった。あとには、労働で疲弊した体と、1冊の雑誌と、てのひらに染みついたかすかな紙魚のにおいが残っているばかりだった。

川のほうから割れた声が聞こえた。
「そこの未登録船舶、止まりなさい!」

振り向くと、真っ白なパトロール艇に小型ボートが追尾されていた。追われているのは中州を根城にするオープン主義者、追っているのは荒川を警備するNGOだろう。このNGOは、河原で生活するホームレスにもときおりちょっかいをかけてくるやっかいな連中だ。放棄された場所で誰にも迷惑をかけぬようひっそりと暮らしているというのに。

川口と赤羽に挟まれた荒川を上空から見ると、アルファベットのYのように二股に分かれている。Yの字の上半分の左側が荒川、右側が隅田川である。分かれた部分の荒川河川敷は、南関東州の川口の街と隣接している。ところが、行政区分では、そこは東京首都特別州の管轄なのだった。いくら金あまりの東京首都特別州といえど、飛び地となった細長い河原を管理するために人を雇うほどヒマではない。そういうわけで、荒川の河川敷は、いつしかホームレスたちが住みつくようになっていた。

目の前の川岸でボートが急停止した。小用を足すために川に向かって粗末な板が延びているところだ。運転していたのは中途半端な長さの髪にヒゲを伸ばした男だった。男は言った。
「すまんな。ここが精一杯だ。降りてくれ」
「すまんで済むか」
「まさかカジノと結託して警備隊が隠れてるとは思わなかったもんでね。悪いなジイさん」
「そんなものは理由になるか。こら、揺らすな! 降りられんだろうが」

ボートに乗っていたのは3人だ。オープン主義者らしき男と、老人と少女である。ぶつくさと文句を言っているのは老人だ。少女は、玩具の剣と半透明の円形状物体を大事そうに抱え、軽快にボートから跳び降りた。

「そこの未登録船舶、動くな!」
「動くなと言われて動かない奴がいるかよってーの。じゃあな!」
けたたましい音とともにボートが急発進する。青黒い水面から透明な飛沫が舞いあがった。老人が罵声を吐く。NGOのパトロール艇が、割れた叫び声をふりまきながら追いかけてゆく。

「やれやれ。大変な目に遭った」
老人は、濡れた脚をぶらぶらと振りながら歩いてくる。少女がこちらに気づいたようだ。踏み固められた土を軽やかに走ってきた。
「おまえは新しい村の村人なのか?」

老人を見ると、水べりで濡れたパンツの裾を絞っているところだった。同じボートに乗っていたというだけで、少女の肉親というわけではないのかもしれない。普通、ホームレスに子供は近づいてこないし、保護者は子供を近づけさせない。

「話してくれないとわからないぞ。もしかして、人の形をしたモンスター?」
「違うよ。お嬢さん」
「わたしはゆうしゃだぞ? 兄さまのところまでぼうけんに行くところなのだ」
少女は剣を持ちあげる。
「そうか。勇者さんか。剣を持ったお姫さまかと思ったよ」
「お姫さま?」
「そう。お姫さま。英語で言うとプリンセス」
「プリンセスか……プリンセスも旅をするのか?」
「いやまあ、旅くらいするんじゃないかな。きょう日のプリンセスは」
「なるほど。たしかに、兄さまの妹はゆうしゃよりもプリンセスのほうがいいかもしれない」

思案顔で少女は剣をおろした。それまで勇ましく大地を踏んばっていた脚が、なぜか内股に変化するのが見てとれた。

2007.07.24
6thターンまでのあらすじ

忌まわしき災禍、第二次世界大戦の終結日からちょうど100年。

その日、川口の街を流れる荒川は、天気晴朗なれど浪高し。いやこれは第二次大戦ではなく日露戦争のときに東郷司令が打電した言葉でした。

終戦とともに生まれた人は100歳、かつて学生運動でゲバ棒をふるった若者も90歳を超えています。なにしろ、1980年に生まれた人が65歳になっているのが2045年なのです。紙に印刷する新聞や雑誌は消滅しました。番組はありますが、放送としてのテレビなんてものもありません。決済はすべて電子マネーで、現金をやりとりするなどというのは、2000円札にわたしたちが遭遇する機会とどっこいです。古い記憶たちはイイカンジで薄れ、若者ときたらふたつの大戦と湾岸戦争の区別もつかない状態です。そういう日本で、人々は、気楽だったり、それはそれで大変だったりする毎日を過ごしています。

この日、川口の街では、いくつかの事件が進行しています。

天才数学者・海神結が発表した暗号解読理論によって、セキュリティの危機が訪れるというのです。人々は秘密の暴露を怖れて奔走し、あるいは預金の確保に走り、あるいは噂話に興じ、あるいはなにも起こりやしないよと家で昼寝しています。老人・丸田蔵人は、この機に乗じて恋敵の小野寺明を亡き者にするつもりですし、カリスマ主婦は混乱を利用してのしあがる気満々です。それ以外の人々も、それぞれ勝手な思惑で、きょうという一日を迎えようとしています。

そして、ギートの青年・小野寺笑男は、日本中に散らばる監視カメラ映像を映すモニターの前で、ひとり、ほくそえんでいました。

2007.07.25
第61話「好き好き大好きハナさん(6)」丸田蔵人

丸田蔵人警備隊に追われたオープン主義者のボートが上流へ消えていった。

上陸地点は、あらかわ大橋から500メートルほど下流の河川敷らしかった。親水公園の船着き場から200メートル以上離れた場所である。手製の桟橋に見えたのは、護岸ブロックの上に板を渡しただけのものだ。風化した板は体重で歪み、強く踏んだら折れてしまいそうだった。

眼前に広がる河原には枯れた葦が密生し、ところどころ葦の隙間からブルーだったりグリーンだったりする防水シートが覗いている。全体を見回すとカーキ色のカーテンで覆われた迷路のようだ。つまりここは、河川敷にあると噂のホームレスの集落なのだった。やれやれ。今日はとんだ大冒険だ。オープン主義者め。ひどい目に遭わせてくれる。

一緒にボートに乗ってきた少女はホームレスらしき男となにやら話していた。エタノールエンジンの爆音で耳がやられたらしく、なにをしゃべっているかは聞こえない。まったく、この少女ときたら怖れというものを知らない。街中で宇宙人に遭ったとしても、なんのてらいもなく話しかけそうである。子供のパワーはすごい。

