2007.02.26
第9話「好き好き大好きハナさん(1)」丸田蔵人

ハナさんが好きだ。三度の飯より好きだ。虎の子のインド国債より大切に思う。
彼女の存在は、世界のなにものにも、代え難い。

ハナさんは素晴らしい。なにより笑顔が最高だ。ちいさな顔が微笑すると、すうっと切れ込んだ頬にえくぼができる。目を線にして笑ったときだけ出現する2本のしわもいい。笑い声はピアノのラの音だ。実に耳に心地好い。ひたいにかかるほつれ毛も、たまらない。

若竹の緑をどこまでも水で薄めた色に塗られたカウンセラー室で、ハナさんはいつも椅子に腰かけている。ボーンチャイナのカップに入った薄茶色の飲み物が森林の奥と同じ香りをたちのぼらせている。窓から射し込むやわらかな光は、ハナさんの白衣に黄色と灰の模様を描いている。

ハナさんが話を聞いてくれるのは週に1度だ。そう決まっている。
たいへん残念なことに、皆平等に週1度である。

なんでも高齢適応支援福祉士という資格をとった先生なのだそうだ。えらい人なのに、彼女は皆に「ハナさん」と呼ばせている。ハナさんは気さくだ。もちろん誰にだって分けへだてなく笑顔を見せる。それが職業だから。彼女の笑顔は万人のものなのだ。それだけの価値がある。独占はできない。しかたのないことだ。だけれど、丹念に観察すれば、彼女の笑顔が、一人ひとり異なっていることがわかるはずだ。誰にもで同じえくぼを見せるわけではない。それだけの慎みを彼女は持っている。

それを、小野寺の野郎。ずうずうしく横入りしやがった。

奴は許しがたい。皆も同じ意見だ。聞いたことはないがわかる。雰囲気が語っている。だいたい奴はこのケアハウスの住人ですらない。家族と一緒に住んでいて、たまに訪れるだけの異邦人だ。血の繋がった家族がいるなら、そいつらと過ごしていればいいものを、ノコノコとやってきやがって。くそ。くそ。くそ。壊れた掃除器など業者を呼べばいいのに。奴は週に何度もハナさんと話す。許しがたい。小野寺め!

だけれど、神はいたのだ。
小野寺の暴挙を指を咥えて見ているだけではなかった。ある日、ニュースでやっているのを見た。

2045年11月25日の今日、世界にあるすべての暗号は解かれるという。そういう理論をある数学者が公開したというのである。ニュース番組のコメンテーターは、預金はだいじょうぶなのかとか、電車や飛行機に危険はないのかとか、そんなことばかり心配していた。一緒に番組を見ていた低能どもも、金の心配で頭がいっぱいのようだった。愚か者め。そんなことにしか頭が回らないのか。金と危険などどうでもいいだろうに。

暗号が破れるということは、PSPカードの電波を受信し居場所を記録するすべての電子機器と、監視カメラの映像を改竄できるということだ。犯罪に使えば完全なアリバイが成立する。そこにいた者はいなかったことになり、あるいはいなかった者がいたことになる。その場所でやったことはなかったことになり、やらなかったことがやったことになる。そういうことが起きる。

人々は、自分の存在そのものを自由に書き換えることができるようになる。
ちょっとした知識と、技術と……度胸さえあれば。

朝、目覚めたら、今日という日を祝福するかのように、股間のものが屹立していた。十数年ぶりのことだ。あまりの力強さに、かがまねば用が足せないほどだった。己の中に潜むDNAが猛っているのだと感じた。それは、風のない湖面のように静かで、同時に、逞しい感情だった。若い頃にはなかったものだ。10代の激情は持続させるのが難しかった。熱くなるのも速いが、すぐに噴出し、萎えてしまう。いまはゆるゆると湧き出るように衝動は続く。

老いらくの恋と笑わば笑うがいい。これは男の戦いなのだ。自然の摂理であり、なおかつ正義の執行でもあるのだ。73歳のオスと75歳のオスが、65歳のメスをかけて争う。そして、強いものが勝つ。そうやって人類は進化してきた。

だから、決めた。

今日、この日。小野寺明を殺害する。

2007.02.27
第10話「好き好き大好きハナさん(2)」小野寺明

北西から南東へ流れる荒川の北側はコンクリートの塊で覆われている。スーパー堤防と呼ばれるものだ。ソウルケアハウスかわぐちが建っているのはその堤防の上である。あらかわ大橋のすぐそばだ。歩いて1分もかからない。橋の南側では、小野寺笑男がいままさに自転車にまたがろうとしているところだ。れいの手元から逃げだした小型犬はまたたくまに橋を駆け抜け、交差点で1度輪を描き、カジノのほうへと走っていく。

「わん」
甲高い鳴き声があとに残った。

犬の声を背にして急な階段をのぼると堤防の上に出る。一気に視界が開けた。黒々とした水をたたえる川をはさんで、むかしながらの街並みが残る赤羽と、急に開発が進んだ川口の両方を見ることができた。

川口の街は、緑地も建造物も、ひどく人工的だ。ペンキで塗ったような嘘くさい緑の中から、巨大なビルが天空目指してそびえている。数十棟の高層ビルが間隔をおいて建つさまは、パスタで使うレードルのようにも見える。
まるで、空から降ってくるパスタの神さまをいまかいまかと待っているような、そんな印象の街だった。

人工的なたたずまいを見せるのはソウルケアハウスかわぐちも同じである。丸みを帯びた外観もパステルカラーに統一された色調も、すべて人間工学に基づき設計されている。南関東はそういう場所なのだ。施設につづく道だって人間工学だ。ゆるいスロープときつい階段の2つを併設すれば、足の悪い人間は階段を避けて遠回りするようになる。レストランで椅子を硬くすれば人は早く席を立ちたくなる。金持ちと貧乏人を分けることだって可能だ。同じ川口という街に住んでいながら、人々は、重なり合ったいくつもの別の街に住んでいる。

知らず知らずのうちに自分も操作されているのではないかという考えが頭に浮かぶことがある。
というか、実際に操作されているのだろう。そういうときは、ちょっとだけ摂理に対抗してみたくなる。
きつい階段を敢えて選んだのもそのせいだった。

「調子はどうですか」

薄いグリーンに塗られた建造物の入り口で声をかけてきた男がいた。丸田だ。小綺麗な機能性シャツに身を包み、しわの目立つようになった首筋に派手なスカーフを巻いている。洒落た男だった。なんでも、むかしはソフトウェアの開発をしていたらしい。

ここの人間では、丸田は話しやすいほうだった。

「ぼちぼちです」
「や、体の話じゃなくてね。悪いけど。こっちこっち」
丸田は自分の足をぽんぽんと叩いてみせた。
「ああ、そっちですか」

丸田が言ったのは脚につけているパワーアシストスーツのことだった。筋電流を読みとり、四肢を動かす補助をしてくれる道具である。むかしは大きなものだったが、いまは、余裕のあるパンツを外に穿けば装着していることはまずわからない。立ったり座ったりするときにかすかな動力音がする程度だ。10年前に右脚を悪くしてから愛用していた。

「こっちもぼちぼちですよ」
「故障とかしませんかね?」
「したことはないですが……」
「わたしもそろそろ考えてましてね。気づくとスロープを使っているんですよ。これはいけない。そう思うでしょう。かといって、機械の故障で急に脚が動き出したり、電車を待ってるとき勝手に動作して線路に飛び込んだりしたらかないません」

丸田はいつになく饒舌だ。入り口の上方にあるカメラに向かってしゃべっているようにも見えた。

「だいじょうぶですよ。勝手に動いたりはしません。ニュースでやっているのは、本当に滅茶苦茶な使いかたをしてる人だけです」
「だといいんですが。世の中、予想もしないことが起きるものですからねえ」
「そのときは死ねばいい。あっさりとしていて、かえって気が楽です」
丸田の顔がこわばった。
「やだな。し、死ぬだなんて。悪い冗談だ。あたしはまだまだ長生きするつもりなんですよ」
「そりゃすみません」

丸田蔵人はソウルケアハウスの住人だった。聞くところによると、ずっとひとり身だったという。

ひとり身の丸田と、家族がいる自分と、どちらがより死を身近に感じているかは判断できることではなかった。70を過ぎた自分は邪魔ものなのかもしれないとときおり思うことがある。価値観を共有できた妻はもういない。3世代が同居する小野寺の家で、自分とぴったり重なった街の“像”を共有する人間は存在しない。家族たちが思い描く街が薄ぼんやりと感じられるとき、息子や孫がつくる輪の中で孤独を感じることがあるのだった。丸田はひとりで完結している。彼の世界には力強さがあった。