ホームレスの男は40代から50代といったところだった。髪はほつれ波打っていたが、身なりはこざっぱりとしている。とりたてて危険はなさそうだ。放っておくことにした。それより考えなければならない問題が山積している。これからどうしたものか。パンツの裾を絞りながら思案した。11月の水は冷たい。えい、いまいましい。

奴はなぜ自分を追ってくるのだろう。

小野寺明は、現在、スーパー堤防上を歩いている。ちょうどホテルの真横あたりだ。携帯デバイスに表示されていた。そもそも奴は、ソウルケアハウスの住人ではない。他の場所に家族と同居している通いの人間だ。もちろん、ハウスで会えば短い会話はする。ハナさんというひとりの女性を巡って対立状態にもある。だが、表立った交遊関係はない。ひょっとして、今日起こるはずの混乱に乗じて小野寺も恋敵を亡き者にしようとしているのだろうか。いやいや、そんなはずはない。

わざわざ小野寺のほうから近づいてきているのをチャンスだと考えるのはどうだろう。いや、それはない。殺害前に一緒にいるところが監視カメラに映ったらまずい。待て。奴がこっちを位置検索していることは記録として残ってしまっている。これはよくない。このまま一度も会わずに小野寺が死体となって発見されれば怪しまれるはずだ。オープン主義者とおせっかいな民間警備隊のせいで、すでに普段の生活パターンからかなり逸脱した行動をとってしまっている。この上怪しまれるようなことをするのはよくない結果を生むだろう。

だが、この河原で奴と遭遇するのは嫌だった。他に人がいる。見られている。いや、人がいるほうがかえっていいのかもしれないぞ。他人に見られた状態で友好的な会話をすればアリバイになる。それならば、ホームレスと少女よりは一般の人間がいいだろう。さらにいいのは監視カメラに友好的な会話が映ることだ。河原はカメラがすくない。ならば逃げるか……思考が堂々巡りをしていた。考えれば考えるほどわからなくなった。

「逃げちゃいかん。逃げちゃいかん」
口の中でつぶやき、深呼吸をした。ここは、冷静に考えてみよう。はるかむかしに仕事で習ったはずだ。こういうときは5W1Hで考えるといい。when, where, who, what, why, how——すなわち、いつ、どこで、誰が、なにを、なぜ、どうするのか。

whoとwhatは考えなくていい。小野寺と自分が会うことだ。なんだか知らないが小野寺には用があって、位置検索したことが記録に残っている。つまり、奴に会わないよりは会ったほうがいい。これがwhyの解だ。小野寺殺害を完全犯罪とするためには、事前に奴に会っておかなければならない。

では、whenはどうか。いつ小野寺と会うのが最適か。いますぐ会う意味はないだろう。セキュリティが解除されるまでまだ1時間以上ある。どうせ会うなら、解除される直前がいい。それだと死ぬ直前に会った人間ということになるがしかたない。ここはあきらめる。会ったときに奴のパワーアシストスーツにバグを仕込み、致命的な事故を起こさせるのだ。iJeansなどというセキュリティホール丸出しのパンツをはいているのが運の尽きだ。

残りはwhereとhow——どこで、どうやって遭遇すればいいのか。ここで待っていれば小野寺が勝手にやってきてしまう。時間を稼ぐためには、奴と反対方向に移動しなければならない。ところが、堤防上の道はマンションで行き止まりだ。先はない。小野寺がやって来ている方向へ行くしかない。

「オープン主義者め、河原沿いになど泊めおって。道もないではないか」
毒づいた。少女が振り向いた。そして、奇妙なイントネーションで言った。
「道がなければ河原を歩けばいいのですわ。じい」
「そんなわけにいくか。それに、爺なんて呼ぶんじゃない」
「あら、残念ですわ。名案だと思いましたのに」

「そうでもないかもしれないよ」
会話に割り込んだのはホームレスの男だ。
「なんだと?」
「たしかに河原に道はない。堤防の上の道もマンションで途切れている。だが、上流に行けばすぐに公園があるし、下流に500メートルほど歩いていけば荒川に流れ込む支流にぶちあたる。そいつにはちいさな橋がかかっている。下が水門になってる橋だ。河原だって捨てたもんじゃないんだ」
「ここには抜け道があるのか」
「あるよ。車だって入ってこれる。そうでもなけりゃ、公園とマンションに挟まれた状態でおれたちはどうやって移動するんだよ」
「それはそうだな」

ならば、小野寺が到着する前に早々に立ち去るべきだろう。少女を連れていくという選択肢はない。だが、ホームレスと一緒に子供を置いていってよいものか。まあ、南関東州ではガキこそ安全だという説もあるが。どうせ位置情報は親ががっちり把握しているのだから、生半可な犯罪に巻き込まれたりはしないのだ。

こちらの気も知らず、少女は、まないたの切れ端に剣を突き刺したりしている。呑気なものだった。
「わたしはこのまま下流を目指すことにするよ。ここでお別れだが、だいじょうぶかね」
「じいには用があるのですね」
「うむ。ま、まあな」
「お名残惜しいですけれど、わたくしはだいじょうぶです」

少女の頭の上で、玩具の剣に刺したまないたの切れっ端が揺れていた。日傘でもさしているつもりなのか。またぞろおかしな遊びをはじめたようだ。言葉遣いも最初と違う。子供はよくわからない。
「そうか。なら、悪いが、わたしは行く」
下流にあるという橋を目指し、人間の背丈ほどもある葦を掻き分け進み出した。背後から「ごきげんよう」という時代がかった別れの言葉が聞こえた。振り向かず、肩越しに左手を振った。

ヘンなガキだ。やはり子供なんぞいなくて正解だったかもしれぬ。

2007.07.26
第62話「working pure(6)」君島フランツィスカ史帆

君島フランツィスカ史帆手を貸さなくても男はひとりで歩けるようだった。セロハンテープでぐるぐる巻きにした足首も問題ないらしい。ソウルケアハウスの老人たちよりしっかりした足取りである。まあ、貸そうにも、ウェイトの問題で支えきれないかもしれないのだけれど。

荒川の河川敷は広大な公園になっていた。比喩ではなく本当に広いのだ。なにしろ荒川は幅が500メートルある。堤防上の道から見下ろすと、公園内に植樹された樹々や設置されたベンチが人形遊びに使うミニチュアに見えた。反対側の街区にあるのは大型カジノとリゾートホテルだ。ホテルの先には、ふたつの建造物よりさらにのっぽの高層マンションが林立している。

「ところで、PSPカードが壊れてて、どうやって船に乗んの?」
白人の男に聞いてみた。男は無言で懐から紙束を引っ張り出した。
「なにそれ?」
「real moneyだ。見たことないのか」
「うわ、現金かよ。さわっていい? どこで手に入れたの?」
「ショッピングモールの屋台で売っていた。だいぶ手数料を取られたがな」
「手数料?」
「1000円につき300円だったよ」
「げ」

ここにもバカがいたよ。それぜったいボられてるって。いやまあ、この人の場合はしかたないのかもしれないけれど。1000円で300円ってことは3割だ。100万円交換したら30万円? なんてボロい商売なのだ。

それにしても、男が持っている紙の束はぶ厚かった。見たかんじ100枚くらいある。電子決済が普及する以前、紙束で買い物をしていた人たちはさぞかし不便だったことだろう。原始人が出てくるマンガの中では、中心に穴が空いたでっかい円形の石で買い物をしたりしていたし。文明が進歩するにしたがってお金はちいさく持ち運びやすくなっていくものなのかもしれない。お金は寂しがり屋で、放っておくとひとつのところに集まりたがると聞いたことがある。その話が本当だとすると、原始の時代の金持ちは、荒川の河川敷もびっくりの茫漠たる敷地に現金を並べていたに違いない。いまの時代に生まれてよかった。すくなくとも、いまは、持ち運んでいる現金の量で貧富の差は見えないから。

カジノ入り口に設置された大型のスクリーンにひとりの女性が映っていた。カリスマ主婦の、たしか名前はさくらさんとかいったはずだ。名字は知らない。カメラに向かってなにかをしゃべりながらさくらさんは忙しそうに手を動かしている。ショッピングモールが提供しているお料理番組だった。今日のレシピは体の芯からあったまる豆乳鍋……ってことは、今日は豆乳が特売だ。おぼえておこう。

見たことはないが、さくらさんはこの近所に住んでいるという話だった。奥様然としているというか、はっきりいってそれほど美人ではないのだけれど、そういうところがかえって好感を持てる。しゃべりかたも穏やかで、職人が磨きあげたてすりみたいに刺がない。きっとこの人は円満な家庭生活を送っていて、絵に描いたような一家団欒をしているのだろう。できうることなら、将来は彼女のような家庭を築きたいものだ。セキュリティの危機が訪れるとか言われてるときに晩ごはんの献立を考えている時点で女子高生としては終わってるのだろうけど。しかたないじゃん。

ふたり組の主婦がひそひそと話しながら横を通りすぎていった。白人の男がスクリーンに向かってあごをしゃくった。
「有名人なのか?」
「このへんではね。市長くらいにはなるかも」
「ほう」
ポケットの中の携帯デバイスが震えた。友達からのショートメッセージだ。
「ちょっとごめんね」

>大ニュース! 川口に逃亡犯がいるらしいよ

はあ? こいつはなにを言っているのだ。返事を返すと、すぐに第2報が来た。

>犯罪者注意報が出てるんだよ。PSPカードなしで逃亡中の男が川口に潜伏してるんだって。筋骨隆々の大男でホモ。腕にすごいタトゥーがあるらしい。浮気相手と恋人の両方を撲殺して逃げてる最中なんだって!
>すぐ捕まるよ
>逃げてるからニュースなの!

PSPカードがなければ南関東州で自由に行動することは難しい。橋すら満足に渡れないのがこの街だ。っていうか、もしかしてこのガイジンが逃亡犯なのか? 現金持ってるし。PSPカードが使えないのも犯罪者だからと考えれば適合する。歩調を変えず、眼球だけを動かして男の腕を見た。黒いコートに隠れている。この下にタトゥーがあってもわからない。男のごつい拳は、片手でリンゴジュースがつくれそうだ。いや、でもホモなら安全かも。違う。そういう問題じゃない。

>みんなで見つけようって言ってんだよね。発見者は1週間昼飯フリーってことで。シホもやろう
>バカなことやめなよ
>えー
>危険だろうが
>だいじょぶだよ。じゃ、シホも乗るってことで。幸運を祈る。ビシ!

勝手に話を終わりにしやがった。どうせならもっと情報をよこしてほしい。日本人なのかそうじゃないのかとか。見た目とか。着てる服とか。白人の男は規則正しい歩調で黙々と歩いている。なんだか軍人っぽい歩きかただ。そのまま、堤防に設置されている階段のところまで来た。

「こ、ここから堤防を下りていけば公園に行けるよ。公園の中に船着き場がある。カジノとホテルにもあって本当はそっちのほうが近いんだけど、PSPカードがないとたぶん入れてもらえないから公園のほうがいいと思う」
「Thank you」
男の顔が奇妙に歪んだ。もしかしたら笑ったのかもしれない。岩石を削ったみたいなごつい顔なのでよくわからない。とりあえず、業務用スマイルを返した。
「いいんだよ。これもソウルケアの修業ってやつだからね」
「本当に助かった。ここは変な国だが、きみもがんばれ、pretty girl。おれの祖母も移民で最初は苦労した」
「はあ」
「Good luck」

片手を挙げると、逃亡犯かもしれない男はやっぱり規則正しい歩調で階段を下りていった。悪い人間には思えなかった。もしもこの男が逃亡犯だとしても、1週間の昼食のために彼の自由を束縛するのもなんだかという気がした。しかし、ガイジンにまで外国人労働者にまちがわれるとは。ま、いいか。

スカウティング・グラスに映った小野寺さんの光点は、親水公園を通り抜けてさらに先まで行っていた。堤防上の道をそのまま歩き、行き止まりになっているところで河原へ下りる。ここはもう公園の敷地ではない。荒れ果てたクリーム色の荒野が広がっている。密生した葦の合間にできた道らしきものを進むと、男と少女のふたり連れが立っていた。少女は、玩具の剣の先に円盤のようなものを突き刺し頭上に掲げている。少女が言った。

「また人が来ましたわよ。じい」
「なんだ。こんどはおれが爺かよ」

うわ。また変な人に遭っちゃったよ。

2007.07.27
第63話b「メン・イン・ブラックの不運な一日(1)」ポール・ディアス

荒川を横断する連絡船が汽笛を鳴らしながら出航していった。ひと足違いだった。桟橋に目標の姿はない。どのみち、船の進行方向はカジノではないから、少女が乗船していたとは考えにくい。海神結の妹はまだ赤羽側にいると推測できた。