ここに来たのは家族に言われてのことだ。何度も足を運んでいるのは、高齢適応支援福祉士の女性がいるからかもしれない。笑ったときの顔がすこしだけ妻に似ている女性だ。

それは、朝のけだるげな雰囲気さえ吹きとばす、なぜそこまで元気なのだという笑顔だった。

2007.02.28
第11話「好き好き大好きハナさん(3)」小野寺明

ソウルケアハウスかわぐちはライフログ発表会の真っ最中だった。入り口に看板がある。

老人たちが集い、録りためた自分史を発表しあうのがライフログ発表会である。ソウルケアハウスに集まった世代の歴史は、彼らの歴史であるのと同時に日本の技術発展の歴史でもあった。生まれた姿を写しとったのは銀板写真で、それがビデオ映像になり、デジタル写真になり、最後には街中にあふれる監視カメラの映像になる。過去の記録を起点に、老人たちは話をはずませる。

いま発表しているのは見知った男のようだった。

「あとでわたしも行かなくては」
廊下を歩きながらつぶやく。
となりにいた丸田が眉をひそめた。
「見るんですか? あんなものを」
「丸田さんはご興味ないんですか」
「捏造した個人史になんの意味があるのか」
丸田は小声で吐き捨てる。

発表会といっても、個人のライフログデータを拾い集め、ドラマ仕立ての映像にするのには大変な手間と技術が必要だ。そういうことを代わりにやってくれる業者がある。それだけでなく、業者はライフログを編集し、カメラが撮ったままの味気ない人生ではなく、個人の思い出どおりの“リアルな”人生を描き出してくれるらしい。

「小野寺さんは無駄な行為だと思わないんですか」
「そう思えるのは、きっと、丸田さんがいまを生きてるからですよ。こんなことを言ったら失礼になるかもしれないが、丸田さんにはまだやらなければならないことがあるんじゃないかな」
丸田は言葉に詰まったようだ。
「まあ、たしかにないことはないですがね」
「それを大事にされるといいです。がんばってください」言ってから気づいた。「すみません。赤の他人にこんなことを……」
「いいですよ。ご心配なく。やろうと思ったことはやり遂げますから」

丸田と別れた。今日ここに来たのはカウンセリングを受けるためだった。高齢適応支援福祉士のハナさんは、このあたりに住む老人の相談相手だ。彼女は、階層化された世界を往き来できる特別な存在だった。そういう訓練を受けた人間がいまのこの世の中には必要なのだろう。

もしかしたら、ソウルケアハウスかわぐちは、人生のやりかたを見失ったモンスターたちが跋扈(ばっこ)するダンジョンみたいなものかもしれない。そんな考えがふと頭に浮かぶことがある。このあいだ、ダンジョンと孫に言ったら通じなかった。どうやら、いまのゲームは、かつてのものと様相を変えているらしい。時のうつろいとともに、モノは姿を変え、中身を変えていく。変わらないのは人間だけだ。

もっとも、そんなことを考えていることそのものが老いというものなのかもしれない。だから家族は自分をここに連れてきたのだろう。なぜなら孫の笑男も、自分と同じく、たったひとり世界から孤立した存在だからだ。彼は定職についているわけではなく、親族以外と接触するわけでもない。けれども、彼には見え、自分には見えないモノがこの世界にはあるらしい。老いて見えなくなったのはパステルカラーの色だけではない。

ずいぶんむかしにマンガを読んだことがある。モニターではなく、紙で読むマンガだ。たしか、未来社会を描いた物語だった。不老長寿が実現した世界で、主人公の少年がロケットに乗って宇宙を駆け巡っていた。そこでは、すべてをやりつくしやることがなくなった老人たちは、みずからベルトコンベアに乗って黒い穴へと吸い込まれていく。先にあるのはまったくの無だ。不死の世界では、気力の衰えとともに人は消滅することを選ぶのである。

むかしの未来だから、もしかすると、そこに描かれていたのは“いま”なのかもしれない。

カウンセリングの順番を知らせるチャイムが鳴った。
廊下の端をすべってきたロボット掃除器が、器用に人を避け、軽い駆動音とともに通り過ぎていく。このあいだ来たときに修理したものだ。若い頃に基板をいじっていたせいで、ちょっとした電子工作ならいまでもできる。

人間工学によって設計された窓から蜂蜜のような光が射していた。ドアの色は薄緑。たしか緑は人を安心させる色だったはずだ。この部屋で話をすることも、高齢適応支援福祉士のハナさんに対して感じる親近感も、もしかしたら人間工学による操作というやつなのかもしれないと思う。

生きている自分が工学によってリアルタイムに操作されるものであるならば、過去の自分であるライフログの内容を操作したとしても誰も文句は言わないだろう。捏造した美しい記憶とともに人間は消えていけばいい。誰が迷惑を被るわけでもない。

窓から空を見上げる。
天高くそびえるリゾートホテルが、黄金色にきらめくのが見えた。

2007.03.07
第16話「好き好き大好きハナさん(4)」丸田蔵人

小野寺明の後ろ姿がカウンセラー室に消えていった。

ソウルケアハウスかわぐちに、午後の気怠い空気が充満している。
ここで寝起きする老人たちのほとんどがライフログの発表会に集っているようだった。参加していないのは孤独を好む変わり者だけである。そういう人間の多くは、食事どき以外、個室から出てこない。

自分以外の老人どもが、退屈極まりないライフログの見せ合いを好んでする理由は理解不能だ。
施設に入れられたアルコール依存症患者は、失敗談を交互に告白し合うと聞いたことがある。ネガティブな経験を共有することで、連帯を強め、孤独感を減らすのが目的だそうだ。そうやって、治療に対する患者の意識を改善する。ライフログの交互発表もそれと同じものなのか。高齢者ばかりが増え子供がすくない現代の日本では、老いるということは病の一種であり、治療しなければならないものと思われているのかもしれない。

だが、ハナさんのことが好きな自分に治療はいらない。まったく必要ない。馬鹿め。強い感情は老いをも駆逐するのだ。

小野寺はしばらく部屋から出てこないはずだった。そのあと、発表会に参加するとも言っていた。あれでなかなか律義な男だ。午後いっぱいを、捏造されたくだらぬ半生記を聞いてすごすのだろう。今日一日は小野寺を追跡する必要があるが、四六時中はりついていたら、あとで疑われるかもしれない。奴の居場所が知れているときは、普段と同じ行動をとったほうがいい。そうして、チャンスが到来したら、すみやかに殺害を実行する。

いつものように、赤羽のアジア街へ散歩に行くことにした。
ソウルケアハウスを出て、あらかわ大橋に向かう。もちろん、スロープではなく階段を使った。

歩きながら考える。
どうやって殺すのが適当だろうか。

殺人そのものは容易いことだった。揺るがぬ意思さえあれば誰でもできる。もともと、動物は日常的に殺し合っているものなのだ。東南アジアの熱帯雨林に行けば、いつだって、別の群れを襲って同属の肉を食らうチンパンジーを見ることができる。彼らの戦いを止める者は誰もいない。

多くの現代人が同属を殺さないのは、そのほうが人類全体にとって有利だからにすぎない。隣に住む同属を殺しても問題ない社会は、人類という種に不利益をもたらす。だから、隣人を殺した個体が不利になる歪なルールの社会を人間はつくりあげた。
だけれど、そのルールはやはり不自然なものなのだ。腹の立つ奴や、自分にとって不都合な行動をする奴、利益の相反する奴はぶっ殺したほうが得だ。あたりまえの話だ。まちがいない。田畑を耕したり、他の動物を狩ったり、工業製品をつくったりするより、隣に住んでいる同じ人間を殺して利益を掠め取ったほうが楽だし効率がいいのだから。

人が人を殺したりモノを盗んだりしないのは、カメラによって互いを監視しているからにすぎない。
無事小野寺を殺害したからといって、監視カメラに証拠を撮られては元も子もない。肝心なのはハナさんだ。刑務所に入れられ、ハナさんと離ればなれになっては意味がない。殺しはあくまでも手段であり、目的ではないのだ。意思はぶれていない。だいじょうぶだ。足取りも軽い。下半身に、血がたぎっていた。