テープを巻いた右足首が鈍痛を発した。ダルフールでのテロ組織急襲作戦でできた古傷だ。無理にひねったせいで痛みが再発したのだ。いつ爆発してもおかしくない原子炉こそないが、このカワグチも戦場のようなものだった。最新の光学迷彩で身を包んだ狙撃兵がそこかしこに潜み、銃口から火炎をあげるそのときを待っている。

ふと見ると、桟橋からほど近い葦の陰に、ちいさな白いボートが停泊していた。ボートの上では、ヒゲをたくわえた痩せぎすの男が、背伸びして周囲を見回している。現地民だ。心臓の鼓動と同じ間隔で傷が痛んだ。男と目が合った。陽気な声で男は言った。

「向こう岸まで乗ってくかい? 安くしとくよ」

2007.07.27
第63話a「working pure(7)」君島フランツィスカ史帆

君島フランツィスカ史帆おかしな組み合わせのふたりだった。

というか、圧倒的に少女がおかしかった。玩具の剣プラスアルファを傘みたいにして持ってるし、言葉遣いもヘンだし、公園でもない河原に少女がいること自体がおかしいと言えばおかしい。男のほうは、フリーペーパーみたいなものを丸めて持っている。河原にいると聞くホームレスっぽくもあったが、ちょっと散歩に来ただけのおじさんにも見えた。聞いてみることにした。

「ちょっと聞くけど、ここをお爺さんが通らなかった?」
「爺さんならふたり通った」
答えたのは男だ。
「小野寺って人なんだけど……名前じゃわかんないか。名札つけてるわけじゃないし」
「徘徊老人なのか?」
「違うよ。忘れものを届けるところ。でもまあ、これも徘徊の一種なのかもね」

「オノデラさんなら知ってますわよ」
背伸びするような姿勢で少女が言った。会話に加わりたいようだ。
「だいぶ前のことになりますがご一緒してました。オノデラ・エミオという人です」
「エミオ?」
「はい。たしかエミオとおっしゃいましたわ」

オノデラ・エミオとは、自分が知っているトコロのご近所さんであり、6年以上会っていない小野寺笑男のことだろう。笑男なんて名前がそうそうあるはずはない。スカウティング・グラスの端っこにオレンジ色の警告アイコンが表示された。心拍数が急上昇したらしい。ほっとけ。

「な、なんでその人のこと、知ってるの」
「わたくしのことをストーカーしてらっしゃったのですわ。いまはわたくしの犬を追っています」

小首をかしげて少女は微笑んだ。深窓の令嬢っぽいというか、ドラマに出てくる深窓の令嬢の子役っぽいスマイルだ。仕草のわりに、言葉の前半と後半が噛み合っていないのもドラマっぽかった。ストーカーならば、犬を追うのではなく犬に追われているはずだろうし。しかし、少女の言うことが本当ならば衝撃の真実である。19歳になるはずの笑男は、もっと目立たないところで人の役に立つことをしているものだと勝手に思っていたのだ。まあ、知っているのは小学校のときの姿だし。現実ってそういうものなのかもしれないけれど。

男から聞いたところでは、小野寺さんはすこし前に通り過ぎたらしいことがわかった。こっちもけっこう速く歩いているつもりなのに、意外に健脚だ。テクノロジーはあなどれない。さて、どうするか。ここで突っ立っていてもしょうがない。小野寺さんに会って封筒を渡すのが自分の仕事だった。

「ところで……その、手に持ってるのは、なに?」
少女に聞いてみた。
「これはレディーのたしなみですの」
「そ、そう。レディーなんだ」
「あなたは違いますの?」
「あたしはレディーってわけじゃないと思うな。レディーってのがなんなのかも正直わからないけど」

ふたりの会話に男が笑ったようだ。
「レディーの語源はたしか、パンをこねる人って意味だ」
「え?」
「男がパンを守るでロード。どちらも、もともとの言葉にはそれくらいの意味しかない」
「そうなんだ」
「人は普通、抽象概念でコミュニケーションするわけじゃないからな。モノには固有の名前が必要になる。固有名さえあれば、認識が異なっていても具体的なコミュニケーションは成立する。だが、その人が属する共同体ごとに固有名の背後にある概念は異なるから、相互が使う文脈にお互いに違和感をおぼえることになる」

男の言うことはなんだか難しい。
「おじさん、頭いいんだね」
「悪くはない。ホームレスだけどな」
「やっぱり……ホームレスなんだ」
「ホームレスにもいろいろあるんだよ。道に落ちてるボトルを拾って換金したり、NGOに追いたてられたり、こっちが家の庭だと勝手に思ってるところを爺さんが散歩コースにしていたりな」
「ご、ごめんなさい」

「で、お嬢さんはどこに行きたいんだ?」
「お爺さんを追いかけなきゃならないんだけど、その人、案外足が速いんだよね」
「わたくしは兄さまの研究所を目指しておりますわ」
「なるほどな」
ホームレスの男は、丸めたフリーペーパーでてのひらを叩いた。思案しているようだ。
「こういうのはどうだろう。実はおれは、そこにある高層マンションの抜け道を知っている。研究所はマンションの向こう側だし、河原を抜けていった爺さんたちも、橋を渡ったらどうせマンションの向こう側に帰ってこなきゃならない。そしておれは、ひと仕事終えて腹が減っている。マンションの向こうで晩酌の必需品を調達するつもりだ。一緒に行くか?」

「あたしは助かるけど……いいの?」
「ついでだし、それに、この嬢ちゃんをここに放っておくわけにもいかないからな」
「知り合いじゃないんだ」
「子供に知り合いなんかいない。オープン主義者のボートで突然やってきたんだ」
ふたりは同時に少女を見下ろした。少女が微笑する。
「では、じい、案内してくださいませ」

少女は空いているほうの手を持ちあげた。社交ダンスでパートナーと組むときの女性の手つきだ。男は少女に触ろうとしない。ただ黙って立っている。しかたないので、手を引いてやることにした。袖摺り合うもなんとかと学校で習ったし。歳の離れた妹がいたらこんなものなのかもしれないし。それに、この子と一緒にいれば、小野寺笑男にばったり会うかもしれない。いまさら会ったからといってどうってことはないのだろうが。まあでも、ストーカーはやめろと言うくらいはできるだろう……なんてことは、ほんとちょっぴりだけしか考えてない。

いいじゃん。べつに。

2007.08.06
第64話「セキュリティの静止する日(12)」古渡一郎

古渡一郎「ふん。運のいい男だ」

3階の窓から落下した逃亡犯イガラシは地面から2メートルの空中に浮いていた。イガラシのまわりを人が取り囲みはじめると、それまで地面を映していた“なにか”が、人間の顔や服のモザイクみたいな気色悪い柄を浮かびあがらせた。警察の光学迷彩車両だ。研究所入り口にいる警官隊がなにもできないでいるうちにイガラシの体は群集に飲み込まれ見えなくなった。

窓際で、小野寺が海神に話しかけている。どうやら体を気づかっているらしい。同僚の心配を受け取ったのか拒否したのか、まったく表情を変えずに海神は窓の開閉ボタンを押した。窓が閉まった。

「あのイガラシって男、いったいなんだったんだろう」
小野寺はつぶやき、窓際に落ちたパン切り包丁を拾いあげる。海神は会話をつづける気がないようだ。しかたないので答えてやることにした。
「おおかた中共あたりのスパイだろうよ」

小野寺は言葉の意味が飲み込めないようだ。手の中の包丁と液晶ガラスの縞模様を交互に見つめている。さして広くない談話室にほのかなコーヒーの香りがただよっていた。
「まさか。この研究所をスパイしてどうするんですか」
「なんのために研究所のまわりに機動隊の光学迷彩車両が詰めてると思ってるんだ?」
「そうは言いますけどね、古渡さん。あと1時間もしたら重要な情報は全部オープンにしてしまうんですよ。いまさらスパイしたってしょうがないでしょう」

いまの若い連中の能天気さには呆れるばかりだ。これで日本の頭脳だというのだから話にならなかった。たしかに学業はできるのかもしれないが、国際的な視野や政治的なセンスというものが欠片もない。いまさら教えてわかるものでもないものの、誰かが教えてやらねばどうにもならなかった。

「おまえさんたちの行動が世界にどういう影響を与えるのか、一度でも考えたことはないのかね。すべての暗号が本当に解読されたなら、世界中で事故や犯罪が起こり死人が出るだろう。アフリカ大陸に並んでいる原発の1つや2つは爆発してもおかしくない。おまえさんたちがやろうとしているのはそういうことなんだよ」
「ずいぶん前に警告しましたよ。まともな神経の持ち主なら対策を練るだけの時間はあったはずです」
「世界がまともな人間で占められてるなら戦争なんぞ起こらんよ。それとも、この暗号解読アルゴリズムの開発は、原子力爆弾の開発と同じだとでも言いたいのかね」

小野寺は口をつぐむ。答えたのは、ずっと話を聞いていた海神だ。
「たしかに、わたしがつくらねば数年以内に誰かがつくるという点において、暗号解読アルゴリズムは原子爆弾と同じだと言えます。ですが、それ以外は違います」
「なぜかね」
「最初につくった国が戦争に勝ったり負けたりするわけではないですから。国家などという古いシステムは、世界中を自由に行き来する情報に関係ないんです。むしろ、国家という時代遅れのシステムを事実上解体するためにこそこのアルゴリズムは存在すると言ってもいいでしょう」

「おまえさんたちは世界のことに関心がなさすぎる。たとえば、ネットで流通する暗号が解かれれば、クローズドで運用されている米軍の軍事ネットワークが相対的に有用性を増すのは明白だ。もはや世界各国に対して軍事力でしか優位性を持ってない米国にとっては歓迎すべきことだ。逆に、欧州や中国にとっては憂慮するべき事態だ。それらの国は、この川口にスパイを送り込んで、熾烈な情報戦を繰り広げているんだぞ」

海神は笑ったようだ。
「そんな能天気なことを考えているのは軍人だけですよ。ネットのセキュリティが破れクローズドな軍事通信網が比較優位に立っていられるのは、せいぜい3ヵ月がいいところです。まあ、そのあいだにテロ組織のひとつやふたつは掃討できるかもしれませんが、それくらいです。セキュリティのない状態になったネットは、停滞を解かれいままで以上の速度で発展・増殖します。そこには、人類がまだ見たことのない世界がある。そのとき、国家や軍隊などというものはなんの役にも立ちはしません」
「年寄りの言うことは聞くものだ。だいたい、おまえさんたちは——」

なおもしゃべろうとしたとき、ポケットの中で携帯デバイスが鳴った。開くと、「バードウォッチングを再開しました」というタイトルのメールが届いていた。

「どうしました?」
小野寺が聞いてくる。
「スパムだ」
「へえ。まだスパムなんてものが届くんですか? ずいぶんと優秀な業者だな。ちょっと失礼」
デバイスの画面を小野寺は横から覗き込んだ。
「こら、なにをする!」
「バードウォッチングなんてタイトルでフィルターを通り抜けるもんなんだ。すごいな。今度学会で発表していいですか?」
「なんで学会なんだ」
「なんでって、ここは本来、そういう研究所ですからね。知らなかったんですか?」

小野寺はうそぶいた。してやったりという顔だ。だが、スパムに偽装したメールの本来の意味には気づいていないようだった。ここに書いてあるバードとは、本当の鳥ではなく、海神れいのことだ。メールは、しばらくのあいだ見失っていたれいを配下の者がふたたび監視下に置いたということを告げる符牒である。海神結がテロリストに狙われているのと同じく、彼の肉親であるれいも狙われているのだ。

配下の男たちは、少女を、守ることもできれば拘束することもできる。
すべては、これからの海神の行動にかかっていた。

2007.08.08
第65話「セキュリティの静止する日(13)」古渡一郎

古渡一郎海外で成功を収めたあとわざわざ日本に帰ってきたのは、この国の現状に我慢がならなくなったからだった。

国宝の命名権は外資に売却され、街はファストフードショップで溢れかえる。いまや、清水寺に行った日本人がダブルショットの抹茶を飲まされる始末だ。中国四国州が竹島を返せと韓国に要求していても、韓国資本で潤う九州は独島を韓国領だと認めている。北方領土にしても、表向きは日本固有の領土ということになっているが、北海道ではロシアとタッグを組んだ択捉島のリゾート開発に余念がない。

この国には統一感というものがない。日本国に帰属する日本人だと認識する人々の心は、いつのまにか失われてしまったのだ。10の州に分割された意識の隙間に外国人どもが入り込み、ひそかに植民地化をすすめている。

そんな情けない日本をなんとかするために、海神結の暗号無効化プロジェクトに助力しようと考えた。

この国の人間はまったくだめになった。国づくりに失敗したから国民がだめなのか、国民が低能ばかりだから国がおかしくなったのかはわからない。セキュリティの危機は、本来、国家の危機とでも言うべきものなのに、人々が考えているのは自分の預金のことや、嘘の露見、あるいは、趣味、成績、血筋、家族構成などのプライバシーが侵害されるかもしれないという心配だけだ。女子供はともかく、大の大人ならもっと他に考えることがあるはずだろうに。