あらかわ大橋の南端まで来た。道の反対側で、係員と揉めている外人のそばを通り抜ける。
有料道路を無理矢理通過しようとして止められたようだった。間抜けなガイジンめ。金を払う気がないなら有料道路など通るべきではない。無料で通り抜けるつもりなら、機械を騙してスマートに移動するべきだ。係員に見咎められて文句を言うなど、もっとも愚かな行為だ。もちろん、自分は無料道路を通る。無駄な金は払わない。

わざわざ橋を渡ったのは、南関東から東京首都へ来るためだった。赤羽のごみごみとした街並みを見るとなぜかほっとする。天気が良い日は、岩淵水門公園から渡し船に乗り、南関東側に帰ることにしている。川の中央から眺める下流の様子が、また、なかなか悪くない。

少女の姿を見つけたのは、水門公園の入り口のところだった。東京首都の公園は、南関東と違って入場料を取らない。ちいさな体をさらにちぢこまらせ、少女は、門柱の影に隠れていた。

「おまえは警察か?」
少女は言った。

「違うな」
「ならば追われる犯罪者か」
「もしかしたら、そうかもしれないな」
「そうか。わたしは追われているのだ。かくまえ」
自然と笑みがこぼれた。少女はなにかのゲームをしているらしい。かわいい犯罪者仲間だ。

もしも結婚していたらこの子の歳くらいの孫がいたのかもしれない。でもいまは天涯孤独の身だった。親類縁者も鬼籍に入って久しい。
ひとりでいることを選択したことそのものに後悔はない。ハナさんに出会えたのだから。夏よりも春、春よりも冬に咲く白い花のような女性だ。人生の最後のカーブを曲がった後でなければ、彼女に出会うこともなかったし、秘められたその魅力に気づくこともなかっただろう。だから、後悔はない。

ただ、許せないのは、家庭を選んだ小野寺明がハナさんをも奪うことだった。

2007.03.08
第17話「パラノグリッド(9)」海神れい

「Oh! No! ゲイシャ girl、マイコハーン、oriental beauties……ヤマトナデシコ、キドウセンカン!」

ガイコクジンの男が言った。

コンクリートで覆われた大きな橋の南端だった。
荒川は東京首都と南関東のあいだを流れる一級河川だ。河川敷を含めて500メートルほどある流れをはさみ、南側が東京首都州、北側が南関東州である。社会科の授業で習った。北にあるのに南関東というのはおかしくないかと誰かが質問したら、東京史を教えるショクタク先生は、西武が東で東武が西だったりするのだから南関東が北でもいいのだと答えた。なんだかよくわからない。

そんな橋の上で、ガイコクジンの男が叫んでいた。単語の意味は不明だ。男の背後には、黄色と黒の縞々になったポールが地面から生えている。土砂を満載したトラックが突っ込んでも折れないと噂の侵入抑止ポールだ。ポールとポールの隙間は20センチ。クラスの男子は、ポールを見つけるとよく肝試しをする。触らずに擦り抜けられたらセーフ、触ったらアウトである。上をまたぐことはできない。ミリ波とかなんとかいう電波が放射されていて、近づくととても痛い。

そういうことだから、小学生の自分にポールはヨクシコウカを発揮できない。通過した。問題ない。背後でガイジンが「Ouch!」と叫んだ。ポールを上から越えようとしたらしい。頭悪いな。できないってば。他にもなにかしゃべっていたが、完全に無視。

荒川の堤防に沿って駆けだした。

本日のミッションは、川の反対側にある兄さまのところにお届けものをすることだった。大変に危険な作戦である。兄さまはえらい学者で、情報のじりつをさまたげる暗号を解くとかいう仕事をしている。ガイコクジンの男が襲ってきたのもそのせいかもしれない。スパイなのかも。日本語の通じない白人はこのあたりではめずらしい。アングロサクソンは、倶知安や福部で雪スキーか砂スキーをやるものだ。小学生に機密の品を届けさせるというのも、敵の裏をかいた作戦であるのに違いない。だいじょうぶ。兄さまの妹ならできる。えらいぞ自分。

もちろん、ひとりで作戦を達成するのは難しい。天気に例えると晴れよりは雨に近い。もしかすると一部心細かったりするかもしれない。さっきまで作戦の補助をしてくれていたエミオとも離ればなれになってしまったし。困ったときはななほしに引いていってもらえと兄さまに言われているけれど、そのななほしもいない。困った。だが、しかたがない。任務の遂行には困難が伴うものだ。ひとりでも平気だ。

よく、自分はこうやってひとりになる。気づくとそうなっている。

だいぶ前、母に連れられてお医者さんに行ったとき、「ケンサクセイドウイツセイショウガイ」だとかなんとか、お医者さんが言っているのが聞こえた。

あとになって、「ケンサクセイ」を検索してみたけれど、よくわからなかった。なんだろう。まさか、検索ではないだろうし。誰でも検索はするものだ。医者とは関係がない。ひょっとして健作性なのか? 平成の時代にいた俳優らしいけれど、その人が発見したなにかなのだろうか。

兄さまの仕事が成功するとケンサクセイドウイツセイショウガイも治るらしい。不可視のデータベースが他者の意志によって検索され、各瞬間に新たに人格が形成されるこの状態は、分断されたこの世界がもたらすものなのだそうだ。世界をふたたびひとつにすることができれば、影響もなくなるという。えらい学者だけあって、兄さまが言うことはいつも難しい。こうやって受け売りしているけれど、実は2パーセントくらいしか理解していない。

こっちの事情も気にせず、荒川は、いつものように静かに流れていた。

あらかわ大橋は遥か後方だった。マッチ棒で組み立てたおもちゃの橋に見える。前も後ろも、堤防の上には誰もいない。走りつづけたせいで息があがっていた。もう走らなくていい。歩くことにした。

やがて、ちいさな公園が見えてきた。石づくりの門柱が、素敵に冷たそうだ。
腰を降ろし、首をあてた。体にこもった熱がすうっと抜けていった。

問題は、どうやって南関東に潜入するかだった。冬の川は冷たいし、泳いで渡れるようなものじゃない。ガイコクジンが見張っている橋は使えない。川の向こう側にもある公園まで行けば、兄さまの研究所はすぐだ。晴れた休日、その公園でフリスビーをしたことがある。難しいことを言う兄さまより、一緒にフリスビーをやってくれる兄さまのほうがどちらかというと好きだ。兄さまのフリスビーの腕前はひどい。体育が得意とは言えない自分とどっこいである。外見からはとてもそうは見えないけれど、兄さまは意外とどんくさい。

時報が鳴ったようだ。川面を流れる風に乗って上流から聞こえてきた。

うつむいた視界を黒い影がよぎった。顔をあげる。男だった。鋭い目つきの老人である。決行直前の銀行強盗のような意思が全身にみなぎっている。兄さまに機密の品を届けるミッションを依頼してきた男に、すこしだけ雰囲気が似ていた。

この男が敵か味方かはわからなかった。いい人か悪い人かもわからない。というか、いまはまだ、自分が正しいともかぎらないのだ。正義の味方が称賛されるのはゴールについてからで、それまでは全世界に追われるものだ。だから、男にたずねてみた。おそるおそる。

「おまえは警察か?」

2007.03.09
第18話「パラノグリッド(10)」海神れい

「わたしは追われているのだ。かくまえ」

その言葉に、老人は笑みを返した。
不敵な笑みだ。戦争映画で見たことがある。絶望的な状況に追いつめられ、命をかけた突撃を決意した軍曹が同じ表情をしていた。子供だから言葉半分に受け取ったかと一瞬思ったが、そういうわけでもないようだ。敵にせよ味方にせよ、この老人の顔は信頼できる。そう感じた。

「わたしは川の向こうへ行かなければならない。だけれど、橋を使うわけにはいかない」
「なぜかな?」
「事情がある」
「まあ。あるのだろうな。子供は子供で、いろいろと」
老人がうなずく。ひとりで納得しているようだ。

「うむ。いろいろあるのだ」
言いながら立ちあがった。

ふたりがいるのは、荒川堤防につくられたちいさな公園だった。よりかかっていた門柱に、岩淵水門公園と彫ってある。周囲は白茶けた冬の芝生だ。30メートルほど下流へ行くと、朱色に塗られた水門が川の流れを堰き止めている。水の音にとり囲まれた場所だ。このあたりは地形が入り組んでいて、3本の川が並行して走っているのだった。