日本海に我が物顔で浮かぶ中国の原子力空母艦隊が、セキュリティの危機でどうなるかまったく考えない連中はどうかしている。富裕層の8割が中国人で占められいまだに米軍基地がなくならない沖縄州では大規模なテロが起きる可能性がある。経済の混乱もはかりしれないだろう。こんな簡単なことが、この国の人間にはなぜわからないのだろうか。

まともな報道機関が消滅してしまったのが問題なのかもしれない。自分が官僚だったときは、国家に対する監視と称して労組と手を組み、官僚叩きをして結局は他国に利益を供与していたような連中だったが、あんな連中でも、存在していただけまだましだったと言えるのかもしれないと思う。30年前には、少子化ですこしずつ人口が減っていって、日本では新聞を刷る奴と売る奴のふたりが最後に残るのだなどという戯言が言われもしていたが、あっさりとなくなってしまった。

すくなくとも、彼らには、彼らが信じる大義があった。たとえその大義が、アジア各国に兵を送り住民を虐殺した時代の大本営発表と本質的に変わらないことであったとしても、たしかに大義はあったのだ。大義は、ないよりもあるほうがずっとましだ。ネットを流れる情報は、ところどころはっとするような金言が埋まっていたりもするものの、どこにも大義が存在しない。大義がない状態で、人は、99パーセントのジャンク情報から1パーセントの真実を探し出すことはできないのだった。

そのことが気になり、コーヒーを入れなおしている小野寺に聞いてみることにした。

「きみは、明日のいまごろはどうしているのかね」
「明日、ですか? さあ。記者会見の準備で疲れたから寝てるんじゃないですかね」
「生活のことは心配しないのか」
「生活って……ごはんとかですか? 屋台のやきそばでも食ってるでしょう。おいしいんですよ、あれ。また近くに来たら買いましょう」
小野寺はほがらかな笑みを浮かべた。

「違うわい。わたしが言いたいのはもっと大きな生活基盤のことだ。聞いているのは生きかたみたいなものだよ」
「でも、1日くらいじゃなんにも変わらないでしょう。そりゃあ、PSPカードが使えない店が1店くらいは出たりするかもしれないですけれど。たいした混乱は起きませんよ」

ため息が出た。
近頃の若者はなにを考えているかわからないという言葉は、メソポタミア文明時代の石版にも書かれているという。いつの時代も若者は異生物だということだが、この連中の頭の中はまるで理解できない。小野寺俊男は、明日の心配など毛ほどもしていないようだ。海神結に至っては、自分のプログラムを公表する晴れの瞬間が刻一刻と近づいているというのに、夏休みの朝の体操に出かけるようにしか見えなかった。

こんな国にはたして未来はあるのだろうか。激しい疑問が、70年以上働きつづけた脳の中で渦を巻いた。

2007.08.22
第66話「12万人の怒れる名無し(13)」小野寺笑男

小野寺笑男「わん」
ななほしが鳴いた。

小型犬はひとつのカメラ映像を見つめている。なにかの資料映像だ。気にしている余裕はないのでとりあえず放っておくことにした。精神科医の事務所に電凸するかどうかの投票画面の横で、警察車両がうるさいという書きこみが急速に増えている。川口のローカルコミュニティーだ。きっと警察はイガラシを追跡しているのに違いない。電子タトゥーに守られた男を警察なんぞが捕捉できるとはとても思えないが。まあ、あとでヒマになったら探してやろう。

爺さんは、荒川の堤防を降りて海神れいがいる場所へと向かっているようだった。ラッキーなのかそうじゃないのかはわからない。爺さんがれいと合流してくれれば助かるけれど、そもそも爺さんにどうやって事情を説明すればいいのだろう。そっちのほうがあとあとよっぽど面倒くさいんじゃないだろうか。

河原に設置してある1台のカメラが砂嵐を映していた。周囲のカメラにれいの姿はない。どうやら彼女は、またカメラに映らない状態に移行したらしい。オープン主義者の中州でだけ、少女はカメラに映っていたのである。さすがはオープン主義者だ。やつらは本当にすごい。もっとも、映らない状態のほうが探しやすいといえば探しやすいのではあるが。ざーっとなっている画面を見つければいいから。

もともと、機械であるカメラは等しく世界を映すものだ。
ホームレスもカリスマ主婦も、老人も幼女も幼女を狙う犯罪者も。

人が見る世界と、カメラが見る世界は、それがまったく同じ映像だとしても、おそらくだいぶ異なっているんじゃないかと思う。人が住んでいる世界は無数に分断されている。ピザを切るときみたいに面で分割されているわけじゃない。パイ生地とクリームが何層にも重なったミルフィーユのように分かれている。1枚のパイ生地は文化であり世代であり所得だ。同じ場所を歩き景色を眺め呼吸している人間どもは、実は、別のパイ生地に住む他者の存在を意識していない。

ある意味それは、人間が生きていく上で身につけた知恵みたいなものだ。住んでいるパイ生地が違う人同士はうまく言葉を通じさせることができないから。日本語がひとつだというのは神話の時代の話で、他のパイ生地人の言葉は宇宙人語に聞こえるのがいまの時代だ。天才数学者海神結だって、その妹だって、previous75だって、彼らの手が届く範囲の少数のパイ生地に埋め込まれた物語しか読み取っていないのだ。

ネットの名無しでありギートであり半引きこもりである自分は、監視カメラがクリームに空けた穴を通して、縦横無尽にミルフィーユ全体を往き来する。どのパイ生地に属することもなく、レイヤードされたパイ生地をザッピングし、世界の全体像を俯瞰することができる。

たった1枚のパイ生地の中で起きた出来事に意味はない。カーニヴァルと同じだ。怒りも喜びも悲しみも、いっとき燃えあがって消えてしまうものなのだ。だったら、せいぜい派手に炎上すればいい。そうすれば、すくなくとも、ネットにいる無数のヒマ人どもを楽しませることはできるから。

ななほしがしつこく吠えている。
「なんだよ」

ななほしの視線の先にある画面の中に、椅子に座った少女が映っていた。顔にモザイクがかかっている。どこかで見たことがある子だ……っていうか、これは海神れいではないだろうか。そうだ。まちがいない。服も髪も違うが雰囲気がそっくりだ。なんなんだこれは。