「どうしてもというのなら、船を使えばいい」
老人は言った。
「ふね?」
「すぐそこの桟橋から、向こう岸へ渡る定期便が出ている」
背伸びして、水面を見下ろしてみた。たしかに、桟橋のようなものがあった。白木の板でつくられた通路が川に向かって垂直に伸びている。視線をずらすと、対岸にも板ガムを並べたような通路が見えた。桟橋の先にあるのが、兄とフリスビーをやったあらかわかわぐち親水公園である。

「もともとこの国は水運の国だったんだ。なんにでも橋を使うようになったのはつい最近のことだ。山で木を伐ったら川に流す。川を渡るのには船を使う。石だって、水に沈めれば運びやすくなる」
「ふりょくの原理くらい知ってるぞ。理科で習った」
「最近の子はえらいな。わたしの時代は習わなかった。アルキメデスは偉大な爺さんだ」
「そうなのか? アルキメデスが浮力の原理を発見したのは30前だって兄さまが言ってたぞ」

老人はがっかりしたようだ。
「まあ、爺さんでもえらい人はいる」
なぐさめた。

周囲を見回す。堤防の上を豆粒が動いているのが見えた。こちらに向かっているようだ。ちいさすぎて、人か乗り物かは判別できない。ガイジンかもしれないしエミオかもしれない。ななほしだったらいいけれど、たぶん違う。ななほしはもっともっとちいさい。

「船に乗るにはどうしたらいい?」
「まだ来ていないようだな。大きな船だよ。着けばこの公園からでも見える。きっといまは、カジノかホテルのほうへ行っているんだろう。一緒に待つかね?」
「それでは困るのだ」
「どうにもならんよ」

つぶやき、老人は歩き出した。老人の言葉は、問いへの答えにも思えたし、自分自身への語りかけにも思えた。後ろ姿がベンチに向かってゆっくりと進んでいる。ついていく形で、公園の敷地内に入った。そのまま進んでいくと、次第に視界が開けていった。いままで影になっていた桟橋の根元にボートが1艘浮かんでいる。中途半端な長さの髪とヒゲを伸ばした男がなにかを積み込んでいた。

老人を手招きした。

「あの船ではいけないのか?」
「あれはオープン主義者だ。近づかないほうがいい」
「なんでだ」
「中州に住みついてるんだ。なんでも記録して公開する困った連中だよ……いや、そうでもないのか。いまとなっては」
「よくわからないぞ」
「宗教団体みたいなものだと思えばいい」

ヒゲの男が顔をあげた。
こちらに気づいたようだ。

「乗ってくかい? そこの紳士と、嬢ちゃん」
顔の半分ほど口をあけて怒鳴った。スズメを撃墜できそうな大声だ。
「向こうはおひとりさま160円。子供は80円。こっちは100円と50円でいい。しかも、好きな場所に接岸するサービス付きだよ」

老人がふんと鼻をならした。
堤防を見やる。豆粒が大きくなっている。老人の目には映っていない。

「乗るぞ!」
手をあげた。老人は驚いた顔をしている。
「おい。嬢ちゃん」
「なんだ」
「危ないぞ」
「なんでも記録して公開するのだろう。だったら危険はないはずだ。爺さんは来ないのか?」

桟橋への階段をくだる。老人は立ちつくしている。
踏みしめた砂がじゃりっと音をたてた。かすかに、水の匂いがした。

2007.03.26
第19話「パラノグリッド(11)」海神れい

荒川堤防につくられたちいさな公園だった。
桟橋への道をくだると、中途半端な長さに髪とヒゲを伸ばした男がボートに荷物を積み込んでいた。

「渡し賃は大人100円。子供50円だよ」

ヒゲの男が言った。機能性シャツに洗いざらしのジーンズを着ている。長めの髪とヒゲが四方八方に突き立って、爆発寸前のウニのようだ。この髪には憶えがあった。以前、兄さまの家でシャンプーがなくて石鹸で髪を洗ったとき、同じようなつんつん髪になったことがある。

「南関東州のPSPでいいのかね?」
老人が男がたずねた。どうやら一緒に船に乗ることにしたらしい。
「もちろん。東京首都州で流通してる各種クレジットもOKだ。現金……と言われると困るがね」
「おまえさんたちはあの中州で暮らしているのだろう。現金がなくてどう取り引きするんだ?」
「よしてくれ、爺さん。川の真ん中だって電波くらい来てるよ。それどころか、日本海の上じゃ、麻薬取引にクレジットを使ってるって話だ」

ヒゲ男が携帯デバイスを取り出す。デバイスのレンズに、手首の内側に貼ってあるPSPカードシールを向けた。機械たちが無線で連絡を取り合う数瞬の間があった。ちりん、と小気味いい音がして、ヒゲ男のデバイスに50という数字とSaitama Public Holdings PSPED Cerifiedという画像が浮かびあがる。つづいて老人も手続きをした。

「毎度あり」携帯デバイスをポケットにしまいながらヒゲ男がつぶやく。「もっとも、今日の夕方以降はPSPカードを使うのはやめといたほうがいいかもしれないがな」
「なぜだ?」
「ニュースでやってただろ。この世の中には暗号っていうやっかいなものがあってな。世界は情報に満ちているんだが、暗号のせいで、せっかくの情報にたどりつくのがとても難しい。だから、頭のいい奴が、暗号を世界からとっぱらう理論を考え出したんだ。暗号がないと他人を信じられない連中は困るだろうな。混乱に便乗してなにかやる奴も出るかもしれない」
「犯罪か。犯罪はよくないことだぞ?」
「なに、混乱は一時的なものだ。いずれ新しい秩序ができあがる。それに、いまだって犯罪は起こってる。街中にカメラがあってもなくても、盗む奴は盗むし、殺す奴は殺すもんだよ」
殺すという言葉に、老人の肩がびくりと反応した。男は気にしない。
「さあ、乗った乗った」

跳び乗った。
ボートの床は揺れている。膝から下の部分が勝手にダンスを踊っていた。皿の上に落としたプリンの上に立っているようだ。桟橋の杭に腕を絡ませながら、老人はそろそろと足を伸ばしている。ヒゲ男がボート後部の紐を引いた。エンジンが爆音をたてて回転をはじめた。老人が船底に尻餅をついた。

「な、なんだこりゃ!」
オーケストラのドラムが2メートルの距離でマーチのリズムを叩いている。すごい音だ。
「エタノールエンジンだよ。知らないのか?」
「こんなにうるさいのか!」
老人は怒鳴り声だ。それすらも爆音にかき消されてよく聞こえない。
「こいつは静かなほうだ! 座っときな。出発するぞ」

腰をおろす。ヒゲの男がプロペラを水中に沈める。ボートが水を切ってゆるやかに進み出した。
10メートル先に白い水鳥が浮かんでいた。向こう岸にそびえる超高層マンションが、荒川の水面にさかさまに映っている。水鳥がはばたき、マンションが揺れた。ボートは次第にスピードをあげていく。

老人がわめいた。
「おい、揺れすぎだ! ちっとはこっちの歳を考えろ」
「爺さんも、老人を敬おう運動とかやってんの!」
「歳を取ることに歳を取る以外の意味なんかありゃしない。運転が荒いと言っとるんだ!」
「小型ボートはこんなもんだよ! 3本の川が交差してるだろう。このへんは水流が入り組んでて波が高いんだ! 風を感じてみろよ。大型船じゃこの風は感じられないぜ!」
「乗り心地が悪いんだ! 落ちる。お、オープン主義者め!」
ふたりの男は、エンジン音に負けないように怒鳴り合っている。

ヒゲ男の言うとおり、風を感じてみる。11月の空気は頬を刺すようだ。髪が頬を打っている。舳先が水を斬り裂き、しぶきが飛ぶ。冷たくはない。砂粒がぶつかるようだ。ちょっとだけ痛い。だけれど、なぜか、それが心地好い。ボートが目指す先に、兄さまとフリスビーをした公園がある。

言ってみた。
「つまり、この場合の乗り心地はすっぱいぶどうというやつだな。本で読んだ!」
「そう、それだ! すっぱいぶどうだ! 嬢ちゃん、頭がいいな!」
「なにがすっぱいぶどうだ!」
「ボートの乗り心地も、犯罪のない世界も、情報の垣根がない世界も、床に落としたトーストも、告白できなかった女も、みんなぶどうだ!」
ヒゲ男はガハハと笑う。笑い声は風に流され、ボートがつくりだす泡に溶けていく。
「わ、わたしは子供も苦手だ!」
「実はわたしも苦手なのだ! わたしも子供だが!」
「そりゃあいい! で、どこに行く? 向こう岸でも中州でも、お望みのままだ!」

男が笑う。エンジンの爆音にサイレンが混じったのはそのときだ。真っ白な小型船舶が目の前に飛び出してきた。水鳥が飛び立った。船舶は一直線にボート目指して進んでくる。いままで、水門の影に隠れていたのだった。

「そこの未登録船舶、停船しなさい!」
冬の川に、割れた女の声がひびいた。
「やっべ。荒川警備隊だ!」
「警察か?」
「違う違う。このあたりの水上を仕切ってるお節介なNGOがあるんだよ。誰も頼んでないのにな。不法投棄とか、不法漁業とか、渡船条例違反とか、ライフジャケット着用義務違反とか、立ちション禁止とか、勝手に朝メシ抜いたらいかんとかいろいろ監視してるんだ」
「もしかして、おまえも追われているのか」
「そういうことになるな! つかまってろ!」

ヒゲ男は舵を切った。エンジンが唸りをあげる。体が右に倒れこんだ。老人は舷側を握りしめている。視界が斜めだ。川も桟橋も超高層マンションも、すべてこの世は傾いている。おもしろい。飛び散った水がボートの床に染みをつくった。

もしもななほしがここにいたら、盛大に喜んだだろう。

2007.04.05
第27話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(1)」丸田蔵人

パトロール艇が通りすぎた。水しぶきがあがった。青黒く澱んだ川水は、滴となって飛び散るときだけ白く輝いた。

「おい」
「しいっ!」

蛍光ピンクのライフジャケットを身につけた女性がパトロール艇の舳先で周囲に視線を配っていた。ボートのエンジンは停止している。聞こえるのはパトロール艇のエンジン音のみだ。自分と、少女と、ヒゲ面のオープン主義者の3人が小型ボートの狭い床にちぢこまっている。

「……ここにいて見つからないのか?」
問いに、ヒゲの男が答えた。
「光学迷彩シートが張ってあるんだ。向こう側からは葦の生えた水面にしか見えない」
「なるほどな。だからいつまでも捕まらないのか」
「そうだ」ヒゲ男はにやりと笑った。「嬢ちゃん。お父さん、お母さんには内緒にしといてくれよ。競争がなくなって寡占状態になると渡し賃が値上がりするからな」
「お父さんはいない」
「じゃあ、お母さんだけ。爺さんもよろしく」
「年寄りだと思うなら、もっと丁寧に運転しろ」
「爺さん、いくつ?」
「73だ」
「73じゃ年寄りとは言えないな。都合のいいときだけ年寄りのフリをするのはよくない」
「だったら爺さんと呼ぶな!」

パトロール艇が残した泡が水面ではぜ、消えた。エンジンの爆音が遠ざかっていった。息を吐いた。思ったよりだいぶ熱い空気が喉を通り抜ける。驚いた。

携帯デバイスで時刻を確認する。ソウルケアハウスでは、そろそろ小野寺がカウンセリングを終えているところだ。ライフログ発表会はまだ終わっていない。発表会会場の映像を確認したかったが、アクセス記録が残るとあとでまずいことになるかもしれない。我慢した。ヒゲ男が言った。
「15分くらい待ってくれ。そしたら向こう岸まで送るよ」
「15分、だな」

ボートが接岸しているのは荒川の中州だった。オープン主義者たちの居住地だ。赤羽の街と中州は地続きになっているが、川口へ行くにはあらかわ大橋まで戻らねばならない。徒歩だと30分近くかかる距離である。

「まあ、そんなに焦るなよ。ちょっと休もうぜ。キーマンティーでいいならサービスするよ。いい葉っぱを手に入れたんだ」
ボートの上で少女が立ちあがる。
「ここには近づくなと学校で言われているぞ」
「嬢ちゃんが近づいたんじゃない。操縦したのはおれだし、追いかけたのは警備隊だ。不可抗力ってやつだよ」
「なるほど。なら、いい」
少女は、中州へつづく桟橋へと跳び乗った。

「こんなところに子供を上陸させたらいかんだろうが」
「なんでだ。ここは自由の地だ。大人も子供も歓迎だよ。国籍、人種、年齢、男女、ヘテロとホモ、コーヒーが好きか紅茶が好きか、まったく関係ない」
「おまえら、全裸で歩き回ってるんだろう?」
「おいおい。オープン主義をなんだと思ってるんだ? ヌーディストとオープン主義は違う。みんな服を着てるし、日本語だってしゃべるし、2本の足で歩くよ。さあ、降りた降りた」

ヒゲの男にうながされ、合成樹脂製の桟橋に足を乗せる。
「それ、発泡スチロール製の浮き島だから気をつけて」
ぐらっときた。

先に降りた少女は、むきだしの茶色い土の上できょろきょろと見回している。

舗装されていない殺風景な荒れ地に、高さと幅が3メートル、奥行きが5メートルほどの直方体がごろごろと転がっていた。直方体の上には樽型のタンクが乗っている。下には車輪がつき、杭で地面に固定してあった。配色はさまざまだ。自然と調和した迷彩塗装もあれば、原色で派手な模様が描いてあるものもある。20世紀中南米の革命家の顔や、戦闘機や、アニメ調の女の子が描いてあるものもあった。そうしたコンテナ式住居が雑然と並び、あるいは連結し、1/2スケールのミニチュア街みたいな光景をつくりだしているのだった。

痛む腰を伸ばしながら進むと、膝ほどの高さのロボットがすべってきた。人間が見つけやすいようにするためか、てっぺんに旗がついている。ロボットは下生えに近づき、適当な長さにカットして通りすぎた。

「ひとけがないな」
ボートから降りたヒゲの男に声をかける。
「例の事件絡みで、今日は現場の仕事に行ってるやつが多いんだよ。普段はもっといる」
「仕事をしてるのか?」
「あたりまえだろうに。仕事をしないでどうやって生活するんだ。言っとくけど、優秀なプログラマーが揃ってるんだ。ここにミサイルが落ちてみんな死んだら、南関東のシステムの半分は使いものにならなくなるんだぞ」
「ほう。そりゃすごい」
「まったく、どういうプロパガンダに騙されたらそうなるんだか……」
男はぶつぶつと文句を言っている。

そのまま進むと、コンテナに囲まれたちいさな広場に出た。中央に人工的な切り株が据えてある。となりにあるかまどは自然石を組んだものだ。ビニール袋入りの木炭と流木が横に積んであった。切り株には中華包丁がぶっ刺さっていて、先に到着した少女が物珍しそうに切り株をつついていた。

「積層型の木製中華まな板だよ。水に浮くんで便利なんだ」
「せきそうがた?」
ヒゲの男は包丁をひっこ抜き、地面と平行に、切り株に切れ目を入れた。
「いちばん上をはがしてみるといい」
少女は切り株の一番上をめくった。ぺりぺりと音をたてて、まな板の表面が剥離していく。
「わあ」
目を輝かせている。
「便利なものだな」
「こうやって暮らすのもそろそろ半年になるからね。慣れもするよ」

広場の周囲に散らばっている荷物は、ひとつひとつがコンテナ化されていた。これなら流れても安心だし、おそらくタグがついていてすぐに回収できるようになっているのだろう。頭のいい連中だ。聞いていた話とだいぶ違う。宗教にかぶれたやっかいものというよりは、優秀さと奇抜さが突き抜けてしまった変人の集まりのようだった。それは、南関東のシステムをまかされているという言葉からもわかる。

カラフルな住居コンテナのドアが開き、もうひとりの男が出てきた。細い男だ。長い髪を頭の後ろでしっぽのようにくくっている。男は言った。
「お帰り。なんか電波出してる?」
「いや」
「ああ。また妨害か」
「なんなんだ?」
ヒゲの男に聞いてみた。
「市民団体がよく仕掛けてくるんだよ。ここらへんの通信をさせないように妨害電波を出すんだ。邪魔したって、周波数帯変えちゃうから意味ないのにな」
「いろいろと苦労してるんだな」
「まあね」
男は肩をすくめた。