キーボードを叩いた。チェック。泉藤円の名でかつて発表されていた研究用動画だった。「検索性同一性障害」というメタタグがついている。他のことに忙しくて、ローカル保存した映像への顔検索プログラムを停止することを忘れていた。それをななほしが見つけたのだった。お手柄だ。メタタグをネットで検索。同時にボリュームをあげる。

「連想してください」
男の声がした。泉藤だ。モザイクの中で少女がうなずく。
「いいですか? 赤い花。両親……愛……親切……」

検索でヒットしたページの上位に泉藤のクリニックの公式サイトがあった。クリック。わ、なんだこりゃ。こ難しいことがごちゃごちゃと書いてある。どうやら泉藤は、カリスマ主婦と遊んでるだけじゃなく、検索性同一性障害とやらの権威らしい。モニター画面では、モザイク付きの海神れいが応答している。

なんだか、思いもよらないところで面倒くさいことになってきたようだ。

2007.08.23
第67話「12万人の怒れる名無し(14)」小野寺笑男

小野寺笑男匿名掲示板では、精神科医のクリニックに電話突撃することが決まったらしかった。

そろそろ精神科医のスレッドを追うのにも飽きてきたところだ。ちょうどよかった。電凸することに決まったどこの誰だかわからない人物が書きこみをしている。

 >おれの電凸第一声絶賛大募集。アンカ>17:05:00
 >「グッドモーニング、アカバネ」
 >パクリじゃねーかw
 >おれなら即座に電話を切る
 >精神科医なら、おかしいの慣れてるだろうしだいじょぶなんじゃない?
 >まあいいや。第二声>17:10:00
 >電凸断固阻止! みんなで電話して付近の回線をパンクさせよう。カリスマ主婦たんを守るべし!
 >スレ住人全員がかけても無理だろ
 >この映像、おかしくね? さっきから言ってるけど
 >うは。みんなもっとやれ
 >オバハン趣味のギートと凸撃厨が揉めてると聞いて川口ローカルから飛んできました

掲示板はトップスピードで回転をつづけている。電凸させようとする者の書きこみも、電凸を止めようとする者の書きこみも、すこし目を細めてしまえば、掲示板上で踊るぼやけた文字の羅列にすぎなかった。ただ、文字数だけが増加し、電子の粒と化してネット上を駆け回っている。もはや、書きこみの内容に意味はない。荒らしも協力も一団となって暴走するだけだ。

カーニヴァルとは、本来そういうものなのかもしれないと思う。ネット上でも。閉鎖空間でも。もしかすると、開かれたリアルな世界でも。なにかの理由があって、リアルな世界で、人々がカーニヴァルに参加しづらくなっているのだとしたら、それは不幸なことだ。たとえば、セキュリティの危機なんてものは、夜通し騒いでも飽きたらないくらいのカーニヴァルのはずだ。なのに、人々は、祭りへの期待に平静という仮面を被せ、いつもと変わらない日常を生きているように見えた。

そんなことを考えながらモニターを眺めていると携帯デバイスがアラートを鳴らした。同時に、家の玄関で音がする。カメラ映像を自宅前に変更。母親だ。パートが終わって帰ってきたらしい。

「ただいま」
ドアの板を通してリアルで声がした。

「笑男さん、安くなってきたからプリンを買ってきたわよ。好きでしょ、プリン」
母親がしゃべっている。自室は玄関のすぐ横にある。声は筒抜けだ。
「わかったよ。おかえり! いまいそがしいの!」
「わうん?」
ななほしが首をかしげる。あわてて口を押さえた。

「笑男さん、部屋になんかいるの?」
「いねえよ!」
「それにしても、警察が多かったわね。なんだっけ、セレブリティの危機だっけ。俊男さんも心配ね。犯罪者注意報、研究所の近くだったでしょう」
「カメラで見た。だいじょうぶだったよ」
「あらそう。よかった。笑男さんの機械は便利ねえ」

母親の足音が去っていった。ななほしと一緒に息を吐いた。河原に設置されている砂嵐のカメラは変わっていない。海神れいはまだ河原にいる。逃亡犯イガラシの行方は知れない。研究所付近の監視カメラをうずまき状にチェックし、イガラシの姿が映っていないか確認しているけれど、それらしき人影はない。それよりも警察車両のほうが目立っている。母親の言うとおりだ。南関東じゅうのパトカーが集まってきているような騒ぎである。

いまも、どこかの住宅街にごつい装甲車が止まっている。見たことのある街並みである。近所だ。直線距離だと30メートルも離れていない。サイレンは聞こえなかったから、隠密行動中なのだろう。小隊長らしき男が無線に向かってなにか話している。ご苦労さま。こんなところにイガラシはいないだろうに。ちょっとあの小隊長の口パクでも拾ってみますかね。

「包囲完了。女性がひとり入った。PSPと顔認証からターゲットの母親と確認。オーバー」

いま女性が入った家って、ひょっとして、ウチか? ウチなのか? もしかして、この包囲は、イガラシではなく兄のせいなのだろうか。あんな研究所に勤めているから。よく考えれば、暗号解読アルゴリズムなんてものを発表するアナーキーな研究所だ。これはめんどくさいことになった。兄はなんの嫌疑をかけられているのだろう。まったく。家族に迷惑かけんなよ。男の言葉が字幕となって映像の下を流れていく。

「命令あるまで射撃は禁じる。各自顔認証ソフト動作確認。だからといってソフトに頼るなよ。自分の五感を信じろ。ターゲットは、男性、痩せぎす、身長175前後、19歳。氏名、オノデラ・エミオ」

ちょっと待て。ターゲットって、え? え? マジで!

2007.08.25
第68話「12万人の怒れる名無し(15)」小野寺笑男

小野寺笑男秋葉萌えリゾート祭りのせいか。ゴミマンション放火未遂祭りのせいか。猫ハウス襲撃祭りのせいか。あるいは、今回の精神科医アンドカリスマ主婦祭りのせいか。過去の悪業を数えあげたらきりがなかった。

といっても、ネット上のカーニヴァルに火をつけたというだけで、犯罪行為かと言われると違う気がする。防弾チョッキを装着した男どもに包囲されるほどのことはしていないはずだ。それとも、家で変なソフトを使ってるせいなのだろうか。使用していることが外に漏れるような使いかたはしてないのに。セキュリティの危機が影響している? でも、引きこもり気味のギートに興味を持つやつなんかいるわけはない。やはりあの外人と海神結の妹があやしいんじゃないか。思考が同じところをぐるぐると回っている。どれほど考えても答えは出てこなかった。

テーブルの上でななほしが唸り声をあげた。不穏な空気を察知したのかもしれない。カーテンの隙間から窓の外を見てみると、向かい側の家の壁に沿って黒塗りのボックスカーが停車している。マジか。ここもなのか。

さてどうする。こんなときはどうすればいい。誰か教えてくれ。

そうだ。ネットだ。ネットに聞くことにした。掲示板に質問を書き込んで答えを待つ余裕はない。適当なキーワードを入力して検索をかける。

「警察」「包囲」「脱出」

こんなものだろうか。クリック。表示。読む。一番上に表示されているのは、警察が来る前に部屋から脱出するゲームだった。けっこうおもしろそうだ。違う。ゲームじゃねえって。最下段まで表示をスクロールさせる。望みの情報は見つからない。検索は、正しいキーワードを入力しなければ役立つ結果は返ってこないのだ。考えろ。こういうときは「How To」を追加すればいいんだっけ。クリック。だめだ。ない。くそったれ。警察の包囲から脱出する方法なんてものを、いったい誰がネットで公開してるってんだ!

モニター画面の中で武装した男たち動き出した。服も防弾チョッキも基本は黒で、灰色の縞模様がかすかに見える。おそらく都市迷彩というやつだ。所属を表すような文字はどこにも書いていない。男たちがかぶっているゴーグルには、途中で折れた鬼の角みたいな突起がある。ヘッドアップディスプレイ機能のついた防弾ヘルメットである。手に持っているのはショットガンみたいなごつい銃だ。シリコン製の無力化弾を発射する銃に違いなかった。

暗い部屋で8枚の液晶シートが光っている。1度、深呼吸した。2度、3度。澱んだ空気を肺から追い出した。思考がクリアになった。

よく考えよう。このまま捕まるのだって、もちろん有力な選択肢のひとつだ。たいした罪は犯してない。というか、あからさまな犯罪に手を染めたことなどないのだから、たとえ警察に連れていかれたとしてもこっぴどく絞られる程度で済むはずだ。脱出とか考えていること自体がありえないかもしれない。だけれど……そんな相手に、こんなに大がかりで重装備でやってくるものだろうか?

ドアのチャイムが鳴った。
とうとう来やがった。
母親の足音がする。インターホンに向かって歩いている。

包囲している連中が警備保障会社ではないことはたしかだった。警察だとしても、事件があったときに普通にやって来る警察じゃない。無力化銃なんて、モニターの中でしか見たことがない。もしかすると州警察ですらないかもしれない。よくわからないけれど、いつの間にか、とんでもないことに足を踏み入れていたらしい。こいつらは危険だ。

逃げる。そう決めた。

足元で、うっすらとほこりをかぶっている赤外線ヒーターのスイッチを入れた。目をつぶって、ローカル記憶装置にフルデリートをかける。さらば、青春のデータ。ちょっと涙が出た。こういうときに言う魔法の呪文があったはずだ。なんだっけ。そうだ。もうだめぽ。だいじょうぶ。まだ、余裕はある。携帯デバイスをステーションからむしり取り、小型犬を脇に抱えた。

急ぎ足で部屋を出る。廊下の向こうで母親の声がした。
「笑男さん。誰か来たみたいなのよ。出てくれる?」
「あとで!」
できるだけちいさな声で叫んだ。はたして、あとなんてものが存在すればの話だが。

向かったのは爺さんの部屋だ。この部屋は、隣家にもっとも近くまで接していて、表通りからは見えにくいところに窓があった。隣家まで包囲されていたらアウトだ。おとなしくあきらめる。全周くまなく包囲された家から脱出する術なんてものは素人の自分にはない。

「黙っててくれよ。ななほし」
押し入れから布団をひっぱりだす。できるだけ音をたてぬよう窓を開け、頭から布団をかぶって飛び出した。靴はない。靴下だけの足にコンクリートが冷たい。布団をかぶったまま低い塀を乗り越え、隣家の敷地に落下する。開け放した窓から、自宅内で発生した物音と人の声らしきものが聞こえた。布団はここまでだ。爺さんごめん。隣家の裏庭を走り抜け、スチール製の柵を乗り越えてさらに隣りの家へ。ぴろん、と、携帯デバイスが鳴った。

「あなたの近くに犯罪者がいます。注意してください」

この上、犯罪者? イガラシでも来てるのか。勘弁してくれ。物陰に隠れてデバイスをチェック。なんだよ自分のことか! まったく。よしてくれ。お願いだから。

そのときわかった。相手が警察なら、携帯デバイスを使えば居場所を知られてしまうのだということに。いまは気づいてはいないかもしれないが、PSPカード情報はリアルタイムで追跡されてどこかのサーバに着々とためこまれている。奴等が位置検索をしたら万事休すである。かといって、この南関東州で携帯デバイスなしでやっていくことは不可能だ。どうすればいい。しかも、奴等は、付近の監視カメラに顔検索をかけている可能性もある。脇の下からななほしが見あげてくる。小型犬が発するぬくもりが、寒さに震えそうになる心をぎりぎりで支えた。

この道に設置されている監視カメラを思い出せ。思い出せるはずだ。池田さん家の門から車庫に向けて。ゴミ収集場所の電柱の上。鈴木さんの軒先。近所のカメラ画像は全部見たことがある。死角はかならずある。記憶をフル回転。ななほしを抱え、記憶をたよりに路地を全力で走り抜けた。

躍り出た場所は……ペットボトルが立ち並んでいる。ビンゴ。電波の空白地帯だ。携帯デバイスの電源を切った。カメラを避ければ、ここから先の足取りを捕むことはできない。そのとき、聞こえてきたのは、耳馴れた音楽だった。腹にひびくそのメロディーに向けてひた走り、低速で進む車両の扉にとびこんだ。

「いらっしゃい!」

威勢のいい女性の声がした。
高層マンション街を巡回していた、やきそば屋台だった。

次ターンの更新につづく

[登場人物]
海神れい
海神れい
海神結
海神結
小野寺笑男
小野寺笑男
山出さくら
山出さくら
小野寺明
小野寺明
君島フランツィスカ史帆
君島フランツィスカ史帆   

2009年12月

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ギートステイト休載のお知らせ 『ギートステイト』理論タグで描かれたように、この時代、南関東州の人々の生活空間は市場原理に則ってゾーニングされ、互いのライフスタイルに関して寛容な社会、あるいは無関心な社