川の真ん中というだけあって、ここは、いくらか空気が湿っているようだった。冬の川風は70を越えた身にこたえる。だが、夏はさぞかし爽快に違いない。これはこれで、悪くない。あと30年遅く生まれていたら選択肢としてないこともなかったかもしれない。気ままなひとり身にはグループホームより合っていそうだ。そんなことを考えた。まあ、ハナさんが中州のコンテナに住むとも思えないが。広場を見やった。一心不乱に中華まな板と格闘していた少女の姿がなかった。

これだから子供は嫌いだ。

2007.04.27
第33話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(2)」海神れい

その島は魔物が住むと言われていた。

正確には島ではない。下流のほうで陸地と繋がっていたから。正しくは中州というそうだ。だけれど、同級生のあいだでは、魔物が住む島だと言い伝えられていた。

学校の先生は言ったものだ。交通事故死のグラフは右肩下がりだけれど、犯罪の被害者となる子供の数は横ばいである。全国の街という街、道路という道路に監視カメラが設置され、すべての子供が位置情報システムによって追跡されているというのに、それでも被害に遭う子供は発生している。だから、あなたたちも、できるかぎり自分の身は自分で守らなければならない。危険な場所に近寄ってはいけない、と。

おーぷんしゅぎとかいう反政府主義者たちが集う島は、繁華街と並んで近寄ってはならない場所のトップツーだった。繁華街は別に危なくないし、なんでも記録して公開する集団が犯罪をしているとも思えなかったけれど、とにかくそうなっていた。

その島に、上陸してしまった。ふかこうりょくで。

ちょっと状況を整理してみよう。いまは、兄さまのところに届けものをしに行くところで、オノデラ・エミオというどうやら悪い人間じゃない青年に物陰から監視されていたりして、ななほしがいなくなって、それとは別にガイジンの大男に追われているらしくて、向こう岸に渡らなければならないのだけれど荒川警備隊のパトロール艇に追われてこの島へ漂着してしまって、ついでにボートを操縦していた男も同じく追われているらしく、兄さんは優秀な学者でたいへんな研究をしているので、大切な届けものが犯罪者につけ狙われるのもいたしかたない。しまった全然整理になってない。整理は苦手だ。

ヒゲ面で気さくなオープン主義者が住む魔の島は、ある意味魔界っぽいといえた。住んでいる連中は、兄さまの研究所にいる人たちと雰囲気が似ていて親しみが持てたけれど、場所は別である。街の中と違って、地面は舗装されていない。剥き出しの土だ。踏むとすこしだけやわらかくて気持ち悪い。そんな中に、背丈の倍くらいはありそうな直方体が林立している。社会科の教科書に載っていたコンテナをカラフルにしたような不思議な物体だ。それらが渾然一体となり、一種の迷宮状空間を形成しているのだった。

道とも言えない道をヒゲ男の案内で進む。広場に出た。真ん中に切り株がある。包丁の化け物みたいなものが突き立っている。さすが魔の島だ。アーサー王とかいうむかしむかしの伝説では、たしか岩に剣が刺さっていたはずだった。駆け寄った。つついてみる。こん、と澄んだ音がした。固かった。

「積層型の木製中華まな板だよ。水に浮くんで便利なんだ」
ヒゲ男が言った。
「せきそうがた?」
ヒゲの男は包丁の化け物をひっこ抜き、地面と平行に、切り株に切れ目を入れた。
「いちばん上をはがしてみるといい」
切り株のいちばん上をめくってみる。ぺりぺりと音をたてて表面が剥離していく。
「わあ」

低学年の頃、兄さまにアミューズメントパークに連れていってもらったことがある。その中に、ヘンなゴーグルをつけて迷路を回るアトラクションがあった。ゴーグル越しに見ると、兄さまの姿も、自分の姿も、ファンタジーに出てくる戦士のような格好になっていた。あのときのダンジョンに比べると、この島の風景はずいぶんとリアルな魔界だった。

ダンジョンの中でゴーグル越しに見ると、手に持ったへなへなの棒はごつごつしたこんぼうに変化した。触るとぐにゃぐにゃしているのに見ためは硬質で、車に酔ったような奇妙な気分になったものだ。何回か通っていると、カードに記録された情報がレベルアップして武器はつるぎになるそうだった。出現するモンスターが水色のクッションみたいで、攻撃するのが忍びなかったから、1度しか行ってないけれど。

いまの装備はぬののふくである。あまり格好よくないけれど武器はつるぎといっていいだろう。盾に持ち手がないのは問題かもしれない。ヒゲの男が切り株の上に置いた武器を、とりあえず振ってみることにした。頭の上まで振り上げて、一直線に振り降ろす。重い。いちばん下までいったときにずるっと手からすべり抜けて、土を踏み固めた地面に突き刺さった。左のつま先から1センチほど離れたところだった。さくっという音が、耳からではなく脚から伝わった。真四角の刃が光を散らした。

「なるほど」
つぶやいてみた。

右手に持った武器を上から下に振り下ろすときは、左足を前に出していてはいけないらしい。でないと自分の脚を切ってしまうからだ。ひとつかしこくなった。マニュアルに書いてないのは不親切だ。家に帰ったらアンケートのメールに書こう。まあ、ゆうしゃにマニュアルなんてないのかもしれないが。

ヒゲ男と爺さんは立ち話をつづけている。
邪魔するのもなんなので、ひとりで冒険に出ることにした。

2007.06.28
第52話「パラノグリッド〜ゆうしゃのぼうけん(8)」丸田蔵人

丸田蔵人切り株の上に、血液をレモン水でどこまでも薄めたようなキーマンティーと、焼いたゲソの切れっ端が置いてあった。

ゲソを噛んだ口にキーマンを含む。海くさいのだか山くさいのだか判断できない玄妙な香りが口腔に広がった。そもそも良い葉なのか悪い葉なのかもよくわからない。コンビニで売っている紅茶より薄い匂いであることだけはたしかだった。
「合わないな」
つぶやいた。目の前に座っているヒゲのオープン主義者がこたえる。
「そうかな。敢えてこう考えてみるのはどうだ。ゲソをキーマンで食うことこそ、日本独自の文化ってやつなんじゃないかと。なにしろキーマンの大部分を消費するイギリス人はイカを食わないっていうからね」
「おまえさんはいつもそんな与太話をしているのか」
「いや、これはさっき人から聞いた話」

中州に到着してからかなりの時間が経過しようとしていた。オープン主義者のボートに乗って荒川を渡ろうとしたところ、荒川警備隊とかいう連中に追いかけられ、彼らの根城である中州に上陸することを余儀なくされたのだ。同乗していた少女はどこかへ行ってしまって、まだ帰ってきていない。しかたがないので、ヒゲのオープン主義者に誘われるままオープンエアのティータイムを過ごしている。テーブルは切り株で、椅子はうんうんと唸る得体の知れない立方体だ。ヒゲ男が言った。

「女の子、帰ってこないな。お孫さん、だったっけ?」
「違う。子供は嫌いだと言っただろう」
「そうか。おれは嫌いじゃないけどな。いまの年配者には嫌いな人が多いみたいだね。あんたたちが子作りに励まなかったから、日本の人口はじゃかすか減っちゃったのかもしれないよ」
「余計なお世話だ!」

色とりどりのコンテナのあいだから男が姿を現したのはそのときだ。
「Are you happy? I'm happy!」
甲高い声で男が叫ぶ。彼は後ろ向きに歩いていた。ムーンウォークというやつだ。この目で見るのは30年ぶりくらいのことだった。男がつづけた。
「おはよう諸君! 素敵な陽気だな! 鳥よ! 雲よ! 磐城平よ! 嗚呼、川はなんて素敵に流れているのであろうか。断定推量うひょひょひょひょ。おうい、荒川警備隊さーん! お捜しの逃亡者はここだよう!」
「呼ぶなバカ!」
「そいつは失礼。がははははは」
なんだかとてつもなくうるさいのがやってきたようだ。男は空中に向かって話しつづける。

「いまなら川も歩けそうな気がするよ。キタキタキタキタ。うんうん。同じ中国四千年の文明を受け継ぐ烈海王にできてぼくにできないってことはないよな!」
「よかったな。歩いてこい」
ヒゲ男が返答する。
「オッケー! がってんしょうちのすけ!」
男はそのまま走っていった。しばらくして、川のほうでぼちゃんと盛大な音がした。

「……なんだあれは?」
「ハッピーなんだよ、あいつは。よく飼い犬や猫にチップ入れたりするだろ。でもって、ボタンを押すと、撫でてくれって寄ってきてくれるようになる。原理はあれと同じなんだ」
「あんなのを放置して問題は起きないのか」
「いいんだ。2〜3時間のことだから」
なにごともないという表情でヒゲ男が答える。キーマンをひとくちすすった。水が冷たくてステキーと叫ぶ声が彼方から聞こえてきた。どうやら溺れてはいないようだった。すると、ハッピー男が後ろ向きに歩いてきた方向に人影が見えた。少女と見知らぬ男だ。男には首がない。玩具の剣とまな板を装備した少女が、首を小脇に抱えた男に連れられていた。キーマンを飲みほし、ヒゲ男に言った。
「話に聞いてるほどここは悪くないな……まあ、変な連中もいるようだが」
「だろ?」
ヒゲ男は口の端に笑みをへばりつかせた。

少女が近づいてくる。それに合わせて立ちあがろうとしたとき、ポケットの中で携帯デバイスが鳴った。電話ではない。公開しているPSP番号が誰かの位置検索対象になったことを知らせるアラーム音である。めずらしいこともあるものだった。
「お、尋ね人だね」
「この歳でそんなのがあるものか。おおかた施設のお知らせなんかだろうよ」
デバイスを引っぱり出す。メッセージが表示されていた。

——小野寺明さんがあなたを捜しています。

背筋を電撃が貫いた。戦慄は表情に出たかもしれない。
「爺さんも意外と隅におけないねえ。もしかして、両想い?」
ヒゲのオープン主義者の声が遠く聞こえる。この男が考えている関係とはだいぶ事情が異なるが、たしかに、両想いであることには違いない。奴がおれを捜しているからには。しかしなぜ小野寺がおれを。奴を殺そうとしていることは、誰にも言っていないし書きとめてもいないのに、なぜ奴が……。

デバイスを握る手に汗がにじみはじめた。つるつるとすべってデバイスを落としそうだ。河原の風も、冬の陽光も、キーマンティーの香りももう感じない。ボタンを押す。指が震えて2度押した。時刻が表示された。残り時間はあまりなかった。

本当はわかっていたのだ。今日という日、ハナさんとの障害となる小野寺を殺すと勢いこんで起きたものの、時間が経過するにつれて気力が薄れていったことに。ここで座って茶を飲んでいたのは己の弱さの表れだ。出会ったばかりの少女を待つという名目のもと、殺害計画実行を先延ばしにしていたのだった。ハプニングが起きたのだからしかたがないと思いこもうとしていた。自分の人生はいつもそうだった。そうやって実行を延ばし延ばしにして、とうとう70を越えてしまった。わかっているのだ。すべてわかっている。この人生は、選択をしなかった人生だ。いままでいくらでもチャンスはあった。だけれど、失敗することも成功することもどちらも怖かった。いまもためらっている。殺害が怖いのではない。そんなものはどうでもいい。可能性を喪うことが怖いのだ。小野寺明を亡き者にすれば、彼を殺さなかった未来はなくなる。それがとてつもなく怖い。

だけれど。
きっと、神さまは、今日このとき、最後のチャンスをくれたのだろう。

先延ばしにしたら、それは失敗を選んだのと同じことだと気づくのに70年以上もかかってしまった。今回ばかりは実行しなければならない。小野寺を亡き者とし、ハナさんに告白する。それしかない。なにをためらっている。失敗してもいいではないか。もう、オッズはそれほど高くない。もともと未来など、そう豊饒たるものでもないはずだ。残りの人生を刑務所で過ごすことになったからといってなんなのだ。親しい友人もいない。遠出もしない。食事の時間も決められている。自治という名の共同生活のルールを押しつけてくるソウルケアハウスは刑務所と一緒だ。

「そろそろ行くかい? 彼女の大冒険も終わったようだし、荒川警備隊もいなくなったようだし」
ヒゲのオープン主義者が言った。
切り株に手をかけ、立ちあがる。震えは収まっている。できるかぎりの笑顔を返した。
「世話になった。ゲソはまずかったが紅茶はうまかった」

2007.07.24
第60話「古本2045(3)」名も無い男

「ごくろうさん。日当だよ」古本屋は言った。「現金払いがいいのかな?」
「カード決済でいいです」
「助かるよ」

古本屋の携帯デバイスに向け、内側を表にして手首を差し出した。脈を取るときにさわる場所に十字形をした黒い物体が埋め込んである。チップ型のPSPカードだ。キリスト教系の慈善団体が発行しているものだった。体温だか鼓動だか筋電流だか、とにかくそんなものをエネルギー源として半永久的に動くと聞いている。

ホームレスなどということをしていると、意外と、現金よりもPSP決済のほうが役に立つものだ。現金の取引は人間の手を介す必要があるが、PSPカード決済なら自動引き落としで済むからだ。この埋め込み式カードは維持手数料もかからない。慈善団体に居場所を知られる不都合はあるが、他の団体が提供する公共サービスに比べれば制約はすくなかった。

むかしは、猫や象は、死期を悟ると人間が知らない場所に行ってひっそりと死ぬと言われたものだ。いまや、動物はおろか人間だって、人知れず死ぬことはできない。ホームレスに限った話ではない。人はかならず骸を他人に晒す。誰の世話にもならないことを選択した老人でも同じだ。そうした老人たちは、PSP情報が住居内の一点でまったく動かなくなり、自治会が部屋を訪ねて死んでいることが判明するという。

プライバシーとは、カメラがリアルタイムで部屋の中までは入ってこないことであり、どこにいるかを知られないことではない。それは買い物でも同じだ。デジタル情報の閲覧権を購入すれば著作権管理団体に個人情報が渡る。かつてのように、コンビニで、誰にも知られずエロ雑誌を買うことはできない。本があふれていた時代ははるかむかしに終わってしまったのだった。

「またなにかあったら頼むよ」
そう言って古本屋は去っていった。枯れた葦が揺れている。荒川の風が、大量の本があったという記憶を吹き飛ばしていった。あとには、労働で疲弊した体と、1冊の雑誌と、てのひらに染みついたかすかな紙魚のにおいが残っているばかりだった。

川のほうから割れた声が聞こえた。
「そこの未登録船舶、止まりなさい!」

振り向くと、真っ白なパトロール艇に小型ボートが追尾されていた。追われているのは中州を根城にするオープン主義者、追っているのは荒川を警備するNGOだろう。このNGOは、河原で生活するホームレスにもときおりちょっかいをかけてくるやっかいな連中だ。放棄された場所で誰にも迷惑をかけぬようひっそりと暮らしているというのに。

川口と赤羽に挟まれた荒川を上空から見ると、アルファベットのYのように二股に分かれている。Yの字の上半分の左側が荒川、右側が隅田川である。分かれた部分の荒川河川敷は、南関東州の川口の街と隣接している。ところが、行政区分では、そこは東京首都特別州の管轄なのだった。いくら金あまりの東京首都特別州といえど、飛び地となった細長い河原を管理するために人を雇うほどヒマではない。そういうわけで、荒川の河川敷は、いつしかホームレスたちが住みつくようになっていた。

目の前の川岸でボートが急停止した。小用を足すために川に向かって粗末な板が延びているところだ。運転していたのは中途半端な長さの髪にヒゲを伸ばした男だった。男は言った。
「すまんな。ここが精一杯だ。降りてくれ」
「すまんで済むか」
「まさかカジノと結託して警備隊が隠れてるとは思わなかったもんでね。悪いなジイさん」
「そんなものは理由になるか。こら、揺らすな! 降りられんだろうが」

ボートに乗っていたのは3人だ。オープン主義者らしき男と、老人と少女である。ぶつくさと文句を言っているのは老人だ。少女は、玩具の剣と半透明の円形状物体を大事そうに抱え、軽快にボートから跳び降りた。

「そこの未登録船舶、動くな!」
「動くなと言われて動かない奴がいるかよってーの。じゃあな!」
けたたましい音とともにボートが急発進する。青黒い水面から透明な飛沫が舞いあがった。老人が罵声を吐く。NGOのパトロール艇が、割れた叫び声をふりまきながら追いかけてゆく。

「やれやれ。大変な目に遭った」
老人は、濡れた脚をぶらぶらと振りながら歩いてくる。少女がこちらに気づいたようだ。踏み固められた土を軽やかに走ってきた。
「おまえは新しい村の村人なのか?」

老人を見ると、水べりで濡れたパンツの裾を絞っているところだった。同じボートに乗っていたというだけで、少女の肉親というわけではないのかもしれない。普通、ホームレスに子供は近づいてこないし、保護者は子供を近づけさせない。

「話してくれないとわからないぞ。もしかして、人の形をしたモンスター?」
「違うよ。お嬢さん」
「わたしはゆうしゃだぞ? 兄さまのところまでぼうけんに行くところなのだ」
少女は剣を持ちあげる。
「そうか。勇者さんか。剣を持ったお姫さまかと思ったよ」
「お姫さま?」
「そう。お姫さま。英語で言うとプリンセス」
「プリンセスか……プリンセスも旅をするのか?」
「いやまあ、旅くらいするんじゃないかな。きょう日のプリンセスは」
「なるほど。たしかに、兄さまの妹はゆうしゃよりもプリンセスのほうがいいかもしれない」

思案顔で少女は剣をおろした。それまで勇ましく大地を踏んばっていた脚が、なぜか内股に変化するのが見てとれた。

2007.07.25
第61話「好き好き大好きハナさん(6)」丸田蔵人

丸田蔵人警備隊に追われたオープン主義者のボートが上流へ消えていった。

上陸地点は、あらかわ大橋から500メートルほど下流の河川敷らしかった。親水公園の船着き場から200メートル以上離れた場所である。手製の桟橋に見えたのは、護岸ブロックの上に板を渡しただけのものだ。風化した板は体重で歪み、強く踏んだら折れてしまいそうだった。

眼前に広がる河原には枯れた葦が密生し、ところどころ葦の隙間からブルーだったりグリーンだったりする防水シートが覗いている。全体を見回すとカーキ色のカーテンで覆われた迷路のようだ。つまりここは、河川敷にあると噂のホームレスの集落なのだった。やれやれ。今日はとんだ大冒険だ。オープン主義者め。ひどい目に遭わせてくれる。

一緒にボートに乗ってきた少女はホームレスらしき男となにやら話していた。エタノールエンジンの爆音で耳がやられたらしく、なにをしゃべっているかは聞こえない。まったく、この少女ときたら怖れというものを知らない。街中で宇宙人に遭ったとしても、なんのてらいもなく話しかけそうである。子供のパワーはすごい。

ホームレスの男は40代から50代といったところだった。髪はほつれ波打っていたが、身なりはこざっぱりとしている。とりたてて危険はなさそうだ。放っておくことにした。それより考えなければならない問題が山積している。これからどうしたものか。パンツの裾を絞りながら思案した。11月の水は冷たい。えい、いまいましい。

奴はなぜ自分を追ってくるのだろう。

小野寺明は、現在、スーパー堤防上を歩いている。ちょうどホテルの真横あたりだ。携帯デバイスに表示されていた。そもそも奴は、ソウルケアハウスの住人ではない。他の場所に家族と同居している通いの人間だ。もちろん、ハウスで会えば短い会話はする。ハナさんというひとりの女性を巡って対立状態にもある。だが、表立った交遊関係はない。ひょっとして、今日起こるはずの混乱に乗じて小野寺も恋敵を亡き者にしようとしているのだろうか。いやいや、そんなはずはない。

わざわざ小野寺のほうから近づいてきているのをチャンスだと考えるのはどうだろう。いや、それはない。殺害前に一緒にいるところが監視カメラに映ったらまずい。待て。奴がこっちを位置検索していることは記録として残ってしまっている。これはよくない。このまま一度も会わずに小野寺が死体となって発見されれば怪しまれるはずだ。オープン主義者とおせっかいな民間警備隊のせいで、すでに普段の生活パターンからかなり逸脱した行動をとってしまっている。この上怪しまれるようなことをするのはよくない結果を生むだろう。

だが、この河原で奴と遭遇するのは嫌だった。他に人がいる。見られている。いや、人がいるほうがかえっていいのかもしれないぞ。他人に見られた状態で友好的な会話をすればアリバイになる。それならば、ホームレスと少女よりは一般の人間がいいだろう。さらにいいのは監視カメラに友好的な会話が映ることだ。河原はカメラがすくない。ならば逃げるか……思考が堂々巡りをしていた。考えれば考えるほどわからなくなった。

「逃げちゃいかん。逃げちゃいかん」
口の中でつぶやき、深呼吸をした。ここは、冷静に考えてみよう。はるかむかしに仕事で習ったはずだ。こういうときは5W1Hで考えるといい。when, where, who, what, why, how——すなわち、いつ、どこで、誰が、なにを、なぜ、どうするのか。

whoとwhatは考えなくていい。小野寺と自分が会うことだ。なんだか知らないが小野寺には用があって、位置検索したことが記録に残っている。つまり、奴に会わないよりは会ったほうがいい。これがwhyの解だ。小野寺殺害を完全犯罪とするためには、事前に奴に会っておかなければならない。

では、whenはどうか。いつ小野寺と会うのが最適か。いますぐ会う意味はないだろう。セキュリティが解除されるまでまだ1時間以上ある。どうせ会うなら、解除される直前がいい。それだと死ぬ直前に会った人間ということになるがしかたない。ここはあきらめる。会ったときに奴のパワーアシストスーツにバグを仕込み、致命的な事故を起こさせるのだ。iJeansなどというセキュリティホール丸出しのパンツをはいているのが運の尽きだ。

残りはwhereとhow——どこで、どうやって遭遇すればいいのか。ここで待っていれば小野寺が勝手にやってきてしまう。時間を稼ぐためには、奴と反対方向に移動しなければならない。ところが、堤防上の道はマンションで行き止まりだ。先はない。小野寺がやって来ている方向へ行くしかない。

「オープン主義者め、河原沿いになど泊めおって。道もないではないか」
毒づいた。少女が振り向いた。そして、奇妙なイントネーションで言った。
「道がなければ河原を歩けばいいのですわ。じい」
「そんなわけにいくか。それに、爺なんて呼ぶんじゃない」
「あら、残念ですわ。名案だと思いましたのに」

「そうでもないかもしれないよ」
会話に割り込んだのはホームレスの男だ。
「なんだと?」
「たしかに河原に道はない。堤防の上の道もマンションで途切れている。だが、上流に行けばすぐに公園があるし、下流に500メートルほど歩いていけば荒川に流れ込む支流にぶちあたる。そいつにはちいさな橋がかかっている。下が水門になってる橋だ。河原だって捨てたもんじゃないんだ」
「ここには抜け道があるのか」
「あるよ。車だって入ってこれる。そうでもなけりゃ、公園とマンションに挟まれた状態でおれたちはどうやって移動するんだよ」
「それはそうだな」

ならば、小野寺が到着する前に早々に立ち去るべきだろう。少女を連れていくという選択肢はない。だが、ホームレスと一緒に子供を置いていってよいものか。まあ、南関東州ではガキこそ安全だという説もあるが。どうせ位置情報は親ががっちり把握しているのだから、生半可な犯罪に巻き込まれたりはしないのだ。

こちらの気も知らず、少女は、まないたの切れ端に剣を突き刺したりしている。呑気なものだった。
「わたしはこのまま下流を目指すことにするよ。ここでお別れだが、だいじょうぶかね」
「じいには用があるのですね」
「うむ。ま、まあな」
「お名残惜しいですけれど、わたくしはだいじょうぶです」

少女の頭の上で、玩具の剣に刺したまないたの切れっ端が揺れていた。日傘でもさしているつもりなのか。またぞろおかしな遊びをはじめたようだ。言葉遣いも最初と違う。子供はよくわからない。
「そうか。なら、悪いが、わたしは行く」
下流にあるという橋を目指し、人間の背丈ほどもある葦を掻き分け進み出した。背後から「ごきげんよう」という時代がかった別れの言葉が聞こえた。振り向かず、肩越しに左手を振った。

ヘンなガキだ。やはり子供なんぞいなくて正解だったかもしれぬ。

[登場人物]
海神れい
海神れい
海神結
海神結
小野寺笑男
小野寺笑男
山出さくら
山出さくら
小野寺明
小野寺明
君島フランツィスカ史帆
君島フランツィスカ史帆   

2009年12月

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ギートステイト休載のお知らせ 『ギートステイト』理論タグで描かれたように、この時代、南関東州の人々の生活空間は市場原理に則ってゾーニングされ、互いのライフスタイルに関して寛容な社会、あるいは無関心な社